第57話 一難去ってまた一難
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そして迎えた、総選挙当日。
体育館の床は、朝の光を淡く反射していた。
ワックスの匂いと、微かな埃の気配。
並べられたパイプ椅子が整然と揃い、ざわめきが天井の梁に絡みつく。
一年前のこの舞台で、自分の人生はひっくり返った。
壇上に立った時の、あの足元の頼りなさ。
膝が、意思とは無関係に震えていた感覚。
マイクを握る手が汗で滑り、声が喉に引っかかって、何度も息を吸い直した。
あの日の体育館は、やけに広くて、やけに遠かった。
壇上から見下ろした最前列。
生徒会役員たちは、まるで別世界の住人みたいだった。
整った姿勢。
揺るがない視線。
圧倒的な存在感。
偉大で、遠くて、眩しかった。
それが今。
自分は、副会長という肩書きで。
憧れていた俊輔の隣に座り、最前列から壇上を見上げている。
信じがたい状況に、現実味がない。
それでも自分は今──
ここにいるんだ。
陽向は、そっと隣を盗み見る。
俊輔の横顔は、静かで、凛としている。
背筋は伸び、視線はまっすぐ壇上へ向いている。
その横顔は、やっぱり少し遠い。
ねぇ。
俊ちゃんも、一年前の今日を思い出してる?
あの時、壇上から私と目が合った瞬間を、覚えてる?
あの一瞬。
世界の音が全部遠のいて。
あなたの瞳だけが、やけに鮮明だった。
全身から溢れ出す止まらない汗。
震える声。
うまく言葉にならない想い。
伝わりますように。
届きますように。
叶いますように。
祈るみたいに、必死だった。
あの時、俊ちゃんは──
どんな気持ちだったかな。
今なら、少しはわかるのかな。
あの壇上から見える景色の重さを。
候補者たちの演説が、熱を帯びて続く。
声の強弱。
拳を握る音。
椅子を引く微かな軋み。
拍手が体育館に波紋のように広がり、やがて静まる。
総選挙は、無事に終了した。
しかし、現・生徒会役員の仕事は、ここからが本番だ。
六時間目終了のチャイムが鳴り終わると同時に、各教室で投票箱が封印される。
テープが貼られる音。
担任の確認の声。
紙の擦れる音。
昇降口の喧騒とは対照的に、生徒会室は静まり返っていた。
窓の外では、部活の掛け声が遠く響いている。
けれど、この部屋の空気は張り詰めている。
投票箱が次々と運び込まれ、机の上に整然と並べられる。
俊輔が口を開いた。
「封印の状態、各クラス確認します。晴翔、右側からお願いします」
低く、落ち着いた声。
もう一人の三年生副会長、瀬戸晴翔が無言で頷く。
眼鏡の奥の視線が、テープの端を一つずつ確認していく。
陽向は、チェック表を握りしめていた。
紙が少しだけ、湿っている。
初めての選挙管理。
さっきまでの体育館の熱とは違う、静かな緊張が、背中を這い上がる。
顧問の声が落ちる。
「開票、開始しましょう」
その一言で、空気が一段階沈んだ。
机を二列に並べ、二人一組で作業を分担。
票を開く。
名前を読む。
記録する。
「会計候補…二年一組──」
淡々と読み上げる声。
紙を捲る音。
ボールペンを走らせる音。
電卓を叩く、乾いたリズム。
票の山が、少しずつ低くなる。
数字が並ぶ。
整列するはずの数字が、陽向の目の前で揺れる。
32。
48。
57。
……あれ?
合わない。
胸の奥が、ヒヤリと冷える。
もう一度、電卓を叩く。
カチ、カチ、カチ。
んん?
さっきの数字と違う。
もう一度最初から。
数字が、ただの記号になる。
意味を持たない塊みたいに、頭の中で跳ね回る。
呼吸が浅くなる。
もう一回。
……違う。
手のひらに、ジワッと汗が滲む。
「……星野さん?……記録出来てる?」
三年生副会長、瀬戸晴翔の声が現実に引き戻す。
「あ、すいませんっ!ちょっと一回タンマで!」
手のひらを上げて静止しながら、陽向は電卓と戦う。
(やばい…合わない。合わない。合わない。)
俊輔が、空気の変化に気づく。
視線が一瞬だけ、陽向に向いた。
(……やば……陽向は数字がだめだ…!)
その判断は早かった。
「ごめん、晴翔。集計用紙の記録作業、陽向と変わってくれないかな。」
「え?はい」
俊輔は自然な声色で続ける。
「陽向、集計シートの整理と掲示用の当選者名簿の清書お願い。」
空気を乱さない。
誰も責めない。
ただ、最適解へ静かに軌道修正する。
「あ…」
喉の奥が、きゅっと詰まる。
「じゃあ、これ。ここまでやったから、この束はこっちで分けてるから、こんな感じでお願いします。」
瀬戸晴翔が、淡々と説明する。
感情の色は乗せない。
それが、逆に優しい。
胃の奥が、ぎゅっと縮む。
副会長なのに。
さっきの総選挙で、隣に座っていたのに。
一年前、壇上で震えていた自分を思い出す。
あの時は、必死に前を向いていた。
今は、隣にいるはずなのに。
「すいません…」
小さく会釈する。
その声は、思ったよりも自分にだけ響いた。
胸の奥で、何かが静かに刺さる。
守られた嬉しさと。
守られた悔しさ。
両方が、同時に、そこにあった。
開封、集計作業はすべて終了。
今年度の生徒会新役員当選者が、この瞬間に決定した。
「では、投票用紙を封印します」
顧問のひと声で、空気がもう一段引き締まる。
役員たちは反射みたいに背筋を伸ばし、手際よく用紙を揃え、束ね、投票箱へと収納していった。
紙が重なる音。
テープが剥がれる音。
箱の中へ落ちる、乾いた“コトン”という音。
その一つ一つが、もう「作業」じゃない。
学校の信頼そのものを、そっと戻していくみたいな手つきだった。
「あ、藤崎。投票箱の保管場所を確認しに行ってくれ」
「わかりました」
俊輔は頷き、生徒会室を出ていく。
投票箱は厳密な管理のため、全校生徒の中で唯一生徒会長だけが保管場所を把握する。
「えーと、施錠しますけど……投票箱の鍵は?」
副会長の瀬戸晴翔が淡々と確認する。
「あれ、星野さん開錠したよね?」
「……え?」
陽向の喉が、一瞬だけきゅっと狭くなった。
制服のポケットを探る。
ポケットに手を入れる指先が、やけに冷たい。
ない。
反対側も探る。
ない。
胸の奥が、すうっと落ちていく。
あれ……?
机の上。
机の下。
ファイルの間。
もう一度ポケット。
全部ガサゴソ。
指先が紙に触れるたび、心臓が「違う」と告げる。
(((……出たーーーーーーーーーー)))
役員達全員の、声にならない“やばい”が、室内に伝染する。
誰かの小さなため息が、落ちる。
言葉にしなくても分かる。
役員たちは阿吽の呼吸で即動き出した。
自分の荷物をどかし、椅子を引き、机の下を覗く。
備品箱を持ち上げる。
床に落ちていないか目で追う。
“探す”という行為そのものが、焦りを増幅させる。
陽向は、胃のあたりがぎゅっと縮むのを感じていた。
(やばい……やばい……やばい……)
頭の中に、最悪のパターンが勝手に並び立てられていく。
脳内生成は自分の意思で止められない。
手だけが、無意味に速い。
ガラッ。
「戻りま……あれ?どうしたの?」
扉が開いて、俊輔が入ってきた瞬間。
備品を持ち上げ、荷物をどかし、しゃがんで床を探している役員たちの姿に、俊輔の表情が一瞬で変わった。
「……投票箱の……鍵が…………」
陽向の声が、情けないほど震える。
泣きそうな呼吸が、喉の奥で引っかかった。
その瞬間。
「陽向……」
俊輔は小さく息をつく。
そしてブレザーのポケットへ手を入れた。
「箱開けた瞬間、そのまま僕に渡してきたじゃん」
カチ、と乾いた音。
俊輔の指先に、小さな鍵が光った。
「………へ?」
陽向の脳が一瞬、時間を遡る。
その記憶は、まるごと真っ白だ。
——たぶん。
初めての集計作業のプレッシャーで、開封した瞬間はパニック状態。
脳内は手順だけを必死に追って、意識は無い状態で反射で渡したのだろう。
鍵がそこにある。
ただそれだけで、全身の力が一気に抜けた。
「わーーーん良かったよーーー死ぬかと思ったーーーーー!!」
陽向はその場にしゃがみ込む。
床が冷たくて、今さらその温度が分かった。
「「「はぁ〜〜〜〜………」」」
役員たちの安堵のため息が、生徒会室に一斉に落ちた。
空気が戻る。
呼吸が戻る。
さっきまでの“最悪”が、嘘みたいに薄くなる。
「ほんとーに、すみませんっっっ!!!」
陽向は何度も頭を下げた。
恥ずかしさと、申し訳なさと、まだ残る心臓の速さ。
でも同時に——
俊輔が鍵を出した瞬間の、あの確かな安心感だけが、胸の奥に残っていた。
────────。
そして、遂に訪れた。
新役員を迎え、今年度正式に“新体制”となった生徒会役員会議。
放課後の生徒会室は、いつもより少しだけ匂いが違った。
新しい制服の糊の匂い。
緊張した呼吸が混ざった空気。
窓から差し込む西日の橙が、机の端を柔らかく照らしている。
重厚な長机の周りに並ぶ椅子。
そこに座る顔ぶれは、去年とは確実に変わっていた。
会長:(継)藤崎 俊輔3年※男子
副会長:(継)瀬戸 晴翔3年※男子
(継)星野 陽向2年※女子
書記:(継)橘 梨愛3年※女子
(新)阿久津 孝明1年※男子
会計:(継)水野 慧3年※男子
(新)相田 桜子2年※女子
広報:(新)横溝 琉嘉2年※男子
(新)加賀 優音1年※女子
⸻
俊輔が議長席に座ると、室内の空気が自然と整う。
「それでは、今年度最初の正式役員会議を始めます」
低く落ち着いた声。
言葉の端に迷いはない。
まずは最初に自己紹介。
新役員たちは、背筋をぴんと伸ばしていた。
まだ自分の居場所が定まらない、不安と期待が入り混じった姿勢。
陽向は、その横顔を眺めながら、ほんの少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じていた。
議題は滞りなく進む。
夏の行事の準備。
広報の役割分担。
総選挙後の引き継ぎ確認。
会議は、静かに、そして確実に進んだ。
「以上で本日の議題は終了です。お疲れ様でした」
俊輔の一言で、空気がふっと緩む。
椅子を引く音。
ペンを置く音。
小さな安堵の吐息。
これから一年間。
一緒に働く仲間となるチームが動き出した。
その手応えが、陽向の胸にじわりと広がった。
会議終了直後。
「星野さん!」
弾む声に、陽向は顔を上げる。
そこに立っていたのは、二年二組、会計の相田桜子。
短い内巻きショートボブが揺れるたび、光を柔らかく反射する。
きちんと揃えた指先。
緊張で少しだけ上がる肩。
「私、2組の相田です。よろしくお願いします!」
ぺこり、と丁寧なお辞儀。
(わ、礼儀正しい子だな……)
「えー隣のクラス?よろしくー!」
陽向はいつもの調子で笑う。
相田桜子は、ぎゅっと拳を握りしめてから言った。
「私……星野さんに憧れて生徒会に入ったの」
「えぇっ!?私に!?なんで!?」
素で裏返る声。
相田桜子の頬がうっすら赤くなる。
「一年生で唯一の生徒会役員だったのに……凄い頑張ってたし、いつも明るくて。面白い子なんだなって印象だったの。」
陽向の胸の奥が、ふわっと浮く。
「まっじで!?やばー!嬉しいー!」
陽向の弾ける声が生徒会室に響き渡り、自然と役員達の視線が集まった。
「私…結構内気であんまりコミュ力ないから……星野さんみたいに堂々と出来るような自信が欲しくて。だから星野さんは、私のロールモデルなの!」
室内に、一瞬の静寂。
そして。
「ぶっ!!」
「っははは!」
「えぐいえぐい」
一斉に爆笑。
そして三年生書記、橘梨愛は歩み寄りながら冷静に言う。
「ロールモデルにする相手…間違えてない?」
「憧れる人、ちゃんと選んだ方がいいですよ」
三年生会計、水野彗が続いて、三年生副会長、瀬戸晴翔がメガネを押し上げ、淡々と締めくくる。
「まぁ…頑張ってる、は正解ですが…取り柄はそこだけですね」
「ちょっとーーー!!どーゆー事ー!?」
陽向のツッコミが炸裂。
生徒会室に笑いが広がる。
けれどその笑いは、去年とは違う。
俊輔は、ほんの少し目を細めていた。
誇らしそうに。
どこか安心したように。
去年までの生徒会とは確実に違う。
三年生は圧倒的な存在で、二年生の自分達はいつも背筋を伸ばしていた。
こんな風に笑い合っても、どこかで緊張感が漂う生徒会室だった。
「いつも何かにどこかぶつけてるし」
「もっと落ち着いた方いいですよ」
「ポンコツ副会長もいいところなのよね」
三年生役員達の止まらない弄りに、新役員は達は苦笑している。
「ポンコツ副会長っていうなー!!」
校則緩和。
ポンコツ副会長。
聖陵国際の生徒会は、変わる。
俊輔は実感していた。
僕の生徒会は、これから陽向の生徒会へと変わっていく。
夕陽が、生徒会室を橙色に染める。
新体制の空気は、まだぎこちない。
でもその中心には、確かな熱がある。
一難去って、また一難。
課題も多い。
責任も重い。
乗り越える壁は高い。
それでも。
このチームなら、きっと大丈夫。
陽向は、そう思えた。




