⑤
ミアが差し出した水筒を、リベルは両手で受け取った。
「はい!」
革張りの水筒は思っていたより重く、中で水が小さく揺れている。
その音を聞いただけで、どうにか意識の外へ追いやっていた喉の渇きが一気に戻ってきた。
「そんな大事そうに持たなくても、普通の水だからね?」
「いや、今の俺にはかなり大事です」
「そんなに?」
「かなり」
即答すると、ミアが楽しそうに笑う。
「じゃあ、遠慮しないで飲んでいいよ!」
「ありがとうございます」
水筒を傾ける。
冷たい水が口の中を満たし、乾いた喉を落ちていった。
「…………」
一口。
もう一口。
三口ほど続けて飲んだところで、ようやく我に返る。
「……すみません。結構飲んじゃいました」
「いいよいいよ。まだあるから」
ミアは気にした様子もなく手を振る。
それから水筒を見つめるリベルへ、少しだけ首を傾げた。
「もうちょっと飲む?」
「え?」
「まだ飲みたそうな顔してる」
「…………」
水筒を見る。
ミアを見る。
「そんな分かりやすいですか?」
「かなり!」
「……じゃあ、もう一口だけ」
「素直でよろしい!」
ほんの少し前まで、一人で川を前にして、飲んでいいものか悩んでいた。
それが今は、誰かから差し出された水を飲んでいる。
ただそれだけなのに、不思議なくらい身体の力が抜けた。
「飲み終わったなら、腕を見せてもらえますか」
静かな声に振り向くと、セイルが少し離れた場所で小袋を開いていた。
「あ、はい」
「そこに座ったままで大丈夫です」
裂けた左袖を捲る。
二本の傷を確認したセイルの眉が、ほんの僅かに寄った。
「思ったより浅いですね」
「掠っただけだったので」
「運が良かったですね」
「……やっぱり?」
「まともに噛まれていたら、もう少し面倒だったと思います」
「聞かなきゃよかったな……」
横からミアが傷を覗き込む。
「ラグの牙、意外と痛いからね」
「意外と、で済ませていい牙じゃなかったですけど」
「見た目はちょっと可愛いでしょ?」
「口を開くまでは」
「あー、あの牙ね」
「全部台無しでした」
「そこまで言う!?」
ミアが目を丸くする横で、セイルは淡々と小瓶の蓋を開けた。
「少し染みます」
「さっき川で洗った時点でもう十分染みました」
「では二回目です」
「慰め方、それで合ってます?」
「慰めてはいません」
「ですよね」
傷口に液体が触れた。
「っ――痛っ!?」
反射的に腕を引きそうになるが、セイルが手首を押さえる。
「動かさないでください」
「いや、これ結構痛い……!」
「だから染みると言いました」
「聞いたけど!」
「セイル容赦ないね〜!」
ミアの笑い声をよそに、セイルは傷へ布を当て、慣れた手つきで包帯を巻いていく。
口調は淡々としているのに、手つきは驚くほど丁寧だった。
「これで大丈夫です」
「ありがとうございます」
包帯の巻かれた腕を眺める。
「こういうのって、いつも持ち歩いてるんですか?」
「最低限は」
「冒険者なら怪我は珍しくないからな」
少し離れた場所で周囲を見ていたガルドが答えた。
「冒険者?」
地球では聞き慣れた言葉だった。
けれど、この世界で実際に耳にすると、その響きが急に現実味を帯びる。
「皆さん、冒険者なんですか?」
「そっか。そこから知らないんだ!」
ミアが背中の弓を親指で示した。
「私とガルドとセイルが冒険者。今はマルクの護衛中!」
「呼び捨てになったな」
御者台からマルクが口を挟む。
「もういいかなって」
「勝手に決めるな」
「嫌?」
「別に」
「じゃあいいじゃん!」
「最初から聞く意味なかっただろ」
マルクが呆れたように笑った。
リベルは四人を見回す。
「皆さん、前から知り合いなんですか?」
「いや」
ガルドが首を振る。
「マルクとは今日会った」
「今日!?」
「そんな驚くことか?」
「だって、普通に仲良さそうだったから」
「俺は話しやすいからな」
マルクが当然のように言う。
「自分で言うんだ」
思わず口から出た。
一瞬の間。
「……お前、だいぶ慣れてきたな」
「あ」
マルクが笑い、ミアもつられて笑った。
ガルドは小さく息を吐く。
「歩けそうなら行くぞ。ここで長居する必要はない」
「はい」
リベルは立ち上がった。
◇
荷車が再び動き始めた。
リベルは荷台の後方、木箱と布袋の間に作ってもらった隙間へ腰を下ろしている。
車輪が地面の凹凸を拾うたびに身体が上下した。
「……楽だ」
「何が?」
横を歩いていたミアが振り返る。
「座ってるだけで前に進むの、すごいなって」
「そこ!?」
「ずっと歩いてたので」
「ああ……」
ミアの笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
「本当に、ずっと一人だったんだ」
「……はい」
しばらく車輪の音だけが続いた。
「リベル」
前を歩くガルドが口を開く。
「はい」
「どうして一人でルーグ平原にいた?」
「…………」
来ると思っていた質問だった。
地球での記憶。
目を覚ました草原。
変わった身体。
自分でもよく分からない力。
どこから話せばいいのかさえ分からない。
「……信じてもらえるか分からないんです」
リベルは包帯の巻かれた左腕を見る。
「それに、自分でもまだ整理できてなくて」
「なら、今はそれでいい」
顔を上げる。
「いいんですか?」
「俺たちは取り調べをしてるわけじゃない」
ガルドは前を向いたままだった。
「話せるようになったら話せばいい」
「……ありがとうございます」
「ただし」
今度はマルクが振り返る。
「隠してることで俺たちに危険が及ぶなら、その時は話せ。そこだけだ」
「分かりました」
「ならいい」
それ以上、誰も聞かなかった。
「…………」
ありがたい。
同時に、少しだけ申し訳なくもあった。
「ねえ、リベル」
「はい?」
ミアが後ろ向きに歩きながらこちらを見る。
「いくつ?」
「え?」
「年齢!」
「たぶん十八くらい……」
「また、たぶん!?」
「そこもちょっと説明が難しくて」
「何それ! めちゃくちゃ気になる!」
「ミア」
「聞かないって! 今は!」
ガルドに言われる前に、ミアが両手を上げる。
「でも気になるものは気になる!」
「すごい正直ですね」
「リベルもでしょ?」
「俺?」
「さっきからずっと周り見てるじゃん」
「…………」
言われて気づく。
荷車を引く見覚えのない生き物。
三人の装備。
積み荷。
知らない植物。
踏み固められた道。
気になるものが多すぎて、視線がまるで落ち着いていない。
「……人のこと言えないな」
「でしょ?」
ミアが得意げに笑った。
「僕も一ついいですか」
セイルがリベルを見る。
「はい」
「ラグを何で倒したんですか?」
「…………」
リベルは右手に残していた石を見た。
草で拭ったものの、表面にはまだ僅かに赤黒い汚れが残っている。
黙って持ち上げる。
「……それで?」
「これで」
「…………」
セイルの視線が、石とリベルの顔を往復する。
「え!? 本当に!?」
ミアまで振り返った。
「これしかなかったので」
「どうやって?」
「飛んでくる方向を見て避けて、頭を石で……」
そこで一度止まる。
「あと、板みたいなのを作って」
「板?」
ガルドが振り返った。
「自分の中にある……魔力みたいなものを集めると、青白い板が作れて」
「《枝脈》?」
ミアが言った。
「……何ですか、それ」
「そこも!?」
ミアが思わず声を上げた。
ガルドは少し考えてから口を開く。
「簡単に言えば、魔力を特定の現象へ働かせる力だ」
「魔力を……現象へ?」
「枝脈によって、できることが違う」
ミアが楽しそうに人差し指を立てる。
「例えば、私は《風律》」
指先が僅かに動いた。
道端の草から一枚の葉が離れ、風に乗ったまま不自然に軌道を変える。
くるりと小さな円を描き、ミアの掌へ落ちた。
「……!」
リベルは思わず身を乗り出した。
「今の、風を操った?」
「元からある流れをちょっと変えただけ」
「もっと強くもできる?」
「できるよ」
「どれくらい?」
「顔!」
「え?」
「めちゃくちゃ聞きたそう!」
「……かなり」
「だと思った!」
ミアが声を上げて笑った。
「詳しい話は後にしろ」
ガルドが止める。
「このままだと街に着くまで枝脈の話だけで終わる」
「それは困るな……」
「困るんだ?」
「他にも聞きたいことがあるので」
「そっち!?」
また笑い声が上がった。
リベルも笑いながら、ふと疑問が浮かぶ。
「ちなみに、その枝脈を複数持つこともあるんですか?」
「《カディア》なら珍しくないよ」
ミアが何気なく答えた。
「…………」
「どうしたの?」
「カディアって?」
「…………」
今までで一番はっきりと、全員がこちらを見た。
マルクまで御者台から振り返る。
「俺、また変なこと聞きました?」
「変っていうか……」
ミアが自分を指差した。
「私たち」
「皆さん?」
「リベルも」
「俺も?」
「うん。《カディア》っていうのが、私たちの種の名前」
「…………」
リベルは自分の手を見る。
地球では、この姿に別の名前があった。
けれど、この世界では違うらしい。
「……俺も、カディア」
「見た目は完全にね」
「そうなんだ……」
自分の身体に、この世界での名前がついた。
そのはずなのに、どこか他人のことを説明されたような奇妙な感覚が残る。
「知らないことばっかりで怖くない?」
ミアが尋ねた。
「怖いですよ」
リベルは即答した。
「めちゃくちゃ怖いです」
「でも楽しそう」
「…………」
図星だった。
「こういうの、気になる性格で……」
ミアが声を上げて笑う。
「リベル、面白いね!」
「褒められてます?」
「かなり!」
今度は即答だった。
◇
それからも、会話はなかなか途切れなかった。
冒険者はどんな仕事をするのか。
フィンリスはどんな街なのか。
この辺りには何がいるのか。
リベルが聞けば、誰かが答える。
ミアはよく喋り、ガルドが足りないところを補い、セイルは時々短く訂正する。
マルクは御者台から好きな時だけ口を挟んだ。
そして向こうからも、リベルへ質問が飛んでくる。
「荷物は?」
「ありません」
「食べ物は?」
「ありません」
「金は?」
「……ないです」
「本当に何もないじゃん!」
「俺も困ってます」
また笑い声が上がる。
独り言ではない。
何か言えば、誰かが返してくれる。
分からないことを聞けば、答えてくれる。
誰かが笑えば、それにつられて自分も笑う。
たったそれだけなのに、一人で草原を歩いていた時とは、時間の流れ方まで違って感じられた。
◇
陽が傾き始めた頃。
ルーグ平原を覆う草が、夕陽を受けて淡い橙色に染まっていた。
「そろそろ見えるぞ」
ガルドの声に、リベルは荷台から身を乗り出す。
「何が?」
「フィンリスだ」
「……!」
荷車が緩やかな坂を上っていく。
頂上へ近づくにつれ、前方の景色が少しずつ開けて――。
「……うわ」
草原の向こうに、長い外郭壁が現れた。
その内側には大小さまざまな屋根が並び、何本もの細い煙が夕暮れの空へ昇っている。
街へ続く道には荷車や旅人の姿があり、その先の大きな門では衛兵たちが行き交う者を確認していた。
「……街だ!」
思わず立ち上がりかける。
その瞬間、車輪が石を踏んだ。
「うわっ!」
荷台が大きく揺れた。
「危ないよ!」
ミアが慌てて手を伸ばす。
「着く前に怪我増やさないでね!?」
「すみません……」
座り直しても、視線はフィンリスから離れなかった。
草原。
川。
知らない生き物。
目を覚ましてから見てきたのは、そんなものばかりだった。
けれど、あそこには誰かが暮らしている。
食べて、働いて、眠って。
毎日を生きている。
「辺境都市フィンリスへようこそ!」
ミアが両腕を広げる。
そして一拍置いて、悪戯っぽく笑った。
「――って、まだ着いてないけど!」
「先に言うんだ」
「雰囲気だよ、雰囲気!」
リベルも笑う。
ようやく。
本当にようやく、この世界で暮らす者たちのいる場所まで辿り着いた。
そんな二人を見ていたマルクが、ふと思い出したように振り返る。
「そういや、リベル」
「はい?」
「お前、金持ってないんだったな?」
「…………」
笑顔が止まった。
「え?」
「銀貨一枚。通行税だ」
「…………」
念のため、ポケットへ手を入れる。
何もない。
反対側。
もちろん何もない。
分かっていた。
分かっていたのだが、一応確認した。
ゆっくり顔を上げる。
「……持ってないです」
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
「あははははっ!」
ミアの明るい笑い声が、夕暮れのルーグ平原に響いた。




