⑥
「いや、笑い事じゃないんですけど……」
リベルは空っぽのポケットから手を抜いた。
分かっていた。
この世界に来てから、一度だって金らしいものを持っていた覚えはない。
それでも、目の前まで来た街へ入るのに銀貨一枚が必要だと言われると、改めて現実を突きつけられた気分になる。
「だって、さっき自分でお金ないって言ってたのに!」
「だから困ってるんですよ!」
「ここまで来て入れないの面白すぎるよ!」
「ミア」
ガルドが名前を呼ぶ。
「はいはい。ごめんって!」
口では謝りながら、まだ肩が震えている。
「全然反省してないな……」
リベルが呟くと、御者台のマルクが笑いながら腰の革袋へ手を入れた。
チャリ、と硬貨同士が触れる。
「ほら」
「え?」
一枚の銀貨が投げられた。
「うわっ」
慌てて両手で受け止める。
掌に収まった硬貨は、見た目よりもしっかりとした重さがあった。
縁には細かな傷があり、何人もの手を渡ってきたことが分かる。
「銀貨一枚」
「いや、でも……」
「貸しだ」
マルクはあっさりと言った。
「フィンリスに入ったら、何かしら稼ぐつもりなんだろ?」
「そのつもりですけど……」
「なら、その時に返せばいい」
リベルは掌の銀貨へ目を落とす。
「でも、会ったばっかりなのに」
「銀貨一枚のために門の前へ置いてく方が後味悪いだろ」
「それにね」
ミアが横から顔を覗かせる。
「ここでリベル置いていったら、多分ずっと門の外から街見てるよ」
「そんな野良猫みたいなことします?」
「すると思う」
「僕もすると思います」
セイルまで静かに頷いた。
「セイルさんまで?」
「街、見たいんでしょう?」
「……見たいですけど」
「ほら」
ミアが得意そうに笑う。
リベルは少しだけ迷い、それから銀貨を握った。
「分かりました。借ります」
「おう」
「絶対返しますから」
「期待してるぞ」
マルクが笑う。
「まあ、逃げたらガルドたちに捕まえてもらえばいいしな」
「俺たちはそこまで依頼を受けてないぞ」
ガルドが即座に返した。
「追加報酬出す」
「なら考える」
「考えるんですか!?」
思わず声を上げる。
「冗談だ」
「一瞬本気かと思った……」
ガルドの口元が僅かに緩んでいる。
その横で、ミアはまた笑っていた。
リベルは掌を開く。
銀貨一枚。
この世界で初めて手にした金。
そして。
「……初めての所持金が借金か」
「幸先いいね!」
「どこがですか!」
◇
荷車が進むにつれ、フィンリスを囲う石壁が視界いっぱいに迫ってきた。
「……近くで見ると、でかいな」
積み上げられた石は一つ一つが大きく、上には一定の間隔で見張り台らしき場所もある。
「珍しい?」
荷車の横を歩くミアが尋ねる。
「こんなの、実際に見るのは初めてです」
「へえ。私はずっと見てるから、あんまり気にしたことなかったな」
「何のために、こんな大きな壁を?」
「一番は外からの危険を防ぐためだな」
ガルドが答えた。
「ラグみたいなのとか?」
「ああ。もっと厄介なのもいる」
「もっと……」
「辺境だしね」
ミアが付け加える。
「フィンリスの外って、安全な場所ばっかりじゃないから」
リベルはもう一度、石壁を見上げた。
草原で出会った一匹を相手に、自分は腕へ傷を負った。
この壁は、ああいうものが当たり前に存在する世界で、誰かが安心して暮らすために造られたものなのだ。
そう考えると、ただ大きいだけの壁とは少し違って見えた。
門へ近づくにつれ、人の数も増えていく。
荷車。
荷物を背負った旅人。
武器を腰に下げた者たち。
「…………」
その中の一人へ、リベルの視線が止まった。
自分より背は低い。
けれど肩幅が広く、腕も太い。
顔立ちや体格も、自分たちとは少し違って見える。
「ミアさん」
「ん?」
「あの人って……カディアじゃないですよね?」
「ああ。《ドルガ》だね」
「ドルガ……」
「種の名前だよ」
「じゃあ、カディア以外にも色々いるんだ」
「もちろん!」
ミアにとっては当たり前のことらしい。
改めて周囲を見れば、確かに皆が同じ姿ではない。
「…………」
「また顔変わってるよ?」
「いや……どんどん知らないことが増えるなって」
「嫌?」
「逆です」
即答した。
「もっと気になります」
「やっぱり」
ミアが嬉しそうに笑う。
この街へ入る前から、もう知らないものがいくつもある。
なら、この先には何があるのだろう。
列が進み、やがてリベルたちの番が来た。
門の両側には鎧姿の衛兵が立ち、荷車や証明書を順番に確認している。
「身分を証明できるものを」
「はいよ」
マルクが懐から登録証を取り出す。
続いてガルド、ミア、セイルもそれぞれ証明を提示した。
リベルは横から興味深そうに覗き込む。
「それ、冒険者の?」
「ああ」
ガルドが答えた。
「登録すれば発行される」
「へえ……」
「次の方」
「あ、はい」
リベルが前へ出る。
「身分を証明できるものをお願いします」
「……持ってません」
衛兵は特に驚かなかった。
「では、通行税が銀貨一枚です」
「はい」
掌の銀貨を見る。
手にしてから、まだそれほど時間は経っていない。
これを渡せば、また所持金はゼロだ。
「…………」
「リベル?」
後ろからミアの声がする。
「いや、なんでもないです」
銀貨を差し出した。
衛兵が受け取り、確認する。
「これって、皆払うんですか?」
「登録のない来訪者だけだ。正式な登録者の分は、所属先から別に納められている」
「なるほど」
「壁も衛兵もタダじゃないからな」
マルクが横から言った。
「……どこへ行っても金はかかるんだな」
「覚えとけ」
「今日だけで嫌でも覚えそうです」
衛兵が僅かに笑う。
「来訪目的は?」
「冒険者ギルドへ行ってみようと思ってます」
「登録か?」
「まだ決めてません。でも、興味はあります」
「なら、この通りを真っ直ぐ行けば分かる」
「ありがとうございます」
「ようこそ、フィンリスへ」
衛兵が身体をずらした。
その向こうに、街が広がっている。
「…………」
リベルは一歩、門の内側へ踏み出した。
◇
「……うわ」
最初に出た言葉は、それだった。
門を越えた瞬間、音が増えた。
「焼きたてだよ! 今ならまだ温かいよ!」
「荷下ろし二人! 誰か空いてないか!」
「こっちの道塞ぐな! 荷車通るぞ!」
左右から声が飛んでくる。
広い通りを荷車が行き交い、その間を大勢の人が歩いていた。
石と木で造られた建物。
軒先に並ぶ野菜や果物。
大きな布を張った露店。
剣や斧を並べた武器屋。
焼けた肉。
香辛料。
焼きたてのパンらしい香ばしい匂い。
少し離れた場所からは、硬い金属を何度も叩く音も聞こえる。
「…………」
リベルの顔が右へ向く。
次は左。
また右。
「リベル」
「はい?」
「前」
「え?」
目の前を大きな籠を抱えた男が横切った。
「うわっ」
慌てて一歩下がる。
「言ったでしょ? 前見ないとぶつかるよ!」
ミアが笑っている。
「無理ですよ。見るもの多すぎる」
「まだ入ってすぐだよ?」
「だから困ってるんです」
笑いながら答え、また周囲を見る。
買い物袋を抱えた女性。
値段について話す店主と客。
笑いながら走っていく子どもたち。
道の端で椅子に腰掛け、通りを眺める老人。
「……ちゃんと暮らしてるんだな」
「何が?」
ミアが振り返る。
「ここに来るまで、草とか川とか、知らない生き物ばっかりだったから」
リベルは通りを見渡した。
「こういう場所もちゃんとあるんだなって」
ミアは一瞬だけリベルを見る。
それから、柔らかく笑った。
「あるよ」
「ですよね」
当たり前の答えだった。
でも、それが妙に嬉しい。
食べる場所がある。
眠る場所がある。
働く人がいて、誰かが笑っている。
ここには生活がある。
「リベル」
「はい?」
「顔」
「また?」
「ずっと楽しそう」
「…………」
言われてみれば、確かに口元が緩んでいた。
「まあ……楽しいです」
「怖いんじゃなかったの?」
「怖いですよ」
「どっち?」
「両方です」
「忙しいね!」
「自分でもそう思います」
ミアが笑う。
リベルもつられて笑った。
街の中心へ近づくにつれ、武器を持った者の姿が目に見えて増えていった。
剣。
槍。
弓。
盾。
二人、三人とまとまって歩く者。
泥のついた靴で街へ戻ってくる者。
装備を整え、門の方へ向かう者。
「あの人たちも冒険者ですか?」
「多分ね」
「こっちも?」
「うん」
「……本当に多いんだ」
話として聞くより、こうして実際に見る方がずっと現実味がある。
「皆、どこに行くんですかね」
「仕事次第だよ。近くの平原かもしれないし、森かもしれない。もっと遠くへ行く人もいるし」
「もっと遠く……」
リベルの視線が、街道の先へ向いた。
今いるフィンリスだけでも、知らないものがこんなにある。
なら、ここを出て。
別の道を選んで。
さらにその先へ進んだら。
何があるのだろう。
「また考えてる?」
ミアが顔を覗き込む。
「冒険者って」
「うん?」
「自分で行く場所を選べるんですよね?」
「仕事だから依頼次第なところもあるけど」
少し考えてから、ミアは頷いた。
「どの依頼を受けるかは、基本自分で決めるよ」
「…………」
その答えを聞いて、胸の奥が少しだけ軽くなった。
自分で選ぶ。
行き先を。
何を見るかを。
地球にいた頃、やってみたいと思いながら後回しにしたことはいくつもあった。
もっと自由に生きてみたい。
その気持ちは、ここへ来ても消えていない。
「……いいな」
「何が?」
「冒険者」
リベルは小さく笑った。
「まだ何も知らないですけど」
「でも興味はある?」
「かなり」
「やっぱり!」
ミアが笑う。
「興味を持つのは構わん」
前を歩くガルドが口を開いた。
「ただ、なってから考えるんじゃなくて、なる前にちゃんと話は聞け」
「分かってます」
「本当か?」
「……多分」
「またそれか」
ガルドが呆れたように息を吐く。
その横で、セイルが小さく笑っていた。
「そういえば、マルクさんはこの後どうするんですか?」
「まず冒険者ギルドだな」
「マルクさんも?」
「ああ。こいつらの護衛依頼が終わったって、俺からも報告する必要がある」
「なるほど」
「俺たちだけが『無事着きました』って言って終わりじゃ確認にならないだろ」
ガルドが補足する。
「確かに」
「報告が終わったら、俺は荷物を届けに行く。そこまでは一緒だな」
「ちょうどいいや」
リベルは少し笑った。
「俺もギルド、見てみたいです」
「じゃあ迷子にならなくて済むね!」
ミアが即座に言った。
「ミアさん」
「何?」
「俺、子どもじゃないですよ」
「街に入ってから何回『前見て』って言ったっけ?」
「…………」
「どうしたの?」
「それは関係ないです」
「苦しいですね」
セイルが静かに言った。
「セイルさんまで……」
しばらく進むと、通りの先に周囲より大きな建物が見えてきた。
石を基調にした三階建て。
正面には大きな木製の扉があり、その上には離れた場所からでも分かる紋章が掲げられている。
建物の前には武器を持った者たちが行き交い、扉が開くたびに中から話し声と笑い声が流れ出していた。
「……あれ?」
「そうだ」
ガルドが答える。
「冒険者ギルド・フィンリス支部」
「…………」
リベルは建物を見上げた。
冒険者。
危険な仕事。
けれど、自分で依頼を選び、知らない場所へ行けるかもしれない仕事。
「行くぞ」
ガルドが扉へ手をかける。
「あ、はい」
大きな扉が開いた。
中から一気に、人の声と熱気が押し寄せてくる。
「…………」
リベルの口元が自然と上がった。
まだ何も知らない。
だからこそ、知りたい。
「……行ってみるか」
そう呟いて。
リベルは冒険者ギルドへ足を踏み入れた。




