③
後脚が地面を蹴った。
「っ!」
三メートルほどあった距離が、一瞬で消える。
リベルは咄嗟に身体を右へ投げた。
牙が目の前を通り過ぎる。
肩から地面へ落ち、そのまま草の上を転がった。
「うわっ……!」
すぐに顔を上げる。
生き物はリベルが立っていた場所を飛び越え、二メートルほど先へ着地していた。
細い前脚が先に地面へ触れ、太く発達した後脚がそのあとに下りる。
勢いのまま走り抜けることはなく、一度身体を沈めてから、前脚を軸にこちらへ向き直った。
「速っ……」
リベルは慌てて立ち上がり、右手の石を握り直す。
まともに走って逃げれば、まず追いつかれる。
だが。
「跳んでる間は……真っ直ぐ?」
さっきの一度だけでは断定できない。
それでも、空中でこちらへ方向を変えたようには見えなかった。
着地してから向き直るまでにも、僅かな間がある。
「いや」
小さく首を振る。
「一回見ただけで決めるな」
間違っていた時に困るのは自分だ。
それも、少し痛い程度では済まないかもしれない。
生き物がこちらへ向き直った。
長い耳が後ろへ伏せられ、太い後脚が再びゆっくりと沈む。
「また来る……」
今度は腰を落とし、最初から避ける準備をした。
見るのは後脚だけではない。
跳び出したあと、身体の向きが変わるかどうか。
沈む。
力が溜まる。
そして――伸びた。
「今!」
リベルは右へ踏み出した。
だが、僅かに遅い。
「っ!?」
開いた口が左腕の袖を掠めた。
布が裂け、その下の皮膚へ鋭い痛みが走る。
「痛っ!」
身体を捻って距離を取る。
生き物はそのまま前方へ飛び抜け、草の上へ着地した。
リベルはすぐ左腕を見る。
裂けた袖の下に二本の浅い傷が走り、細く血が滲んでいた。
「……普通に噛まれたら、まずいやつだな。これ」
声が少し震える。
さっきまでは、ただの未知の生き物だった。
今は違う。
こいつは、自分を傷つけられる。
「逃げる……?」
一瞬、頭に浮かぶ。
だが、相手は自分より明らかに速い。
背中を向けて走れば、あの跳躍で簡単に追いつかれるかもしれない。
それに。
「…………」
痛む左腕を押さえながら、生き物を見る。
さっきも、空中では方向を変えなかった。
二回。
まだ絶対とは言えない。
それでも、最初よりはずっと確信がある。
「……無理だな」
リベルは息を吐き、石を握り直した。
「やるしかない」
そう口にしても、手の震えは止まらなかった。
戦いたいわけではない。
勝てる自信だってない。
それでも、生き残るためにはここを切り抜けるしかない。
生き物がこちらへ身体を向ける。
リベルは左手を前へ出した。
「さっきのやつ……」
身体の中を巡る魔力へ意識を向ける。
球ではない。
板。
けれど、さっき作ったものより小さくていい。
「薄いから崩れたなら……」
手のひらほどの大きさ。
できるだけ単純に。
そして、厚く。
青白い魔力が左手の前へ集まり、円に近い板が形を作っていく。
少し歪んではいる。
それでも、先ほど試したものより明らかに輪郭が安定していた。
「……できた!」
喜んでいる暇はない。
生き物はもう、身体を低く沈めていた。
リベルは逃げたくなる身体をその場へ留める。
「……来い」
後脚が地面を蹴った。
一気に距離が消える。
「っ!」
怖い。
それでも、今度は横へ逃げなかった。
相手の顔の前へ、左手の板を差し込む。
衝突した。
甲高い音と同時に、左腕全体へ強い衝撃が走る。
「ぐっ……!」
青白い板に亀裂が入り、砕け散った。
止めきれない。
それでも、生き物の顔が僅かに横へ弾かれた。
跳躍の軌道が逸れる。
「今だ!」
リベルは半歩踏み込み、右手の石を振り抜いた。
硬い感触が腕へ返ってくる。
石が、生き物の側頭部へ当たった。
小さな身体が空中で崩れ、そのまま草の上へ転がる。
「当たった……!」
すぐに二歩下がった。
石を構えたまま、相手を見る。
生き物は横倒しになっていた。
長い耳が草の上へ落ちている。
「…………」
動かない。
そう思った直後、後脚が僅かに震えた。
「まだだ」
リベルは息を飲む。
細い前脚が地面へついた。
生き物がゆっくりと身体を起こそうとしている。
口が開く。
牙が見えた。
「…………」
石を握る手が止まる。
もう一度、振り下ろす。
そう考えた瞬間、自分が何をしようとしているのかを理解した。
――殺す。
これはゲームの敵ではない。
少し前まで草の中にいて、こちらを見て、動いていた生き物だ。
「…………」
腕が動かない。
その間にも、生き物は起き上がろうとしている。
後脚へ、少しずつ力が戻っていた。
「……くそ」
迷っている場合ではない。
起き上がったあと、もう襲ってこないという保証はどこにもない。
自分が生き残るために。
リベルは石を両手で握った。
「……ごめん」
一歩踏み込み、振り下ろす。
鈍い音がした。
生き物の身体が一度だけ大きく震える。
「…………」
リベルは石を構えたまま、その場を動かなかった。
一秒。
二秒。
三秒。
長い耳は動かない。
胸も上下していなかった。
「……死んだ?」
返事などあるはずがない。
それでも、すぐには近づけなかった。
荒い呼吸を整えながら、一歩だけ下がる。
左腕が痛い。
板で衝撃を受けた掌も痺れている。
そして。
右手の石には、赤い血が付いていた。
「…………」
それを見た瞬間、急に現実味が増した。
さっきまで生きていた。
自分が殺した。
「……そりゃ、残るよな」
光になって消えるわけでもない。
何かの道具へ変わるわけでもない。
草の上に残っているのは、一匹の生き物の死体だった。
襲われた。
逃げ切れる保証もなかった。
自分が生きるために必要だった。
同じ状況になれば、きっとまた同じ判断をする。
それでも。
「……慣れたくはないな」
小さく呟き、ようやく石を下ろした。
勝った、負けた。
それだけで片づけられるようにはなりたくなかった。
「痛っ……」
緊張が抜けた途端、左腕の傷が強く痛んだ。
袖を捲る。
二本の傷から、まだ少し血が滲んでいる。
深くはないし、腕も問題なく動いた。
「洗いたいな……」
当然、水はない。
「水探してたんだよな、俺」
何とも間の悪い話だった。
傷へ土や草が触れないよう袖を整え、それから地面に倒れた生き物へ視線を戻す。
「……何なんだ、お前」
長い耳。
細い前脚。
発達した後脚。
柔らかそうな薄茶色の毛。
そして鋭い牙。
地球の何かに似ているのに、どれとも違う。
少し近づきかけて、足を止めた。
「…………」
肉や毛に何か使い道があるかもしれない。
けれど、毒があるかもしれない。
寄生虫がいるかもしれない。
この世界の生き物に、地球の常識がそのまま通じる保証はない。
「分からないまま触るのは、やめとくか」
自分で言ってから、少しだけ満足する。
「……ちょっと成長したな」
一拍置いて、左手を見る。
さっき盾代わりにした青白い板を思い出す。
「いや、本番で実験したやつが言うことじゃないか」
自分で突っ込み、乾いた笑いが漏れた。
血の付いた石を草へ何度か擦りつける。
完全には落ちなかった。
「初期装備、だいぶ物騒になったな……」
それでも、捨てる気にはなれない。
今の自分にとって、これが唯一の武器だった。
リベルは再び丘へ向かって歩き始めた。
◇
さっきまでとは、歩き方が変わっていた。
草が揺れるたびに足を止める。
「…………」
風。
少し進む。
また揺れる。
「…………」
今度も風だった。
「神経質になってるな……」
そう思っても仕方がない。
ついさっきまで、草の向こうに何がいるのかなどほとんど考えていなかった。
今は違う。
一匹見たのなら、他にもいるかもしれない。
リベルはなるべく開けた場所を選び、周囲の音にも気を配りながら歩いた。
進む速度は遅くなった。
それでいい。
「急いでもう一回噛まれたら意味ないしな」
やがて草の高さが少しずつ低くなり、地面も緩やかな上り坂へ変わっていく。
「もうちょっとか」
丘の頂上が近い。
額には薄く汗が滲み、喉の渇きも強くなっていた。
「頼むから、何かあってくれよ……」
最後の斜面を登る。
一歩。
また一歩。
そして、丘の上へ出た。
「…………」
視界が一気に開ける。
緩やかに波打つ草原。
所々に生える低木。
さらに遠くには、小さな森のような濃い緑が広がっていた。
「何か……ないか」
道。
建物。
煙。
水。
何でもいい。
ゆっくりと視線を動かす。
そして。
「……あれ?」
丘を下った先。
草原の一部だけ、細長く色が濃くなっている場所があった。
周囲より背の高い草や低木が、一本の線を描くように続いている。
「もしかして……」
地球でも見たことがある。
水のある場所では、その周囲だけ植物の育ち方が変わる。
確証はない。
けれど。
「川……あるのか?」
乾いていた喉が、急に存在感を増した。
今すぐ走り出したくなる。
だが、リベルは一度周囲を見回した。
草の揺れ。
進む方向。
何かが隠れられそうな場所。
さっきまでなら、そこまで確認しなかったかもしれない。
「……よし」
怖い。
まだ何も分からない。
それでも、ほんの少しだけ、この世界で生きる方法を知った。
知らないなら、見る。
考える。
試して、間違っていたら次は変える。
「次は水」
左腕の傷を気にしながら、リベルは濃い緑の続く場所へ向かって丘を下り始めた。




