⑦
翌朝。
「じゃあ行ってくる」
「キュ」
銀月亭の部屋を出ようとしたリベルは、扉へ手をかけたところでもう一度振り返った。
アリスは昨日と同じ壁際に伏せている。
大きな耳だけがこちらを向いていた。
「今日は依頼行くかもしれないから、ここで待ってて」
「キュゥ」
《共律》を通して、ぼんやりとした感覚が伝わってくる。
不満。
というより、気になる。
「外はまだ慣れてないだろ?それに戦うことになるかもしれないし」
言葉そのものが伝わっているわけではない。
それでも、危ないから置いていく、という感覚くらいは伝わった気がした。
アリスの尾が一度だけ床を叩く。
「……ちょっと不満そうだな」
「キュ」
「帰ってくるって」
扉を開ける。
今度はついてこなかった。
「よし」
少しだけ安心して、リベルは部屋を出た。
◇
冒険者ギルドへ入ると、朝からいつものように人が多かった。
依頼掲示板の前には何人もの冒険者。
受付では依頼を受ける者と報告をする者が並んでいる。
リベルはその中から見慣れた受付を探した。
「あ、いた」
エレナの列へ並ぶ。
順番が来ると、彼女もすぐに気づいた。
「おはようございます、リベルさん」
「おはよう。ちょっと登録変えたいんだけど」
「何の登録ですか?」
「まずアリス」
「アリス?」
「昨日のカーバル」
「ああ」
エレナが納得したように頷く。
「名前を決めたんですね」
「うん」
「では、同伴登録の個体名を変更しておきます。アリス、でいいですか?」
「それで」
エレナが書類を取り出す。
そこへ何かを書き込んでいく。
「これで大丈夫です」
「早いな」
「名前を追加するだけですから」
「じゃあ、もう一個」
「はい」
「枝脈って増えたら言った方がいい?」
エレナの手が止まった。
「……増えたんですか?」
「うん」
「いつです?」
「一個は十日くらい前かな」
「十日くらい前?」
「たぶん」
「たぶん……」
エレナがじっとこちらを見る。
「何?」
「いえ。その一個という言い方が気になっただけです」
「ああ。もう一個は昨日」
「…………」
「エレナ?」
「ちょっと待ってください」
持っていたペンを置く。
「まず、一個ずつ聞きます」
「うん」
「十日ほど前に発現した枝脈は?」
「《身律》」
エレナの眉が少し上がった。
「《身律》ですか」
「そう」
「身体能力を魔力で高める、比較的一般的な枝脈ですね」
「やっぱりそうなんだ」
「やっぱり?」
「セラも使えるみたいだから」
「なるほど」
エレナが新しい書類を出す。
「実際にどう使っています?」
「足速くしたり、力強くしたり。耳とかに使うと音も聞きやすくなる」
「それなら《身律》で間違いなさそうですね」
さらさらと文字を書く。
「これで《身律》は追加しておきます」
「ありがとう」
「それで」
ペン先が止まる。
「昨日の方は?」
「ああ」
リベルは少し考えた。
「《共律》」
「きょうりつ?」
「うん」
エレナの表情が変わった。
「……どういう字です?」
「共に、律する」
「《共律》……」
小さく繰り返す。
「知らない?」
「少なくとも、私は聞いたことがありません」
「へえ」
「へえ、じゃないですよ」
エレナが少し身を乗り出した。
「何ができる枝脈なんですか?」
「アリスと繋がる」
「繋がる?」
「魔力が重なるっていうか……」
昨日の感覚を思い出す。
指先へ触れた鼻先。
そこから流れてきた、自分ではない感情。
「怖いとか、気になるとか。そういうのが何となく伝わってくる」
「言葉が聞こえるわけではない?」
「それはない」
「映像が見えるとか?」
「ないと思う」
「リベルさんからも何か伝えられるんですか?」
「たぶん。昨日は、一緒にいてもいいって感じを伝えた」
「……たぶんが多いですね」
「昨日できたばっかりだから」
「それもそうですけど」
エレナは少し考え込む。
「《共律》という名前は、どこで知ったんです?」
「俺がつけた」
「……はい?」
「共に律する感じだったから、《共律》」
エレナが黙った。
「変?」
「名前の問題ではなくてですね」
「うん」
「普通、枝脈に自分で名前をつけることはほとんどありません」
「何で?」
「既に知られている枝脈なら、性質を見ればどの枝脈か判断できますから」
「じゃあ知らない枝脈だったら?」
「過去の記録と照らし合わせます」
「それでもなかったら?」
エレナが少しだけ目を細めた。
「……新しい枝脈、ということになります」
「へえ」
「だから、へえじゃないんです」
「でも俺、他の枝脈全部知らないし」
「それはそうなんですが……」
エレナは額へ指を当てた。
「少なくとも、今ここで《共律》という枝脈が既存のものかどうかは判断できません」
「じゃあ登録できない?」
「《身律》のようにすぐ正式登録、とはいきませんね。ただ、申告があったことは記録しておきます」
「分かった」
「あとで支部の記録も確認します。もう少し性質が分かったら、また教えてください」
「うん」
エレナが書類へ何かを書き込む。
その途中で、ふと手が止まった。
「……ちなみに」
「何?」
「《身律》が十日ほど前」
「うん」
「《共律》が昨日」
「うん」
「リベルさん、冒険者になってからまだ二週間くらいですよね?」
「それくらい」
「…………」
「何?」
「枝脈って、そんな勢いで増えるものじゃないんですけど」
「そうなの?」
「そうなんです」
「でも増えたよ」
「それは見れば分かります」
エレナが小さく息を吐く。
「後天的に枝脈を得ること自体は、自律種ならあります。でも普通は、もっと長い経験や積み重ねの中で形成されるものです」
「じゃあ早いんだ」
「かなり」
「へえ」
「もういいです」
「諦めた?」
「少し」
エレナが書類をまとめる。
「とにかく、《身律》は登録。《共律》は確認中です。何か変化があったら教えてください」
「分かった」
「今度は十日も放置しないでくださいね」
「忘れてた」
「忘れないでください」
「はい」
受付を離れ、依頼掲示板へ向かう。
何を受けようか。
昨日はラグ二体だった。
今日は少し違うものがいい。
掲示板を見上げる。
「採取……護衛……討伐……」
「また独り言?」
「ん?」
聞き覚えのある声。
振り返る。
黒い髪。
軽装。
腰から伸びる鎖。
「あ、セラ先輩」
「それまだ言うの?」
「覚えてた」
「忘れてほしかった」
「じゃあセラ後輩」
「何で下がるの」
セラが呆れたように笑った。
「普通にセラでいい」
「分かった、セラ先輩」
「分かってない」
「冗談だって」
リベルも笑う。
パーティへ誘って、断られた。
それ以来だった。
けれど、気まずそうな様子はない。
「依頼探してるの?」
「うん。セラも?」
「そう」
二人で掲示板を見る。
少しして。
「あ」
「あ」
ほぼ同時に手が伸びた。
同じ依頼書。
「……これ?」
「それ」
リベルが一歩引く。
「どうぞ」
「何で譲るの」
「先輩だから」
「もうそれやめてって」
「じゃあ半分?」
「依頼書を?」
「報酬」
「それ、一緒に受けるってこと?」
「そうとも言う」
セラが依頼書を見る。
岩場に棲みついたガルク三体の討伐。
場所はフィンリスからそれほど遠くない。
「……パーティの話じゃないよね?」
「依頼だけ」
「なら」
少しだけ間があった。
「一緒に行く?」
「いいの?」
「依頼だけならね」
「じゃあ行こう」
「軽いなあ」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
セラの口元が少し緩んだ。
◇
フィンリスを出て、一時間ほど。
街道から外れた先に、低い岩山が広がっていた。
大きな岩がいくつも突き出し、その間を細い道が縫うように続いている。
「この辺だね」
セラが依頼書を確認する。
「狭いな」
「鎖、振りづらそう?」
「少し。でも無理ってほどじゃない」
リベルは周囲を見る。
広い場所もある。
ただ、岩と岩の間はかなり狭い。
「俺も壁作る場所考えないとな」
「この前みたいに塞ぎすぎないでよ?」
「戦いやすかったって言ってたじゃん」
「使い方次第」
「厳しい」
「ほんとほんと」
「それ俺の真似?」
「さあ?」
セラが笑う。
少し前を歩いたところで、視線がリベルの腰へ落ちた。
「それ何?」
「どれ?」
「反対側の」
「ああ」
昨日バレンから買った柄。
刃はない。
「剣」
「……柄しかないけど」
「剣になる」
「どういうこと?」
「見れば分かる」
「すごい自信」
「昨日失敗したけど今日はたぶん大丈夫」
「急に不安になった」
その時。
岩陰から低い唸り声が聞こえた。
二人の表情が変わる。
「来る」
「うん」
リベルがいつもの剣を抜く。
セラは鎖刃へ手をかけた。
岩の向こう。
一体。
さらに奥から二体。
三体のガルクが姿を現した。
灰黒い体毛。
太い前脚。
身体のところどころに硬質な突起。
そのうち一体が地面を蹴る。
「まず一体!」
リベルが前へ出る。
ガルクが前脚を振り上げた。
一歩横へ。
爪が岩肌を削る。
すれ違いざまに剣を振る。
浅い。
ガルクが身体を捻る。
そこへ。
「下がって!」
セラの声。
リベルが一歩退く。
横から鎖刃が走った。
弧を描いた刃がガルクの脇腹を捉える。
「ギャウッ!」
勢いのまま鎖が抜ける。
セラが手元を引く。
戻る刃。
《流律》で勢いを落としながら、綺麗に手元へ収めた。
「やっぱそれ便利だな」
「今言う?」
「思ったから」
「前!」
「分かってる!」
二体目が来る。
リベルは左手を向けた。
青白い板。
ガルクの進路へ斜めに作る。
避ける。
向きが変わる。
「そっち!」
「うん!」
待っていたセラが鎖を振る。
青白い板の横を抜けたガルクへ、刃が叩き込まれた。
もう一体。
「右!」
リベルが振り返る。
距離がある。
いつもの剣では少し遠い。
「じゃあ」
剣を鞘へ戻す。
反対側。
柄だけの武器を抜く。
「それ使うの!?」
「見てて!」
魔力を流す。
柄の先へ青白い光。
伸びる。
いつもの剣より長い刃が形になった。
「……何それ」
「剣」
「ちゃんと剣になってる」
「ちゃんとって何」
「だって柄だけだったし」
ガルクが迫る。
「詳しいことはあとで!」
長い刃を振る。
普段なら届かない距離。
青白い刃先が、ガルクの肩を捉えた。
「っ!」
手応え。
深くはない。
だが届いた。
「よし!」
刃を消す。
今度は短く作り直す。
岩の近い場所では、長い刃は邪魔になる。
「……長さ変えられるんだ」
「作り直せば!」
「便利だね!」
「だろ!」
二人の動きが重なる。
セラの鎖が広く使える場所では、リベルが敵をそちらへ誘導する。
岩の間では《顕現》の板で進路を絞る。
距離が開けば長い刃。
近づけば短い刃。
「やっぱり」
セラが鎖を引きながら言う。
「何?」
「戦いやすい」
「俺も!」
一体目が倒れる。
二体目も動きが鈍っている。
残る一体。
「あと一体!」
ガルクが岩の裏へ回った。
姿が消える。
「見えない」
「右から来るかも」
二人が距離を取る。
左から地面を蹴る音。
「セラ!」
岩陰からガルクが飛び出した。
狙いはセラ。
彼女も気づく。
身体を捻る。
鎖刃を大きく振り出した。
刃がガルクの横を通り過ぎる。
避けられた。
「っ!」
ガルクはそのままセラへ。
距離が近い。
鎖刃はまだ遠く、戻すには時間がかかる。
「――!」
リベルの足に魔力が走った。
《身律》。
考えるより先に踏み込む。
セラとガルクの間。
「リベル!?」
短い青白い刃を作る。
振る。
ガルクの前脚を弾いた。
身体が横へ流れる。
「よし――」
「待って!」
セラの声。
その瞬間。
視界の端で何かが光った。
「……っ!」
鎖刃。
さっき振り抜かれた刃が、セラの手元へ戻ってくる。
その軌道上。
今までいなかったはずの場所にリベルがいる。
「止まって!」
セラが叫ぶ。
魔力が鎖を走る。
《流律》。
戻ってくる刃の勢いが急激に落ちた。
それでも完全には止まらない。
「っ!」
刃先がリベルの左腕を掠めた。
服が裂ける。
一瞬遅れて、熱い痛み。
「リベル!」
セラが鎖を手放すように止めた。
「大丈夫!」
ガルクがまだいる。
リベルは腕を見る暇もなく剣を構える。
「先にこっち!」
「……うん」
二人で最後の一体へ向き直る。
だが、さっきまでとは違った。
セラの鎖が短い。
大きく振らない。
リベルとの距離を何度も確認している。
「セラ!」
「分かってる!」
ガルクが突っ込む。
リベルが板を出す。
進路がずれる。
セラの鎖刃。
今度は必要以上に小さな軌道。
浅い。
「っ……」
「俺の位置気にしなくていい!」
「でも!」
「さっきのは俺が急に入ったから!」
「――!」
一瞬。
セラの動きが止まる。
その隙をリベルが埋めた。
身律で踏み込む。
青白い刃。
短く。
ガルクの懐へ。
「っ!」
振り抜く。
ガルクの身体が倒れた。
動かない。
「……終わった」
息を吐く。
そこでようやく、左腕を見る。
服が裂けている。
皮膚も浅く切れていた。
血が少し流れている。
「思ったより浅いな」
「見せて」
セラがすぐ近くまで来た。
傷を見る。
その顔が固まる。
「本当に浅いよ」
「……ごめん」
「いや、俺が急に入ったから」
「ごめん」
「セラ?」
返事がない。
セラは傷だけを見ている。
「《流律》で止めてくれたからこれで済んだんだろ?」
「違う」
「何が?」
「私が――」
言葉が止まる。
手が、わずかに震えていた。
「セラ」
「……違うの」
今度は少し強い声。
リベルは黙った。
それ以上、聞かなかった。
「とりあえず傷洗うよ」
「うん」
セラが荷物から布と水を取り出す。
傷を洗い、布を巻く。
その間。
二人ともほとんど話さなかった。
◇
帰り道。
行きとは違って、会話は少なかった。
リベルが何か話せば、セラは返す。
でも短い。
笑わないわけではない。
ただ、どこか遠い。
「……痛む?」
「これ?」
左腕を見る。
「全然」
「そう」
「明日には平気だと思う」
「……うん」
また沈黙。
リベルは隣を見る。
聞こうと思えば聞ける。
何でそんなに気にするのか。
前にも同じことがあったのか。
でも、セラは話そうとしていない。
なら。
「今日は新しい剣、使えたな」
「……うん」
「まだ形ちょっと変だったけど」
「ちゃんと剣に見えたよ」
「ちゃんと?」
「昨日は知らないけど」
「昨日は棒だった」
「やっぱり?」
「見てないだろ」
ほんの少し。
セラが笑った。
「何となく」
「ひどいな」
それでも、その笑顔はすぐに消えた。
◇
フィンリスの門が見えてきた。
依頼は達成。
三体のガルクを討伐した。
本来なら、それで終わるはずだった。
「リベル」
「ん?」
セラが足を止める。
リベルも止まった。
「……私」
言葉を探すように、一度視線を落とす。
「しばらく、一緒の依頼はやめとく」
「…………」
理由は、聞かなくても今日のことだとは分かった。
「傷ならほんとに大丈夫だよ」
「そうじゃない」
「そっか」
「……うん」
セラが顔を上げる。
「ごめん」
「謝らなくていいって」
「でも」
「俺が急に入ったのも悪かったし」
「…………」
「だから、セラだけのせいじゃない」
セラは何も言わなかった。
しばらくして。
「……またね」
「ああ」
前と同じ言葉。
でも、前とは少し違う。
セラが先に歩き出す。
黒い髪が揺れる。
鎖刃は腰に収まったまま。
リベルはその背中を少しだけ見送った。
「……何かあるよな」
小さく呟く。
追いかけはしなかった。
話したくなったら、その時でいい。
そう思う気持ちは、前と変わらない。
ただ、左腕に巻かれた布だけが。
今日まで知らなかった何かを、確かに残していた。




