第61話 自分が自分である為に
※X(旧Twitter)にて第61話イラスト公開しました!
https://x.com/exbrrh2oof32785?s=21
謹慎明けの朝。
駅から学校へ向かう通学路は、夏の匂いに変わり始めていた。
湿った風が肌にまとわりつき、アスファルトは昨日の熱をまだ抱えたまま、朝の光を薄く反射している。
蒼太は、朝の空気を吸う。
そうすると、今日からまた始まる通常運転に、気が引き締まる。
胸の奥に、無理矢理押し込めた“男の覚悟”がある。
——その矢先だった。
「だーれだ♡」
ふわ、と視界が闇に沈む。
後ろから伸びてきた両手が、突然、目を覆った。
指先の温度。
ふわりとかすめる、嗅ぎ慣れた甘い香り。
耳の近くに落ちる声の柔らかさ。
知っているからこそ、胸が跳ねる。
蒼太は、立ち止まる。
「男子に平気でそんなことすんな。そういうとこだぞ、咲」
できるだけ平らに。
できるだけ素っ気なく。
何もなかったみたいな声色で言った。
「えへへ、ドキッとした?」
手が離れる。
光が戻る。
隣に並んできた咲は、いつものように無邪気に笑って、蒼太の顔を覗き込んだ。
太陽より先に、この子の笑顔が眩しい。
「誰が。」
蒼太は、今の鼓動を悟られる気がして反射で視線を逸らした。
見つめていたら、先程宿った“男の覚悟”が崩れてしまいそうで。
「蒼太、おかえりっ!」
その言葉が、心臓の柔らかい場所に落ちる。
……この笑顔が守れるなら。
全ての罰が報われる。
そう思えた。
自分を納得させるように、蒼太は小さく息を吐いた。
「彼氏くん、怪我どう?……咲にも、申し訳なかった」
「ううん。怪我なんて全然大したことないし、私は……蒼太が悪いとも思ってないから」
咲の声に、責めるような色は微塵もなかった。
蒼太はそれが怖かった。
優しさは、罪悪感を浮かび上がらせるから。
「…………そ。」
たった一文字で返す。
彼女にとって自分は、“彼氏を殴った男”だ。
それが事実なのに、咲の目は自分を見損なっていない。
そのことが、蒼太の胸に静かな安堵を広げた。
二人並んで歩く通学路。
蝉の声はまだ本気じゃないのに、空気だけがもう夏だ。
咲は、歩幅を合わせながら、ふいに言った。
「………なんか……また女いるっぽいんだよね。戒斗」
——その瞬間。
蒼太の心臓が、跳ね上がった。
咲の声は軽く装っているのに、表情は、笑っていない。
目の奥に、寂しさが沈んでいる。
あの店で聞いた言葉。
笑いながら投げられた「三股」「四股」。
咲の世界に持ち込んだら、壊れる。
彼女を傷つけたくはない。
「…………そっか」
蒼太は、前だけを見て言った。
声が揺れないように、喉の奥を固くする。
でも、心の底から湧き上がる疑問は、押さえきれずに零れ落ちた。
「………………なんで付き合ってんの?」
咲が、少しだけ息を詰める。
その間が、答えの重さを先に運んできた。
「………………わかんない……」
咲は、歩きながら言葉を探すみたいに、視線を揺らした。
「最初はただ……戒斗、中学で一番モテてたから。付き合えた時は嬉しくて……」
笑うでもなく、泣くでもなく。
ただ、淡々と。
「すぐ浮気するし、それで何回か別れたりもしたけど……他の人と付き合ってみても……やっぱり、戒斗の隣は私じゃないと嫌だって思っちゃうんだよね」
咲はそこで少しだけ間を置いた。
自分の弱さを、自分で確認しているみたいな間。
「……それは、戒斗も多分同じ。」
蒼太は黙って聞いていた。
遠くを見つめたまま。
遠くを見るふりをしながら、胸の奥を握り潰していた。
「学校で一番自慢できる彼氏。学校で一番自慢できる彼女。お互いその認識で、ウチら最強カップルだったんよ」
その言葉が、蒼太の中で、嫌な形に結晶する。
そして思わず、口から出た。
「それって、つまり……アクセサリーってことだ。」
咲の足が、ほんの一瞬だけ止まりそうになる。
息を吸う音が小さく聞こえた。
蒼太は続けてしまう。
ここで止めたら、優しくできるのに。
ここで止めたら、嫌われないのに。
でも、どうしてなのか、止められない。
「洋服やブランドバッグと同じじゃん。身につけて、自慢できて、所有できてることに満足してるってことだろ?」
嫌な事を言っている。
余計なお世話だとわかっている。
自分にそんな権利がないこともわかっている。
——それでも。
咲の目が、あの男に“軽く扱われる”たび、自分の中の何かが壊れていくのを、もう見ていられない。
「………咲には……もっとマシな男、絶対いるよ。」
最低でも——俺なら。
咲を、もっと大切にする。
咲を泣かせない。
咲を不安にさせない。
咲の価値を、他人の目線でなんて決めない。
あんな男よりも、絶対少しはマシだ。
そんなこと、言える立場じゃないくせに。
心の中で言った瞬間、自分の胸の奥が勝手に熱くなる。
「…………………そうかもしんないね………」
咲は、小さく笑った。
笑ったのに、声の端が震えている。
咲は、わかっている。
わかっているのに、離れられない。
“戒斗の彼女でいる自分”。
それが、自慢だった。
それが、自信だった。
それが、長年の癖みたいに。
それを手放したら、自分が空っぽになる気がして。
そしてきっと、咲自身が一番、そのことに自分で呆れていた。
自分がある自分って、何だろう──。
────────。
生徒会室。
エアコンの低い唸り音が、天井付近でくぐもっている。
冷気は出ているはずなのに、肌にまとわりつく夏の湿度までは追い払えない。
長机の上には、アンケート集計資料の束。
赤ペンの書き込み、付箋、開かれたタブレット。
その横に、分厚い校則改訂案。
紙の匂いと、インクと、わずかな緊張の匂いが混ざっている。
今日の役員会議の議題は──
二学期限定で試験運用する、校則基準の選定。
校則緩和の理念は、明文化されている。
1.多文化尊重
2.無意識の偏見、差別の是正
3.グローバル社会に適応する主体性の育成
文字にすれば綺麗だ。
だが、それを“どこまで許すか”という具体に落とした瞬間、空気は一気に熱を帯びる。
靴下やカーディガンの色。
スカート丈。
肌色、メイク、髪色規定。
そしてスマホ使用制限。
“自由”と“秩序”の境界線を、どこに引くのか。
全校生徒に集めたアンケート結果を元に、役員それぞれの意見が飛び交い、白熱する会議。
書記の三年生、橘梨愛が資料を整え、静かに読み上げる。
「全校回答数、612。髪色規定の見直し“賛成”72%、“条件付き賛成”18%、“反対”10%です」
数字が、空気に置かれる。
思った以上の賛成率。
何人かが小さく息を吐く。
続いて、新役員書記の一年生、阿久津孝明がページをめくる。
「自由記述で最も多かったのは、“地毛証明制度の廃止希望”です」
一瞬、室内の温度が変わる。
地毛証明。
それは“例外を許す証明書”。
そして同時に、“普通から外れている”と公式に認めさせる紙。
顧問の餅田先生が、ゆっくり口を開いた。
「地毛証明制度の廃止は決定で進める方向として…試験運用の髪色基準としては……このカラーチャートの9番までを許可する、という形でどうだろう」
配布資料の中央。
整然と並ぶヘアカラーチャート。
自然な黒から、茶色へ。
そこから先は、はっきりと“染めている”色。
その瞬間。
ガタンッ。
椅子が強く引かれる音。
本日の会議で、最も一番白熱しているこの役員。
「ちょっともっちー!それは無いっすよー!」
陽向だった。
全員の視線が一斉に集まる。
彼女は躊躇なくチャートを持ち上げ、机を指で叩く。
「髪色9番て!!こんなの生徒会長の髪色より暗いですよ!!」
その言葉に、数人が思わず俊輔を見る。
顧問が咳払いをする。
「藤崎は……地毛証明が提出されているだろう」
静かな牽制。
けれど陽向は、一歩も引かない。
「地毛証明、無くすんでしょ!?地毛証明無しで9番基準にするって、もっちーは生徒会長を校則違反にするんですか!?」
声が、真っ直ぐに空間を裂く。
俊輔は静かに座っている。
だが、その横顔はわずかに強張り、こめかみに細い汗が滲んでいる。
“自分が基準を超えている存在”であることを、全員が今、意識している。
副会長の瀬戸晴翔が、眼鏡を押さえながら口を開いた。
「極端な明度を許可すれば、収拾がつかなくなります」
理屈は正しい。
管理する側の論理。
三年生会計、水野彗も苦い顔をする
「派手過ぎる髪色やメイクは…私生活の交友関係や、それに付帯する生活の乱れに影響する可能性もありますからね……」
空気は一瞬、反対派の意見へ優勢に流れる。
「えー!でもこの色!この13番とか、うちの帰国生で普通にいますよ!」
陽向はチャートの上部を指差す。
顧問の餅田先生は言葉を返す。
「地毛とお洒落を一色単にするのはな…保護者や外部からの反発の懸念もあるし…ある程度の基準というのは……」
バンッ
顧問の言葉を遮るように、陽向はテーブルを叩いた。
「多文化って言ったの学校ですよね?そもそも“この色を基準にする”って発想自体が、前提おかしくないですか!?」
室内の空気がぴり、と張り詰める。
“前提”。
それは制度の根っこを疑う言葉だ。
「基準を決めるって、“普通”を決めるって事ですよ!普通ってなに?帰国生や、生徒会長は普通じゃない?誰も自分で自ら、茶髪や黒髪に生まれたくて生まれてきたんじゃない。黒髪に生まれきたかった子、茶髪やブロンドに生まれてきたかった子。なりたい自分になりたいと思う事って、そんなに悪い事ですか?」
陽向の言葉に、反対派の槍が突然止まる。
「……………。」
静まり返る生徒会室。
その静寂を破るように、俊輔が静かに口を開いた。
「先生。基準を“明度”ではなく、“加工の制限”にしませんか」
声は穏やかだが、芯がある。
視線が集まる。
「地毛の多様性は前提とする。ブリーチや極端な人工色は不可。“自然かどうか”ではなく、“過度な装飾かどうか”で判断する」
理論が、冷静に組み上げられていく。
「地毛証明を廃止する以上、生徒は自分の存在を証明しなくてよくなる。それは、主体的に“ありたい自分”を選ぶという意味でもあります」
一拍、間を置く。
「“この色まで”というルールに従わせる思想そのものを、見直すべきだと思います」
そして、俊輔は背筋を伸ばした。
「僕の髪色が基準を超えるなら、制度のほうを見直すべきです。」
空気が、変わる。
陽向の指が、チャートの上で止まる。
顧問は沈黙し、資料を見下ろす。
蝉の声だけが、外で鳴き続ける。
橘梨愛が静かにまとめる。
「では、“明度基準のみ”の採用は再検討。加工制限基準との併用案を作成します」
ペンが走る音。
会議は続く。
「えーーーっ!ブリーチ出来なかったらミルキーピンクに出来ないよぉ〜」
「陽向、ミルキーピンクはダメだって言ったでしょ」
空気を壊すのは、いつも陽向。
俊輔が、ただを兼ねている子どもを宥めるみたいに言う。
その声色に、室内の緊張が少し緩む。
生徒会室に笑いが広がる。
けれど議論はまだ終わらない。
ただの校則緩和ではない。
これは──
この学校が、何を“普通”と呼ぶのか。
何を“逸脱”とするのか。
その定義を、塗り替える作業。
陽向は、まだチャートを握りしめて睨めっこしている。
指先に力が入っている。
その横で俊輔は、わずかに息を吐いて笑みを浮かべた。
陽向に守られているのは“基準を超えている”俊輔なのか。
俊輔が守っているのは“基準を超えたい”陽向なのか。
答えはまだ、曖昧だ。
けれど確かに──
この学校は今、“陽向の生徒会”として、少しずつ、ひとつ前に進もうとしている。
────────。
会議終了後の生徒会室。
会議という戦場を終えた部屋は、どこか戦後みたいに気が緩んでいた。
その空気を一番に壊したのは、やっぱり陽向だった。
「陽向ちゃん7番くらいかなー」
「えー?毛先は結構明るいけど上の方は6番くらいだよーほら!」
新役員、会計の二年生相田桜子が、カラーチャートを手に取っている。
陽向は椅子をくるっと回し、窓際の光に髪をかざす。
午後の斜光が毛先を透かして、柔らかい茶色が一瞬だけ浮き上がった。
相田桜子は身を乗り出す。
距離が近い。
二人の肩が触れ、シャンプーの甘い匂いが混ざる。
「さこちゃんは3番かー…でも4番くらいか?」
「うーん…光に当たると4番くらいかな…」
相田桜子は自分の髪を摘まみ、少し不安そうに笑う。
真面目に校則を守ってきた子特有の、ほんの少しの“越境への憧れ”が、目の奥に揺れていた。
「2学期ちょっとカラー入れなよ!黒髪って重たくない?」
「えぇっ!?でも…私結構髪の毛細いから…染めると髪の毛痛まない?」
「短いから大丈夫っしょ!さこちゃんってドラキャン派?」
「ちゃんとドライヤーしてるよ!ドラキャンすると次の日寝癖ヤバいもん!」
二人の笑い声が、会議の余韻を上書きしていく。
さっきまで“制度”を語っていた机の上で、今は“自分の髪”の話をしている。
それが妙に、生きている感じがした。
「メイクもさ!まつ毛上げて、チークとリップくらいしたら?」
「えー…似合うかなぁ……」
相田桜子は、鏡のない空間で無意識に前髪を整える。
“似合うかな”という言葉の裏にあるのは、似合うかどうかよりも、“やっていいのかな”という躊躇。
そのとき。
「相田さんに余計なことを植え付けないで下さい、星野さん。」
頭上から、きっぱりとした声が落ちてきた。
三年生副会長、瀬戸晴翔が、いつもの黒縁メガネを指で押し上げる。
レンズ越しの視線は、冷静で、どこか少し警戒している。
陽向は振り返る。
「余計な事ってなによー!女の子の垢抜けは人生に関わるんだよっ!」
瀬戸晴翔は小さく息を吐いた。
「なにが人生ですか…」
彼の中では、“秩序”という言葉が常に基準だ。
会議の延長線上に、この会話がある。
「大体僕は、校則緩和の方針についても賛成出来ませんね。外見の乱れは少なからず中身にも影響しますから。それこそ、派手な見た目に良からぬ人種が寄ってきて…」
彼は本気だ。
理屈ではなく、心配で言っている。
「良からぬ交友関係が広がったり、それによって夜遊びを覚えたり……学校の秩序が保てなくなるのは安易に想定され──」
だがその“心配”は、どこか前提が古い。
陽向は腕を組み、半歩前に出た。
「瀬戸副会長って、平成初期の人?」
「なっ!!」
桜子が吹き出すのを堪える。
「今時そんな、夜に高校生がクラブ行ったりゲーセン行ったり、そんな事が安易に出来る時代だと思ってんの?田舎ならワンチャンありえるかもしんないけどさーここ都心だよ?しかもまーそれなりに?レベルそこそこの国際高校だよ?そんな環境の子ばっかじゃないっしょ!」
瀬戸の眉間がきゅっと寄る。
彼は“例外”を知っている。
家庭環境が複雑な生徒もいることを、資料で、統計で、現実で知っている。
「そうとは限らないじゃないですか!」
声が少し強くなる瀬戸晴翔。
陽向はいつものように、マイペースに突然話しが飛ぶ。
「てかさー!瀬戸副会長もそんなダッサイ黒縁メガネなんかしてないで、コンタクトにしてみたら?カラコン入れてみなよ!そのボサボサの髪もちょっと切ってさ!」
彼の前に回り込み、至近距離で覗き込む。
「結構良い男になると思うよ?ちょっとメガネ取ってみてよ!」
距離が、近い。
瀬戸晴翔の呼吸が一瞬乱れる。
「やめて下さい!僕はダサくて結構です!」
その即答の裏には、“変わることへの怖さ”が、ほんの少しだけある。
陽向は振り返る。
「えー?さこちゃんどう思うー?メガネやめた方が良くなーい?」
桜子は、瀬戸晴翔をまっすぐ見る。
彼の真面目さも、不器用さも、さっきの会議で見ていた。
「うーん…そう?」
そして、少し首を傾げて、穏やかに笑った。
「私はメガネ男子、結構好きですよ。」
──トクン。
自分の鼓動が、はっきりと聞こえた。
予想していなかった。
からかいでも、茶化しでもない。
まっすぐな肯定。
瀬戸晴翔の視界が、一瞬だけ揺れる。
頬が、熱い。
耳の奥まで血が上る。
「あれー?顔赤くなってなーい?照れてるー!」
「照れてないですよ!」
「はるる可愛いー!」
「変なあだ名で呼ぶのやめて下さい!」
笑い声が弾ける。
瀬戸晴翔は咳払いをして、背筋を伸ばした。
「僕は先輩ですよっ!大体星野さんは、顧問の餅田先生の事も、“もっちー”だなんて、友達みたいに呼んで!副会長のくせに、あなたには礼節ってものが──」
言いながら、さっきの一言が頭から離れない。
“メガネ男子、好きですよ。”
ダサくていいと、思っていた。
変わらない方が安全だと、思っていた。
でも。
ほんの少しだけ、“変わらなくてもいい”と言われた気がした。
自分の事ではない。
彼女は、メガネ男子が好きだと言った事はわかってる。
それでも。
自分を真っ直ぐに見て、女の子に。
“好き”
と言われたのは初めてだった。
生徒会室は、会議の緊張とは別の熱で満ちている。
制度を変える議論のあとに、自分を少しだけ肯定される会話がある。
蝉の声が、窓の外で鳴き続ける。
笑い声の中で、それぞれがほんの少しだけ、“自分であること”を確かめていた。




