④
丘を下り始めると、遠くから濃く見えていた緑の正体が少しずつ分かってきた。
周囲より背の高い草に、細い枝を広げる低木。
その間を縫うように、緩やかな窪みが草原の奥へ続いている。
「やっぱり、何かあるよな」
まだ水面までは見えない。
それでも斜面を下るにつれ、丘の上では聞こえなかった音が微かに耳へ届き始めた。
さらさらと、何かが流れる音。
「……水」
思わず歩調が速くなる。
数歩進んだところで、リベルは足を緩めた。
「いや、走るな」
ついさっき、草の中から何が飛び出してきたのかを思い出す。
風に揺れる草。
低木の陰。
何かが身を隠せそうな場所。
今のところ、あの長い耳は見えない。
「……よし」
足元だけでなく周囲にも視線を配りながら進み、やがて低木の間を抜ける。
「……あった」
目の前に、一本の川が流れていた。
大河と呼ぶほど大きくはない。
向こう岸までは数メートルほどで、澄んだ水の下には丸い石や細かな砂まで見える。
陽の光を反射した水面が煌めき、岸辺の草が流れに揺れていた。
「水だ……」
見つけた途端、それまで意識の外へ追いやっていた喉の渇きが急に強くなる。
リベルは岸へ近づき、その場にしゃがみ込んだ。
透明に見える。
流れもある。
両手ですくえば、そのまま飲めそうだった。
「…………」
水面へ伸ばしかけた手が止まる。
「これ、飲んでいいのか?」
地球にいた頃なら、川の水をそのまま飲もうとは思わなかった。
どれだけ綺麗に見えても、細菌や寄生虫がいないとは限らない。
ここが地球ではないから安全、なんて理屈になるはずもなかった。
「むしろ、余計分からないよな……」
かなり飲みたい。
けれど、今すぐ飲まなければ倒れるほどではない。
リベルは名残惜しそうに水面から手を離した。
「……やめとくか」
代わりに、左腕を見る。
裂けた袖の奥には、先ほどつけられた二本の傷が赤く残っていた。
「こっちは洗った方がいいよな」
指先で水をすくい、傷口へかける。
「っ……!」
冷たさと同時に鋭い痛みが走り、思わず顔をしかめた。
「痛っ……!」
それでも何度か水をかけ、傷の周りについた汚れを慎重に流す。
血はすぐに薄まり、流れの中へ消えていった。
「こんなもん、かな」
深くはない。
出血もかなり落ち着いている。
本当に大丈夫なのかは分からないが、何もしないよりはましだろう。
「薬とか欲しいな……」
口にしてから、小さく息を吐く。
「その前に、薬があるのかも知らないけど」
川辺の石へ腰を下ろした。
ここへ来てから、初めて少しだけ身体の力を抜いた気がする。
風が水面を撫でる音。
草同士が擦れる音。
遠くで鳴く、知らない鳥の声。
少し前までの戦いが嘘だったように、川辺は静かだった。
「次は……人か」
この川沿いを進めば、何かあるかもしれない。
水がある場所には、生き物も集まる。
もしこの世界にも町や集落があるなら、水辺からそう遠くないところに作られている可能性はある。
「川に沿って歩くのが無難かな」
問題は、上流と下流のどちらへ進むかだった。
左右を見比べる。
「…………」
当然、分からない。
「まあ、そうだよな」
笑うしかなかった。
何となく下流へ行こうかと立ち上がりかけた、その時。
「……ん?」
遠くから、何かの音が聞こえた。
一定の間隔で続く、低い音。
ゴト、ゴト。
その間に、硬いものが地面を踏むような音が混じっている。
「…………」
リベルはすぐに石を掴んだ。
立ち上がりながら身体を低くし、音のする方へ目を向ける。
何かが近づいている。
「今度は、もうちょっと平和なの頼むぞ……」
低木の向こうを凝視する。
音は少しずつ大きくなり――やがて、風に乗って別のものが届いた。
「だから、それ昨日も聞いたって!」
人の声だった。
「昨日聞いたからって、今日も気をつけなくていい理由にはならん」
今度は低い男の声。
「はいはい。分かってますよー」
「返事が軽い」
「返事まで重くする必要ある?」
「そういう話じゃない」
「…………」
リベルは瞬きをした。
会話。
聞き間違いではない。
誰かが話している。
「……人?」
石を握る力が僅かに緩んだ。
意味も分かる。
「なんで普通に聞き取れるんだ……?」
新しい疑問が浮かぶ。
だが、今はそれよりも重要なことがある。
「いや、それは後!」
誰かがいる。
本当に。
立ち上がりかけて、もう一度止まった。
相手が安全だとは限らない。
自分の言葉が相手にも通じるかも分からない。
隠れて様子を見る方が安全かもしれない。
そう考え、ふと自分の姿を見下ろす。
破れた袖。
血の残る左腕。
右手には、完全には血の落ちていない石。
「……これで茂みから覗いてる方が怖くない?」
どう考えても怪しかった。
その間にも音は近づいてくる。
やがて低木の向こうから、最初に大きな影が現れた。
一台の荷車だった。
見覚えのない四足の生き物がそれを引き、荷台には木箱や布袋が積まれている。
荷車の周囲を三人が歩き、その前方には御者台へ座る男が一人。
「…………」
リベルは思わず見入った。
二本の腕と脚。
服を着て、武器を持ち、言葉を交わしている。
自分とよく似た姿をしていた。
「いた……」
胸の奥に張りつめていたものが、僅かに緩む。
その時。
荷車の左側を歩いていた女性の顔が、こちらへ向いた。
背には弓。
肩ほどの位置で揺れていた髪が、振り向く動きに合わせて動く。
目が合った。
「……あ」
声が漏れる。
女性の表情から、さっきまでの軽さが消えた。
「ガルド。右前、川のところ」
短い声だった。
先頭を歩いていた大柄な男が即座に足を止める。
同時に片手を上げると、荷車も止まった。
もう一人の男はリベルを見るより先に周囲の草むらへ視線を走らせ、腰へ下げた武器へ軽く手を添えている。
「…………」
リベルは石を持ったまま立ち尽くした。
まずい。
向こうから見た自分を想像する。
一人。
草原。
破れた服。
血のついた腕。
そして石。
「……怪しいな、俺」
弓を背負った女性の眉が僅かに上がる。
「聞こえてるよ」
「…………」
「最悪だ」
思わず俯く。
女性の口元が少し緩んだ。
「ミア」
先頭の男が名前を呼ぶ。
「分かってるって」
今度の返事はさっきよりずっと小さかった。
男はリベルから一定の距離を保ったまま口を開く。
「そこでいい」
低い声だった。
威圧しているわけではないが、近づくなという意味は明確だった。
リベルも素直にその場で止まる。
男の目が左腕へ落ちた。
「怪我してるな」
「あ……はい」
「何にやられた?」
「えっと……」
説明しようとして、困った。
名前を知らない。
「長い耳があって、これくらいの大きさで――」
右手の石を持ったまま高さを示そうとして、途中で止まる。
四人の視線が石へ集まった。
「……これ、置いた方がいいですか?」
一瞬の間。
女性が吹き出した。
「自分から聞く人、初めて見た」
「いや、だってどう見ても怪しいでしょ、これ」
「それはそう」
「ミア」
「はいはい」
男は小さく息を吐いた。
「持ったままでいい。急に投げなければな」
「投げません」
「ならいい」
ほんの少しだけ肩の力が抜ける。
「それで、長い耳だったか?」
「はい。後ろ脚がすごく太くて、犬みたいな牙があって……急に飛びかかってきました」
「ああ」
女性――ミアがすぐに頷いた。
「ラグじゃない?」
「ラグ……?」
「薄茶色だった?」
「そうです」
「じゃあ多分ラグだね」
初めて聞く名前を、小さく繰り返す。
「……ラグ」
さっき自分が殺した生き物。
それにも、この世界ではちゃんと名前があった。
妙にそのことが胸へ残る。
先頭の男が傷へ目を戻す。
「噛まれたのか?」
「掠っただけです」
「傷は洗ったか?」
「さっき川で」
答えると、男の表情がほんの僅かに緩んだ。
「なら、あとでちゃんと見てもらえ」
「見てもらう?」
リベルが聞き返すと、少し後ろに立っていた男が初めて口を開いた。
「浅そうですが、放っておく理由もないでしょう」
静かな声だった。
視線は一度傷へ落ちたあと、すぐ周囲へ戻る。
腰に下げた小さな袋へ軽く触れる。
「簡単な処置ならできます」
「あ、ありがとうございます」
「まだ近づくな、セイル」
先頭の男が言う。
「分かってます」
セイルと呼ばれた男は、それ以上前へ出なかった。
親切ではある。
けれど、誰も無警戒に近づいてこない。
そのことが、むしろ少し信用できる気がした。
御者台に座っていた男が、そこで初めて身体をこちらへ向けた。
「お前、一人なのか?」
「…………」
返事までに、少し間が空く。
「はい」
四人の空気が僅かに変わった。
ミアの笑みが消える。
セイルは周囲へ向けていた視線をリベルへ戻した。
先頭の男は、リベルの背後に広がる草原を一度見た。
御者台の男だけが、驚いたように眉を上げる。
「この辺を、一人でか?」
「……たぶん」
「たぶん?」
ミアが首を傾げる。
「場所も分からなくて」
「…………」
今度は全員が黙った。
何かおかしなことを言っただろうか。
不安になり始めたところで、先頭の男が口を開いた。
「ここはルーグ平原だ」
「ルーグ……平原」
初めて知った。
当然なのに、自分が今いる場所へようやく名前がついた気がした。
「近くに街はありますか?」
「フィンリスからなら、この辺りまで半日ってところだ」
「フィンリス……」
また一つ、知らない名前が増える。
「俺たちはそこへ戻る途中だ」
「フィンリスに?」
「ああ」
街。
さっきまで探していたものが、急に目の前へ現れた。
先頭の男は少しだけリベルを眺め、それから荷車の方へ顔を向ける。
「マルク」
「俺の荷車だからな」
御者台の男――マルクは肩をすくめた。
「荷物の上でいいなら、一人増えたくらいどうってことない」
「いいんですか?」
思わず声が大きくなる。
マルクは鼻で小さく笑った。
「その状態で置いてって、あとで夢見が悪くなる方が面倒だ」
「……ありがとうございます」
「ただし」
人差し指を一つ立てる。
「事情は聞かせてもらうぞ。俺は商人だからな。何者かも分からんやつを、誰でも荷車に乗せるほどお人好しじゃねぇ」
「それは……もちろん」
どこまで話すかという問題はある。
自分自身、何が起きたのか分かっていない。
それでも、この場で彼らと別れ、一人で草原へ戻る選択肢は考えられなかった。
「じゃあ、その前に」
ミアが腰の水筒を持ち上げる。
「水、飲む?」
「…………」
リベルの視線が水筒へ吸い寄せられた。
ミアの口元が上がる。
「さっきから、すごい目で見てるけど」
「そんなに?」
「かなり」
「……飲みたいです」
即答した。
「素直でよろしい」
ミアが楽しそうに笑う。
それを見た先頭の男が、ようやく完全に警戒を解いたように小さく息を吐いた。
「俺はガルド」
自分の胸元を軽く指す。
「こっちがミア。そっちがセイル。荷車の持ち主がマルクだ」
「紹介、雑じゃない?」
すぐにミアが口を挟む。
「名前が分かれば十分だろ」
「初対面なんだから、もうちょっとこう……あるでしょ?」
「何を足すんだ」
「好きな食べ物とか?」
「いらないだろ」
「いるかもしれないじゃん!」
ガルドは相手にしなかった。
横でセイルが小さく息を吐く。
「たぶん、いらない」
「セイルまで!?」
マルクが御者台で声を上げて笑った。
ほんの少し前まで張りつめていた空気が、気づけば随分と柔らかくなっている。
リベルは四人を見た。
ガルド。
ミア。
セイル。
マルク。
この世界へ来て、初めて知った誰かの名前。
「お前は?」
ガルドが尋ねる。
「名前だ」
「…………」
一瞬だけ言葉が止まった。
ほんの少し前。
誰もいない草原で、自分自身へ向けて選んだ名前。
あの時、それを聞いていた者はいなかった。
今度は違う。
この世界で初めて、誰かへ名乗る。
リベルは顔を上げた。
「リベルです」
口にすると、不思議なくらい自然だった。
「よろしくお願いします」
ミアがすぐに笑う。
「よろしく、リベル!」
ガルドは一度だけ頷いた。
「よろしくな」
セイルも小さく会釈する。
「よろしく」
マルクは御者台から片手を上げた。
「おう。よろしくな、リベル」
「…………」
同じ名前が、別々の声で返ってくる。
「どうしたの?」
ミアが首を傾げた。
「いや……」
リベルは小さく笑った。
「何でもないです」
目を覚ましてから、ずっと一人だった。
知らない草原を歩き、知らない生き物に襲われ、飲んでいいのかさえ分からない水を前に一人で悩んだ。
それが今は違う。
目の前には、名前を持った誰かがいる。
そして初めて、自分が選んだ名前を誰かに呼ばれた。
ルーグ平原。
フィンリス。
ラグ。
知った名前の分だけ、分からないことはむしろ増えている。
それでも。
少なくとも、これから先は全部を一人で確かめなくてもいいのかもしれない。
そう思えたことだけは、今までとは大きく違っていた。




