第58話 副会長としての自覚はありますか
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六月下旬。
放課後の生徒会室は、静かに熱を帯びていた。
窓の外は、もうすぐ夕方という色をしている。
遠くの空から薄いオレンジが校舎の壁へと伸びていき、グラウンドから部活の掛け声が、波みたいに途切れ途切れで届く。
この時期は文化祭の企画準備が始まる時間。
生徒会役員にとっては、締切に追われる季節。
机の上には、各クラスから提出された企画書の束。
その横に、黒いUSBメモリが無造作に転がっている。
たったそれだけの小さな物体に、学校中の「楽しい」が詰め込まれている。
副会長の仕事は、いつも静かに重い。
仕事量が多いのに、目立たない。
誰かの“当たり前”が成立するように、裏側で削れていく役職。
三年生副会長の瀬戸晴翔は、陽向の隣でExcelを開いている。
眼鏡の奥の瞳は、熱じゃなく“精度”で光っていた。
「火気使用クラス、三つ。安全管理チェックまだ甘いな……」
淡々と、音だけが落ちる。
瀬戸晴翔は安全基準、火気・電源の可否、規約違反、予算超過、一覧表作成。
副会長としての“正しい仕事”を、ミスなく片付けていく。
陽向は別の戦い。
各クラス実行委員からの提出漏れ確認や催促などのやり取り、企画書のファイル名統一、フォルダ整理、企画書PDF化。
地味で、単調で、でも一つでも崩れると全体が詰まる“整理係”。
共有PCのモニターに表示されたフォルダ名が、やけに無機質に見える。
“フォルダ:文化祭202X_企画書”
陽向は画面に向かったまま、ファイルを開く。
「1年4組_企画書.docx」
PDF化して、審査用フォルダへ。
(えーと…これをひとつずつ……)
保存。
名前を入力。
Enter。
画面が一瞬、点滅する。
次のファイルに手を伸ばした瞬間──
指が、止まった。
「あれ?」
フォルダ内にあるのは、
“1年3組_企画書.pdf”だけ。
Wordの元データがない。
心臓が、すこし遅れて跳ねた。
「……え?」
マウスが滑る。検索窓に打ち込む。
“.docx”
出てこない。
USBを開く。
ない。
ごみ箱を開く。
空。
背中の皮膚が、ひやり、と冷える。
(待って待って待って……)
脳が勝手に、直前の自分の動きを再生し始める。
PDF保存のとき、同じ名前で保存した。
……元データを消した。
さらに、そのあと整理のつもりで“不要ファイル”を削除した。
(…え………ガチ……?)
喉の奥が、急に乾く。
呼吸が浅くなって、肺の中に空気が入ってこない。
「……うわ……っっ!!やば……!!」
自分の声が、思ったより大きく震えた。
陽向の声に、瀬戸晴翔は振り返る。
「……なに………やめて……?」
なにかを察した恐怖で震える声が、現実みたいに落ちる。
「いや…ちょ……」
もう一度、確認。
願いみたいに繰り返す。
でも、結果は変わらない。
画面は冷たいまま、空白のまま。
「……わーーーーーっ!!!!」
椅子の上で足が小さくバタつく。
机に額を落として、現実に抵抗するみたいに突っ伏した。
「やっちゃったやっちゃったやっちゃった……」
声がかすれる。
焦燥が、背骨を伝って身体を支配していく。
瀬戸晴翔が慌てて画面を覗き込んだ。
マウスを動かす。
早い動きでクリックする音が、室内に響き渡る。
「………………消しました?」
陽向はゆっくり顔を上げる。
目が熱い。
視界が滲みそうで、瞬きを繰り返す。
「1年2組と……多分……1年3組も……」
一瞬。
部屋の空気が止まった。
瀬戸晴翔はマウスを動かして、フォルダを淡々と確認する。
その沈黙が、怒鳴られるより怖い。
「バックアップは?」
「……取ってないで……す……」
静寂。
怒鳴らない。
だからこそ、全部が自分に刺さってくる。
瀬戸晴翔は、深く息を吐いた。
「…ねぇ……明日が締切だって分かってる?」
声が低い。
責めているというより、“事実”だけを置く声音。
陽向は俯いて、言葉が出なかった。
「文実(ぶんじつ※文化祭実行委員)のPCに元データあると思うから、消したクラスの文実に連絡してください。部活中かもしれないから連絡つかなかったら、僕らも時間ないので職員室行って、各担任にメール送信されてるか聞いてきます。素直に頭下げて、もう一回データ貰うしかありません。」
冷静で、的確で、完璧なリカバリー案。
それが余計に、陽向の無力を照らす。
陽向は震える指でスマホを取り出し、文化祭実行委員グループLINEを開く。
クラス実行委員に連絡を入れる。
通話。
呼び出し音。
切れる。
出ない。
一人、また一人。
誰も出ない。
部活や移動の電車。
この時間帯は、多くの生徒が連絡つかないのは普通なのに。
今の陽向には、それが世界の悪意に見えた。
「出ない……ので……LINE入れます。」
「いいです。職員室行った方が早いから行ってきます。」
瀬戸晴翔は立ち上がる。
「あっ!私行きます!」
咄嗟に口が動く。
やらかしたのは自分だから、せめて自分が走りたい。
しかし瀬戸晴翔は、陽向を見ずに言った。
「星野さんは再提出用フォーマット準備して下さい。」
「……………すみません……」
椅子に沈む。
謝罪が、喉の奥で絡まる。
そこへ瀬戸晴翔の溜め息が、もう一度落ちた。
眼鏡を押さえ、言葉を選ぶ気配すらなく、衝撃の一言が降ってくる。
「星野さんってさ……副会長の自覚ある?」
空気が凍りついた。
息が止まる。
胸の奥の柔らかいところを、冷たい指で掴まれた感覚。
瀬戸は、静かに続ける。
静かだからこそ、逃げ場がない。
「昨年は初めての役員だったし、1年生だったので大目に見てあげられましたけど……副会長は書記の頃と違って、他の役員の何倍も仕事量多いですよ?」
言葉が、紙の束みたいに積み重なっていく。
「藤崎会長が、だいぶ星野さんの仕事を影ながらフォローしてるの分かってます?僕も結構人より仕事早いから、藤崎会長は”本来星野さんがやるべき仕事”を、割とサラッと僕に振ってくるけど、正直結構負担になってますからね。」
心臓が、ぎゅっと縮む。
俊輔のその優しさは、今は刃となって陽向へと戻ってきた。
「役員のみんなは優しいから…誰も星野さんに何も言わないですけど。でもそれはやっぱり、星野さんの為に良くないと思うから、僕は言います。」
陽向は、声が出ない。
「星野さんは次期生徒会長ですよね?この学校を背負って立っていくんですよね?このままだと、あなたが絶対苦労すると思うので。」
その瀬戸晴翔の言葉に、陽向は咄嗟に。
「…いや……私は……」
”生徒会役員を、来年は続けるつもりはありません”
喉まで出かかった言葉を、飲み込む。
今それをここで言うのは、なんか違う。
そんな言葉で自分を守りたくなくて、何も言えなくなる。
「全校集会で、藤崎会長から全校生徒へ向けて“お墨付き”貰ったんですよね?」
瀬戸晴翔は椅子を引いて立ち上がり、扉へ向かった。
「じゃあ僕、職員室行ってくるから。後輩役員も入ってきたわけだし……“ロールモデル”として頑張って下さいね。“優秀”で、“御前上等”な副会長さん。」
新役員の二年生会計、相田桜子の言葉や、俊輔が全校集会で壇上で語った言葉を使った皮肉が、綺麗に整った言葉で刺さる。
ピシャンッ。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
陽向は、ぎこちなく椅子に座り直した。
手が震えて、キーボードに触れる指が冷たい。
画面に、新しいフォルダを作る。
【再提出用】
「…………………。」
打ち込んだ文字が、滲む。
ぽとり。
涙がキーボードに落ちた。
自分の涙なのに、驚くほど冷たい。
(……………向いて……ない……)
副会長なのに。
迷惑しかかけてない。
悔しいとか、腹が立つとか。
そういう“戦う感情”が、どこにも湧いてこない。
ただ、悲しい。
涙が、勝手に溢れて止まらない。
作業を進めなきゃいけない。
瀬戸副会長はすぐ戻る。
フォーマット準備をしていないと、次の段取りが崩れる。
分かってるのに──手が動かない。
(…もう…………無理…………)
胸の奥で、自分が自分を突き放していく。
こんな自分が、やっぱり嫌い。
自信を持てたはずだった。
自分を好きになれたはずだった。
でもそれは──
誰かが黙って支えてくれたから成り立っていた幻想だった。
当たり前みたいに与えられてきた善意に甘えて、上手くやれてると勘違いしてただけだった。
私の、自分の力じゃない。
結局誰かの力を借りないと何も出来なくて。
誰かに守られてないと戦うことも出来なくて。
こんな自分。
今すぐ消えていなくなりたい。
キーボードに手を置いたままの指先が、石みたいに重い。
画面が滲んで、文字の輪郭がぼやける。
呼吸が、うまく吸えない。
全身から吹き出す汗。
視界の端がゆらゆら揺れる。
頭の中に、ノイズみたいな音が広がっていく。
真っ白に霞んでいく──頭の中。
やばい……パニックだ……
駄目だ。
この状態の私の脳は、一切の機能を全て失う。
思考が分解されて、言葉が意味を持たなくなる。
数字はただの記号になる。
ファイル名は模様に見える。
無理に作業を続けても、もっと大きな事故になる。
窓の外では、夕方の光がゆっくりと角度を変えていく。
橙色が床を這い、机の脚を長く伸ばす。
部活の掛け声が、遠くで波のように寄せては引いていく。
世界はちゃんと動いているのに。
時間は、止まらないのに。
陽向だけが、その流れからこぼれ落ちたみたいだった。
(…瀬戸副会長………ごめんなさい…………)
声にならない謝罪が、胸の内側に沈む。
怒鳴られたわけじゃない。
罵られたわけでもない。
ただ、正しいことを言われただけ。
机の上に置かれた企画書の束。
黒いUSBメモリ。
さっきまで恐怖の象徴みたいに見えていたそれを、陽向はゆっくり両手で掬い上げる。
封筒に入れる。
端を揃える。
空気を抜く。
封を閉じる。
その動作一つ一つを、深呼吸と一緒に行う。
吸って。
吐いて。
(はい。入れたね。私は確実にここに入れたぞ。いいな。わかったな。)
自分に言い聞かせるみたいに、心の中で繰り返す。
さらにクリアファイルに入れて、スクールバッグへ。
何度もそれを自分で指を刺す。
チャックを閉める。
最後まで。
止まるまで。
カチリ。
その小さな音を、何度も頭の中で反芻する。
しゃがみ込む。
机の下も、机の上も、パソコンの裏も全てを、確認する。
大丈夫。
全部持った。
入れた。
閉めた。
確認。
確認。
確認。
パニックの波の中で、そこだけが錨みたいに、現実へ繋ぎ止めてくれる。
これらを持ち帰らずにここに置いていくのは、責任を放棄するのと同じ気がした。
そして何があっても、私が何を言っても、瀬戸副会長や他の役員達が私の仕事を私の代わりに終わらせる。
そして俊ちゃんは、きっとそれについて私に何も言わない。
そうやって、また“誰かの善意”で今日が回る。
当たり前のように。
誰かのリカバリーで平然と成り立っていく。
(それだけは………絶対に嫌だ。)
陽向は静かに立ち上がった。
椅子の脚が、床を擦る小さな音。
誰もいない生徒会室。
橙色に染まる長机。
扉を開けると、廊下の空気が少し冷たく感じた。
昇降口へ向かう廊下。
窓ガラスに映る自分の顔は、ひどく弱々しい。
目が赤い。
鼻も少し赤い。
スマホを取り出す。
指がまだ少し震えている。
LINEを開く。
瀬戸副会長の名前。
“明日の朝、早く登校して作業します。大変申し訳ありません。”
それだけ。
言い訳も、感情も、付け足さない。
送信ボタンを押す。
既読がつくかどうかを見る勇気はなくて、すぐに画面を伏せた。
廊下の蛍光灯が、一つ、ぱちりと点いた。
夕方は、夜へと移ろうとしている。
陽向は、スクールバッグの持ち手を握り直した。
その中に入っている重さが、今日はやけにずっしりと感じられた。
数分後────────。
ガラッ。
生徒会室の扉が開いた。
夕方の空気が、ひやりと室内へ流れ込む。
廊下の蛍光灯はもう半分が点灯していて、白い光が床を冷たく照らしている。
(あれ……星野さん?)
電源の落とされたPC。
黒い画面に、窓の外の橙色が鈍く映り込んでいる。
整頓された机。
さっきまで散らばっていたはずの書類は揃えられ、椅子はきちんと机の下に入っている。
そして。
机の上から消えた、企画書の束とUSB。
静かすぎる。
さっきまで確かにここにあった“焦りの残り香”だけが、空気に薄く漂っている。
「……………逃げたな……」
小さく吐き出した声は、怒りというより、諦めに近い。
瀬戸晴翔はブレザーの内ポケットからスマホを取り出し、画面を開く。
“明日の朝、早く登校して作業します。大変申し訳ありません。”
その一文が、やけに丁寧で、やけに硬い。
朝?
一人で?
もしまたミスやトラブルがあったらどうする?
朝の小一時間やそこらで一人で全部終わらせられる?
そもそも彼女がちゃんと朝早く起きて学校に来られるか?
言葉は冷静でも、思考は速い。
理屈で状況を分解していく。
“星野さん、今どこですか”
送信。
“USBと企画書、もしかして持ち帰ってる?”
送信。
“まだ電車乗ってないですよね?僕が代わりにやっておく。受取りに行くので戻れませんか”
既読はつかない。
「………………。」
通話をかける。
呼び出し音が、やけに長く感じる。
出ない。
「……………く………ぐぐ……」
奥歯を噛みしめる。
(せめてUSBと企画書を生徒会室へ置いていけーーーーーー!!!!)
心の中で独り言が爆発する。
あれを持ち帰られたら、管理責任は完全にこちらの手を離れる。
万が一紛失でもされたら、取り返しがつかない。
副会長としての最悪の想定が、脳裏を過る。
「はぁ〜〜〜〜〜」
深く、長い溜め息。
もう今日何度目かも分からない。
怒りたいわけじゃない。
彼女を追い詰めたいわけでもない。
ただ、“仕事”として成立させたいだけだ。
副会長という立場は、優しさよりもまず、事故を起こさないことを求められる。
もう無理だ。
今日はこれ以上、追えない。
瀬戸晴翔は、俊輔とのトークルームを開いた。
指が一瞬止まる。
何と書くべきか。
どこまで言うべきか。
“申し訳ありません。企画書の締切、明日ですが一日だけ提出遅れても大丈夫でしょうか。ご迷惑をおかけしてすみません。”
送信。
理由は書かない。
書いても、彼はきっと咎めない。
そして彼女への改善対策も………打たない。
むしろ、全部自分の責任として抱え込むだろう。
彼は彼女の味方をし、甘やかし、守る方向で動く。
そしてその分、只でさえ生徒会長として忙しい自分の仕事はまた増える。
彼女の仕事の肩代わりをして。
画面を伏せる。
静かな生徒会室。
夕陽はほとんど消えかけ、窓の外は群青へと変わりつつある。
瀬戸晴翔は天井を見上げた。
「まったく……なんで藤崎会長ほどの完璧な人が………あんなポンコツ星野さんのどこがいいんだか。」
吐き出した言葉は皮肉めいているのに、その奥には理解できないという本音と。
少しだけ──
羨望が混ざっていた。
自分の方が何倍も有能な筈なのに。
生徒会長からの評価は彼女の方が高い。
完璧な人間が、あんな不器用で危なっかしい存在を迷いなく選び続ける理由。
それを、瀬戸晴翔はまだ理解出来ない。




