⑨
翌朝。
冒険者ギルドの依頼板を眺めていたリベルは、一枚の依頼書の前で足を止めた。
「あ」
昨日、エレナから聞いた名前だった。
ガルク。
討伐数、一体。
依頼書を外し、そのまま受付へ持っていく。
「これ、受けてみたい」
エレナが依頼書へ目を落とした。
「ガルクですか」
「昨日はまだおすすめしないって言ってたけど」
「言いましたね」
「でも、ずっとラグだけってわけにもいかないだろ?」
エレナはすぐには答えなかった。
リベルの腰にある剣を見て、それから顔を見る。
「一体だけなら、いい経験にはなると思います」
「じゃあ――」
「ただし」
「はい」
先に返事をすると、エレナが少し笑った。
「昨日も説明しましたが、突進をまともに受けないでください」
「そんなに危ないの?」
「危ないです。ガルクは《衝律》という枝脈を持っています」
「衝律?」
「簡単に言えば、ぶつかる勢いを強める枝脈です。ただ走ってくるだけだと思わないでください」
「……なるほど」
「《顕現》があるからといって、正面から止めようともしないでくださいね」
「……ちょっと考えてた」
「やっぱり」
「でも今やめた」
「それなら結構です」
受注処理を終えた依頼書が返される。
「あと、ガルクを探しに行く前に、一つ覚えておいてください」
「何?」
「定相種には、冒険者と同じく《相位》と呼ばれる五段階の分類があります。下から、戊、丁、丙、乙、甲です。」
「五段階か......」
「ラグもガルクも、一番下の戊相です。ただし、同じ相位だからといって、同じように戦えるわけではありません。」
「分かった」
「無理だと思ったら戻ってきてくださいね」
「うん。行ってきます!」
「お気をつけて」
◇
ギルドを出ると、そのままルーグ平原へ向かった。
ガルクを見つけたのは、昼になる少し前だった。
「……あれか?」
少し離れた草の向こうで、大きな影が動いている。
ラグより一回り大きい。
身体は低く、肩回りが太い。
特に目につくのは頭部だった。
額から鼻先へ向かって硬そうな角状器官が伸びていて、正面から見ると小さな岩の塊にも見える。
「いかにも突進しますって見た目だな」
リベルは腰の剣を抜いた。
金属音に反応し、ガルクの頭がこちらを向く。
前脚が地面を掻いた。
頭が下がる。
「分かりやすいな」
《身律》へ魔力を流す。
昨日生まれたばかりの、新しい枝脈。
まだ扱いには慣れていない。
それでも、自分の身体の内側を魔力が巡る感覚は、昨日より少しだけ分かる。
ガルクの身体が沈んだ。
来る。
そう思った次の瞬間。
「速っ!?」
地面が強く蹴られた。
低い身体が、想像していた以上の勢いで一直線に迫ってくる。
リベルは反射的に横へ踏み込んだ。
ガルクがすぐ横を駆け抜けた。
巻き起こった風が服を揺らす。
「危なっ!」
数歩先でガルクが速度を落とし、大きく身体を回した。
「エレナが止めるなって言った意味分かった!」
あれを正面から《顕現》の板で受け止めるのは危険すぎる。
昨日までなら、本気で試していたかもしれない。
「やらなくてよかった……」
リベルは改めてガルクを見る。
速い。
ただ、身体を回し、再びこちらへ正面を向けるまでには時間がかかっていた。
「曲がるのは苦手そうだな」
ラグは跳ぶ。
ガルクは走る。
同じように近づいてくる相手でも、動き方はまるで違う。
再び前脚が地面を掻いた。
リベルが魔力を外へ伸ばすと、青白い光が形を作った。
ガルクの真正面ではなく、進路の少し横。
地面へ接するように、低い板を斜めに作る。
「来い」
ガルクが走り出した。
真っ直ぐ。
速い。
リベルはぎりぎりまで動かない。
距離が縮まる。
「こっち!」
《身律》へ魔力を流し、一気に右へ踏み込んだ。
ガルクも進路を変えようとする。
だが、すでに勢いが乗っている。
頭部が青白い板の端へぶつかったと同時に、鈍い音が響く。
《顕現》した板が地面を滑りながら弾き飛ばされる。
「うわっ!」
想像以上の衝撃だった。
それでも、ガルクの進路がわずかにずれた。
その巨体がリベルの横を抜ける。
「今!」
身体を反転させる。
昨日までなら、頭では分かっていても身体が遅れていた。
今は違う。
動こうと思った瞬間に、身体がついてくる。
速度を落としきれていないガルクの側面へ追いついた。
剣を振る。
刃が肩の後ろを切り裂いた。
ガルクが低く鳴き、数歩走ってから止まる。
「硬いな」
ラグよりも刃が入りにくい。
それでも、傷を負った側の動きが少し鈍っている。
ガルクが再びこちらへ向いた。
「もう一回来るか」
リベルは息を整える。
正面から止めない。
速度が乗った後に追いかけない。
曲がりにくいなら、そこを使う。
「やることは分かった」
三度目の突進。
今度は板を作らなかった。
ガルクが加速する。
リベルは直前まで正面に立つ。
近い。
さらに近い。
「っ!」
横へ踏み込む。
《身律》に魔力が流れた。
身体が思った通りに動く。
ガルクが横を抜ける。
その瞬間。
リベルは反転し、踏み込んだ。
剣を両手で握る。
「そこ!」
振り下ろした刃が、先ほど傷をつけた場所へ深く入った。
ガルクの前脚が崩れる。
勢いのまま、巨体が草の上を滑った。
数秒、リベルは剣を構えたまま様子を見る。
動かない。
「……ふう」
ようやく剣を下ろした。
倒れたガルクを見る。
「同じ相位でも、全然違うじゃん……」
エレナの言葉の意味が、今ならよく分かる。
同じ相位なら、同じように戦える。
そんな単純な話ではない。
「知らない相手は、ちゃんと聞いてから戦おう」
また一つ覚えた。
リベルは剣についた血を拭うと、腰の小型ナイフを取り出した。
「で、こっちもやるか」
血抜き。
まだ上手いとは言えない。
それでも、どこへ刃を入れるのか迷う時間は、最初よりずっと短くなっていた。
◇
それから、十日ほどが過ぎた。
リベルはほとんど毎日のようにギルドへ通った。
採取。
ラグの討伐。
ガルクの討伐。
時には街の近くで済む簡単な依頼も受けた。
最初は一つの依頼を終えるだけで一日が終わっていた。
今は違う。
採取なら、どこへ向かえばいいのか大体分かる。
ラグの動きも覚えた。
ガルクが相手なら、正面には立たない。
討伐後には血抜きをして、運べる素材を選ぶ。
重いだけで大した金にならないものを、無理して全部持ち帰ることもなくなった。
分からなければ聞く。
一度覚えたことは、次に試す。
失敗したら、また変える。
そうやって一日ずつ過ごしているうちに、冒険者としての生活は少しずつ特別なものではなくなっていった。
《身律》も変わった。
最初の頃のように、動くたび強く魔力を流すことはない。
走る。
止まる。
跳ぶ。
剣を振る。
避ける。
必要な時に、必要なだけ魔力を流す。
繰り返すほど、身体の内側にあった細い流れが馴染んでいく。
《顕現》も同じだった。
大きな壁を作れば強いわけではない。
小さな板一枚で相手の進路が変わる。
足場が一つあれば届く場所が増える。
細長くすれば、草を分ける道具にもなる。
形を作れる。
なら、その使い道はいくらでも考えられる。
「……やっぱり面白いな」
一人で平原を歩きながら、そんな言葉が漏れることも増えた。
そして、ルーグ平原へ出るたび、必ずではないものの、あのカーバルを見ることもあった。
三日間、まったく姿を見なかったこともある。
だが、次の日には、何事もなかったように岩の上にいる。
「あ」
リベルが気づく。
カーバルもこちらを見ている。
「やっぱりお前だよな?」
一歩近づけば、まだ逃げる。
「そこは変わらないのかよ」
追わない。
そうすると、以前ほど遠くまでは離れなくなった。
また別の日。
岩へ腰を下ろして昼食を取っていると、少し離れた草の向こうに大きな耳が見えた。
「……いるな」
あえて見ない。
そのまま食事を続ける。
しばらくして横目で見ると、最初より少しだけ距離が縮まっていた。
「腹減ってるのか?」
大きな耳がぴくりと動く。
「……言葉は分かんないよな」
食べ物を投げることもしなかった。
無理に近づくこともしない。
「好きにしろ」
そう言って昼食へ戻る。
食べ終える頃には、姿は消えていた。
それでも、初めて会った時よりは明らかに近い。
「なんなんだ、お前」
答えは、まだ返ってこなかった。
◇
金も少しずつ貯まった。
依頼報酬。
素材の売却。
もちろん出ていく金もある。
宿代。
食事。
消耗品。
それでも、最初の頃とは違った。
自分で働けば、自分で金を稼げる。
ある日。
マルクへ借りていた一銀を返した。
「別に急がなくてもよかったんだが」
「俺が返したかったの!」
「そうか?」
マルクはそれ以上何も言わず、笑って受け取った。
その数日後。
ガルドにも十七銀を返した。
「もう貯めたのか?」
「結構働いたからな」
「無理して全部出してないだろうな」
「ちゃんと宿代は残してる」
「ならいい」
ガルドは銀貨を受け取ると、それだけだった。
けれど、その帰り道。
腰の剣が、少しだけ違って見えた。
借りた金で買った剣ではない。
自分で稼いで返した。
今はもう自分の剣だった。
そして、さらに数日後。
朝の冒険者ギルド。
受付へ向かったリベルは、エレナの前に立つと腰のポーチを外した。
「今日は依頼の前に用事」
「用事ですか?」
「うん」
中から銀貨を取り出す。
一枚。
また一枚。
十枚。
二十枚。
エレナが途中で気づいた。
「もしかして……」
「三十」
さらに並べる。
「四十」
最後の十枚。
「五十」
受付台の上に、銀貨が積み上がった。
「全部返す!」
エレナが銀貨を見る。
それからリベルを見る。
「もう貯まったんですか?」
「貯めた!」
「手元のお金まで全部出していませんよね?」
「ちゃんと宿代と飯代は残してるよ」
「でしたら大丈夫ですね」
「マルクにも返した。ガルドにも返した」
リベルは受付台の銀貨を見る。
「だから、これで最後」
エレナは銀貨を確認すると、奥へ声をかけた。
職員が記録を持ってくる。
冒険者ギルド証と照らし合わせ、金額をもう一度数える。
少しして。
エレナが記録へ書き込んだ。
「はい」
顔を上げる。
「これで、登録時の貸付五十銀は完済です」
「……終わり?」
「終わりです」
「借金ゼロ?」
「ゼロです」
「本当に?」
「何度聞いてもゼロですよ」
数秒。
リベルは黙った。
「……よっしゃ!」
思わず両手を握る。
近くにいた冒険者が何事かとこちらを見た。
そんなこと、今は気にならない。
「長かった!」
「まだ一月も経ってませんよ」
「俺の中では長かったの!」
この街へ来た時。
門を通るための一銀すら持っていなかった。
冒険者になるために五十銀を借りた。
剣を買うために十五銀。
最初の宿代に二銀。
「六十八銀だぞ」
「よく覚えてますね」
「忘れられるわけないだろ!」
エレナが小さく笑う。
「でも、本当にお疲れさまでした」
「うん」
「かなり早かったですよ」
「借りてるって思うだけで落ち着かなかったからな」
「リベルさんらしいですね」
「そう?」
「はい」
リベルは空になった受付台を見る。
次に、自分のポーチへ触れた。
中身はさっきよりずっと軽い。
不思議と来た時より心も身軽な気がした。
「じゃあ、今日の依頼――」
そう言いながら依頼板へ向きかける。
「……いや」
振り返る。
「今日はやめようかな」
エレナが瞬きをした。
「珍しいですね」
「せっかく借金なくなった日だし」
「休むんですか?」
「うん」
少し考えて、リベルは笑った。
「それも俺が決めていいんだろ?」
エレナは一瞬だけリベルを見る。
それから、柔らかく笑った。
「もちろんです」
「じゃあ今日は休み!」
「昨日までずっと働いていましたし、それくらいはいいと思いますよ」
「よし!」
ギルドを出る。
朝のフィンリスは、いつもと変わらない。
店を開ける人。
荷物を運ぶ人。
冒険者ギルドへ向かう人。
通りを走る子ども。
何も変わっていない。
けれど、リベルには少しだけ違って見えた。
今までは金が増えるたび、最初に考えることが決まっていた。
宿代。
食費。
返済。
次の日を生きるための金。
もちろん、これからも働かなければ金は減る。
食べるためにも。
眠る場所を確保するためにも。
冒険を続けるためにも。
金は必要だ。
でも。
「これから稼ぐ分は、俺が使い道決めていいんだよな」
何に使うか。
どこへ行くか。
いつ働くか。
いつ休むか。
すべて自分で決める。
「……いいな」
口元が緩む。
何となく腰の剣へ手を置いた。
細かな傷が増えた、最初の一本。
「次に金使うなら……武器も考えたいな」
少し考えて、首を振る。
「まあ、今日はいいか!」
今日は休むと決めた。
なら、何をするかくらい歩きながら考えればいい。
リベルは目的もなく、フィンリスの通りを歩き始めた。
行き先を決めていないことすら、今は少し楽しかった。




