⑥
銀月亭へ戻ると、ローナはリベルの後ろを見て動きを止めた。
「……何だい、その子」
「カーバル」
「それは見れば分かるよ!」
「じゃあ何?」
「何でカーバル連れて帰ってきてるのさ!」
「ついてきた」
「またそれかい!」
ローナが腰へ手を当てる。
カーバルはリベルの少し後ろで足を止め、警戒するように大きな耳を立てていた。
「街に入れて大丈夫なの?」
「ギルドで登録した」
「登録した?」
「うん。街の中で何かしたら俺の責任」
「そこまで分かってるならいいけどね」
ローナはカーバルを見る。
カーバルもローナを見る。
しばらく互いに動かなかった。
「……部屋は?」
「入れたい」
「何か壊したら弁償ね」
「はい」
「汚したらあんたが掃除」
「はい」
「他のお客さんに迷惑かけたら、その時は外に出してもらうよ」
「分かった」
「食堂は?」
「駄目?」
「今日はやめときな。あんなに人がいたら、その子も落ち着かないだろ」
「それもそうか」
「ご飯がいるなら、あとで持ってってやるよ」
「ありがとう」
「その代わり、あんたの分と一緒にちゃんとお金取るからね」
「そこは取るんだ」
「当たり前だろ!」
「分かってるって」
ローナが呆れたように手を振る。
「ほら。さっさと部屋行きな」
「はいはい」
階段へ向かう。
数歩進んでから振り返った。
カーバルはまだその場にいた。
「……来ないの?」
カーバルの耳が動く。
階段を見る。
リベルを見る。
「俺の部屋こっちだけど」
それ以上は何も言わず、リベルは階段を上り始めた。
一段。
二段。
少し遅れて小さな足音が聞こえた。
「来るんだ」
「キュ」
「今日はよく返事するな」
部屋の前まで来て、扉を開ける。
「ここ」
リベルは先に中へ入った。
カーバルは入口で止まった。
鼻先を動かしながら、部屋の中を見ている。
ベッド。
机。
椅子。
窓。
狭い部屋だが、カーバルにとってはどれも知らないものなのだろう。
「入る?」
答えはない。
「まあ、そこにいたいならそこでも――」
一歩。
カーバルが部屋へ入った。
「……お」
さらに一歩。
完全に敷居を越える。
リベルが扉を閉めると、カーバルの耳がぴくりと動いた。
だが、逃げようとはしなかった。
「ほんとに来たな」
部屋の中央までは進まない。
扉から少し離れた壁際で止まり、その場へ身体を伏せる。
「そこがいいの?」
「キュ」
「それは分かって言ってる?」
当然、分からない。
リベルは笑いながら装備を外し、ベッドへ腰を下ろした。
しばらくしてローナが持ってきた肉と果物を床へ置く。
「食べる?」
カーバルはすぐには近づかなかった。
「俺のじゃないよ」
リベルが少し離れる。
すると、ゆっくり近づいた。
肉の匂いを嗅ぐ。
少しだけ齧る。
もう一口。
「あ、食べた」
そのまま肉を食べ始めた。
「果物は?」
横に置いた実も匂いを嗅いでから口へ運ぶ。
「そっちも食うんだ」
知らないことが一つ分かった。
何を食べるのか。
それだけ。
「……他は?」
カーバルが顔を上げた。
「何が好き?」
当然、答えはない。
「何が嫌い?」
「…………」
「何で俺についてきた?」
カーバルの耳が一度動く。
「街、怖かった?」
「キュ」
「いや、どれの返事?」
分からない。
昨日までは、それでもよかった。
来たいなら来ればいい。
帰りたいなら帰ればいい。
自分が決めることではない。
その考えは今も変わらない。
でも。
「責任持つって言っちゃったんだよな」
街の中で何かあれば、自分の責任。
それなら、せめて。
「お前が嫌がってるかどうかくらい、分かった方がいいよな」
カーバルを見つめる。
何を考えているのか知りたい。
言葉を話したいわけではない。
全部を覗きたいわけでもない。
怖い。
嫌だ。
行きたい。
離れたい。
そのくらい。
「……伝わればいいのか」
そこで、リベルの視線が自分の手へ落ちた。
枝脈。
今まで、自分の身体を強くするものは作った。
外へ形を作る力もある。
なら。
「俺とこいつを繋ぐようなものって……作れるのかな」
思いついた途端、気になった。
「ちょっと試してみるか」
カーバルがこちらを見る。
「怖いことしないから」
言ってから、少し考える。
「……たぶん」
「キュッ」
「今のは嫌そうだな」
リベルは上着を少し捲った。
左脇腹から胸元へ伸びる、青白い枝のような華紋。
その先。
青い薔薇の蕾へ意識を向ける。
息を整える。
魔力を流した。
淡い光を放ちながら蕾が少しずつ開いていく。
意識を、自分の内側へ。
以前、《身律》を作った時と同じ。
何をしたいのか。
どうすれば、それが起きるのか。
形にする。
「繋ぐ……」
自分から魔力を伸ばす。
相手へ届かせる。
そこから何かを受け取る。
感情。
簡単な意思。
逆に、自分からも伝える。
細い一本の道。
そんなものを思い浮かべる。
「…………」
枝を伸ばそうとする。
だが。
「……あれ?」
止まる。
形にならない。
もう一度。
自分から相手へ。
魔力を繋ぐ。
「……違う?」
少しだけ形になりかけて、崩れた。
「難しいな」
《身律》の時とは違う。
自分の中だけで完結しないからだろうか。
「俺から繋いで……」
もう一度考える。
その時。
カーバルが立ち上がった。
「ん?」
さっきより少し離れている。
「どうした?」
一歩近づこうとすると、カーバルも一歩下がった。
「……あ」
リベルの足が止まる。
カーバルはこちらを見ている。
耳は少し伏せられていた。
「嫌だった?」
「クゥ……」
「……そっか」
魔力を止める。
青い薔薇がゆっくり閉じた。
リベルはベッドへ座り直す。
「俺から繋ぐ、か」
口にしてから何となく引っかかった。
今日。
門の前。
カーバルは自分で街へ入ろうとした。
その前も。
ついてくるかどうかは、ずっとカーバルに任せていた。
近づこうとすれば逃げたから、追わなかった。
来るなら来ればいい。
帰りたいなら帰ればいい。
「……俺が決めることじゃないし」
自分で言った言葉だった。
なのに。
「これだけ俺が勝手に繋いだら変か」
カーバルを見る。
「俺だけじゃ駄目なのか」
もう一度、目を閉じる。
今度は違う。
自分から相手へ伸ばす一本の道ではない。
二つ。
自分の魔力。
相手の魔力。
どちらかがどちらかを飲み込むのではなく、間で重なる。
互いに少しずつ受け取り、少しずつ返す。
同じ流れに合わせる。
「……これならいける?」
青い薔薇が再び開く。
枝が伸びる。
今度は止まらない。
細い。
まだ頼りない。
それでも、先ほどより明確な形ができていく。
自分一人で完成する部分は、ここまで。
その先には空いた場所がある。
「……なるほど」
そこで初めて分かった。
この枝脈だけでは、何とも繋がらない。
繋ぐ相手がいて。
その相手が受け入れて。
初めて、一つになる。
最後まで枝を整える。
やがて、身体の内側へ新しいものが定着した感覚があった。
「……できたのか?」
リベルは目を開ける。
青い薔薇が閉じていく。
カーバルはまだ同じ場所にいた。
「よし」
床へ座る。
今度は近づかない。
右手だけを、自分とカーバルの間へ出した。
手のひらを上へ。
「俺は」
少し考える。
「お前と繋がってみたい」
カーバルの耳がこちらを向く。
「何考えてるか、全部分かりたいわけじゃないよ」
そんなものは、自分だって嫌だ。
「でも、嫌なのか。怖いのか。行きたいのか。そのくらい分かったらいいなって思ってる」
言葉そのものは伝わっていないだろう。
だから。
新しくできた枝へ魔力を流す。
自分の手まで。
そこから先へは伸ばさない。
「でも」
カーバルを見る。
「お前が嫌なら、いい」
それ以上、何もしなかった。
待つ。
廊下を誰かが歩く音。
下の階から聞こえる笑い声。
食器が触れ合う音。
窓の外を抜けていく風。
カーバルの耳が何度か動く。
「…………」
一歩。
近づいた。
リベルは動かない。
もう一歩。
カーバルが止まる。
こちらを見る。
伸ばされた手を見る。
鼻先を少し動かす。
「…………」
さらに一歩。
手が届く距離。
でも、リベルは触らない。
待つ。
カーバルが鼻先を近づけた。
匂いを嗅ぐ。
一度、顔を上げてリベルを見る。
「大丈夫」
小さく言う。
そして。
柔らかな鼻先が、指先へ触れた。
「……!」
初めて。
カーバルの方から触れた。
その瞬間。
自分の中にある新しい枝が、何かを捉えた。
魔力を流す。
今度は消えない。
指先から伝わった細い流れが、カーバルの魔力と重なる。
ふと何かが流れ込んできた。
「……え?」
声ではない。
言葉でもない。
映像でもない。
それでも、自分のものではないと分かった。
緊張。
知らない場所への怖さ。
周囲への警戒。
それより少しだけ強い好奇心。
そして。
離れていくものを追いたくなるような感覚。
「……お前」
カーバルの耳が動く。
また何かが伝わる。
今度は、ほんの少し落ち着くような感覚。
それが自分へ向けられている。
「……そっか」
思わず笑った。
「だからついてきてたのか」
理由を全部理解できたわけではない。
何か具体的な言葉が返ってきたわけでもない。
ただ。
怖い。
でも気になる。
離れたくない。
近づくのは、まだ少し怖い。
今までの行動そのままの感覚が、初めてこちらへ伝わってきた。
「ほんと、そのままだな」
「キュ?」
小さな戸惑いが流れてくる。
「いや。悪い意味じゃないって」
今度は、リベルからも意識する。
無理に触らない。
無理についてこさせない。
でも、一緒にいたいならいていい。
そんな感覚を思い浮かべる。
伝わったのかは分からない。
けれど、指先に触れていた鼻先は、すぐには離れなかった。
「……すごいな」
互いの魔力が、同じ流れの中で重なる。
共に律する。
「《共律》……」
口に出す。
「うん。これでいいな」
新しく生まれた枝脈。
《共律》。
まだ何がどこまでできるのかは分からない。
今だって、カーバルの感情を完璧に読めるわけではない。
でも十分だった。
「そういえば」
リベルはふと気づく。
「お前、ずっとカーバルって呼んでるけど」
大きな耳が動く。
「それ、種族の名前なんだよな」
登録書類にも書かれていた。
種――カーバル。
個体名――なし。
「名前、いる?」
「キュ」
「それはどっち?」
《共律》から伝わってくるのは、小さな好奇心。
「嫌ではなさそう?」
少し考える。
何がいいだろう。
地球で知っていた名前。
音。
植物。
花。
「……アイリス」
ふと、一つ浮かんだ。
「そういう花があったんだよ」
何となく覚えている。
希望。
信頼。
そんな意味を持つ花だったはずだ。
「アイリス……」
口にしてみる。
「ちょっと呼びにくいな」
「キュ?」
「じゃあ……」
少しだけ響きを変える。
「アリス」
カーバルの耳がぴくりと立った。
「アリス」
もう一度。
今度は、こちらを見る。
《共律》の向こうから、小さな好奇心が返ってきた。
「どう?」
嫌だという感覚はない。
警戒もない。
リベルは少し笑う。
「じゃあ、それでいい?」
「キュッ」
「今のは返事っぽいな」
指先から鼻先が離れる。
けれど、今度は遠くへは行かなかった。
リベルのすぐ近くで、一度くるりと身体を回す。
そのまま床へ伏せた。
「……近くない?」
手を伸ばせば届きそうな距離。
試しに手を動かそうとして、やめた。
「まあ、今日はやめとくか」
《共律》の向こうから、わずかな安心が伝わってきた。
「よろしくな、アリス」
大きな耳が、こちらを向く。
「キュ」
これまでカーバルと呼んでいた一匹。
何度近づいても逃げて。
それでも、いつの間にか後ろをついてきた。
平原から街まで。
門の外から、その中まで。
最後の一歩も。
リベルが決めたわけではない。
アリスが自分で近づいてきた。
そして今。
自分で選んだ場所にいる。
リベルは少しだけ笑って、ベッドへ背中を預けた。
床には、名前を得たばかりのアリス。
その距離は、もう昨日までよりずっと近かった。




