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WILD HEART  作者: 日向 トキ
第一章 自由に生きる

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①

 その日の帰り道も、たぶんいつもと大して変わらなかった。


 仕事を終え、駅から家へ向かう。

 飲食店の明かりと車のライトが溢れる通りを、同じように一日を終えた人々が行き交っていた。


 彼の人生には、これといって大きな不満がない。

 それが、たぶん一番厄介だった。


 仕事は辞めたいほど嫌いではない。

 家族との仲も悪くないし、友人と飲みに行くこともある。

 一人で過ごす時間だって嫌いではなかった。


 それでも、ときどき思う。


「……つまんないな」


 誰に聞かせるでもなく呟いた時、通り沿いの大型モニターに流れていた広告が目に入った。


 青い海と白い街並み。

 見たことのない料理が並び、その向こうには遠くまで山々が連なっている。


「こういうところ、一回行ってみたいな……」


 足を緩め、何となくスマホを取り出した。


 次の連休は三日。

 有給を一日足せば、もう少し余裕もできる。


 交通費を調べる。安くはないが、払えないほどでもなかった。


「……行こうと思えば、普通に行けるな」


 宿を取って、明日会社で休みの相談をする。

 やることは、それだけだ。


 画面を眺めたまま、指が止まった。


 明日相談するのは少し面倒だ。

 宿を比較するのにも時間がかかる。

 せっかく行くなら、もう少しちゃんと予定を立ててからの方がいい。


「……まあ、今じゃなくてもいいか」


 スマホをポケットへ戻す。


 数歩進んでから、自分でも可笑しくなった。


「またこれか」


 大学を決めた時も、就職先を選んだ時も似たようなものだった。

 条件を並べ、その中から一番問題のなさそうなものを選ぶ。


 誰かに強制されたわけではない。

 最後に決めたのは、いつだって自分だ。


 それなのに振り返ってみると、心から「これがいい」と思って選んだものは、驚くほど少なかった。


「一回くらい、好きに生きてみるのもありか……」


 口にして、小さく笑う。


「……まあ、それも今度考えればいいか」


 結局、それすら先送りした。


 明日になれば会社へ行って、いつも通りの一日が始まる。


 そのはずだった。


 彼が持つ地球での記憶は、そこで途切れている。



 ◇



 頬を撫でる風で、意識が浮かび上がった。


「…………ん?」


 目を開ける。


 真っ先に飛び込んできたのは、抜けるような青空だった。

 暖かな陽射しが顔へ降り注ぎ、風に運ばれた草と土の匂いが鼻をくすぐる。


「……は?」


 何度か瞬きをした。


 夜だったはずだ。

 家にも着いていないし、眠った記憶もない。


 それなのに、今は真昼の空を見上げている。


「どこだよ、ここ……」


 身体を起こすと、視界いっぱいに草原が広がっていた。


 風に揺れる草の向こうには緩やかな丘が続き、そのさらに先は地平線へ溶けている。


 建物はない。

 道路も、電柱も見当たらない。


 耳を澄ませても、聞こえるのは草が擦れる音ばかりだった。


「いや、待って……」


 反射的にポケットへ手を伸ばしたところで、動きが止まる。


「……何これ?」


 スーツではなかった。


 身につけているのは暗い色の簡素な上着と丈夫そうなズボン、それに革製らしいブーツ。

 着替えた記憶など当然ない。


 ポケットを探るが、何も入っていなかった。

 スマホも財布もない。


「いやいや……ちょっと待てって」


 立ち上がり、辺りを見回す。

 何度見ても、どこまでも草原だった。


 夢かと思って頬をつねる。


「痛っ!」


 想像以上に痛かった。

 つねった部分を押さえながら、思わず眉をしかめる。


「……こういう時って、本当に頬つねるんだな」


 言ってから、笑っている場合ではないと思い直した。


「いや、夢じゃないってことだろ……」


 そこで、自分の手を見て違和感を覚えた。


「……え?」


 手が若い。


 指を曲げ、手の甲を返してみる。

 毎日見ていた自分の手とは、明らかに違っていた。


 肩を回してみても、腰を捻ってみても、以前なら感じていた身体の重さがない。

 腕や胸元を確かめても、どう考えても自分の身体そのものが変わっている。


「十代……後半くらい?」


 鏡がないから顔までは分からない。

 ただ、少なくとも以前の身体ではなかった。


「何がどうなってんだよ……」


 誘拐。

 事故。

 何かの事件。


 思いつくものを並べてみるが、身体まで変わっている理由にはならない。


 最後の記憶を辿る。


 会社を出た。

 旅行の広告を見た。

 少しだけ、自分の人生について考えた。


 その先がない。


「……俺、死んだ?」


 口にした途端、背筋が冷えた。


 もしそうなら、家族はどうしている。

 いや、死んだと決まったわけじゃない。


 事故に遭った記憶も、痛みもない。

 何も分からない。


「……落ち着け」


 深く息を吸う。


 答えの出ないことを考え続けても仕方がない。

 まず確認すべきなのは、今の自分が置かれている状況だ。


「水なし。食料なし。連絡手段なし……」


 声に出して整理する。


「財布もスマホもなし。知らない服だけ」


 当然、金もない。


「最悪だな……」


 少し離れた草むらが大きく揺れた。

 反射的に身体が強張る。


「……何か出てきたりしないよな?」


 熊か。

 狼か。

 それとも、自分の知らない何か。


 想像した途端、余計に怖くなった。


「やめよう。自分で怖くしてどうするんだよ……」


 改めて周囲を見渡す。


 それでも、この状況を説明してくれるものは何一つ見つからない。

 そして、頭の片隅にずっと浮かんでいた答えを、とうとう口にした。


「まさか……異世界?」


 自分で言って、眉を寄せる。


 漫画でなら読んだことがある。

 突然、知らない世界へ飛ばされる話。


 読む側なら何とも思わないが、自分が当事者になると途端に馬鹿げて聞こえた。


 若くなった手を見る。

 次に、どこまでも続く草原を見る。


「…………」


 もう一度、手を見る。


「……他に説明ある?」


 思いつかなかった。


「マジかよ……」


 両手で顔を覆う。


 どうする。

 ここで待つか。

 人を探すか。

 まず水を探すべきか。


 日が沈む前には、安全に休める場所も必要になる。

 考えることはいくらでもあった。


 怖い。

 普通に怖い。


 なのに、指の隙間から遠くの丘を見た時、胸の奥で別の感情が僅かに動いた。


 ――あの向こうには、何があるんだろう。


「…………」


 今まで一度も見たことのない場所だ。


 街があるのかも分からない。

 誰かが暮らしているのかも分からない。

 危険かもしれない。


 それでも、少しだけ見てみたい。


「……いや、先に生き残ること考えろよ」


 思わず自分に突っ込み、張り詰めていたものが少し緩んだ。


 怖いのに、気になる。

 我ながらどうかしている。


 ただ、昔から知らないものを見ると、それが何なのかくらいは知りたくなる性格だった。


「今回は規模がでかすぎるけどな……」


 誰もいない草原で、自分の声だけが返ってくる。


 その時、最後に覚えている自分の言葉が頭をよぎった。


 一回くらい、好きに生きてみるのもありか。


「自由……なのか、これ」


 思わず苦笑した。


 想像していたものとは随分違う。

 自由どころか、今日寝る場所すら決まっていない。


「自由って、思ってたよりだいぶ不親切だな……」


 それでも。


 もし本当にここが知らない世界で、今までとは違う人生が始まったのなら。

 少なくとも、これから何をするのかくらいは自分で決められる。


 家族のことは気になる。

 帰れるなら帰る方法も知りたい。


 だからこそ、まずは生きなければ何も始まらない。


「……とりあえず、生き残る」


 声に出す。


「それから人を探す。ここがどこなのか調べる。帰れるかどうかも」


 遠くの丘を見る。


「……で、余裕ができたら、あの向こうも見る」


 一拍置いて、自分で苦笑した。


「結局見るんじゃん」


 胸の重さが、ほんの少しだけ軽くなった。


 何も分からないなら、一つずつ確かめればいい。


 ふと、自分の名前について考えた。


「……名前まで変える?」


 口にした直後、自分でも首を傾げた。


「いや、今考えることか?」


 水も食料もない。

 どう考えても優先順位がおかしい。


 それでも、その考えは妙に頭から離れなかった。


 今までの人生では、条件を並べ、その中から無難なものを選ぶことが多かった。


 けれど今度は違う。


 誰かに勧められたわけでも、そうする必要があるわけでもない。

 ただ、自分がそうしたいから決める。


 新しい人生で最初に選ぶものが、自分の名前でもいいのかもしれない。


「自由……」


 その言葉を頭の中で転がす。


 やがて、一つの響きが浮かんだ。


「リベル」


 声にしてみる。


 少し安直かもしれない。

 だが、それを理由にやめる必要もなかった。


 誰かの評価も、条件も関係ない。

 自分が気に入った。


 それだけでいい。


「……うん。悪くない」


 誰もいない草原で、小さく笑う。


「今日から俺は、リベルだ!」


 それが、この場所で初めて自分の意思だけで選んだものだった。


 大袈裟かもしれない。

 それでも、妙に嬉しかった。


 その時だった。


「……ん?」


 身体の奥で、何かが動いた気がした。


 胸の奥――いや、もっと身体の中心に近いどこかを起点に、今まで意識したことのない何かが全身を巡っている。


「何だ……?」


 血液とも体温とも違う。


 目を閉じて意識を向けると、その流れは僅かに鮮明になった。

 そして奇妙なことに、初めて感じたはずなのに、どこか身体がその存在を知っているような感覚がある。


「……これ」


 地球の記憶にある言葉が浮かんだ。


「魔力……とか?」


 自分で言って、しばらく黙る。


「いや、漫画の読みすぎだろ」


 そう否定したいのに、身体の中を巡る感覚は消えなかった。


 さらに意識を向けようとして、ふと左の脇腹に青白いものが見えた。


「……は?」


 上着の裾を持ち上げる。


 肌の上に、細い枝のような模様が浮かんでいた。

 脇腹から胸へ向かって伸びる青白い線。


 その途中には、小さな蕾にも見える紋様が刻まれている。


 指で擦っても消えない。


「刺青……じゃないよな」


 入れた覚えなど当然なかった。


 見知らぬ身体。

 見知らぬ力。

 そして、見知らぬ模様。


 普通なら、触れない方がいいと思う。

 何が起きるのか分からない。


 なのに。


 ――これ、どうなってるんだ?


「…………」


 リベルは額を押さえた。


「……ダメだ。こういうの、絶対気になる」


 少し前まで遭難したと思って震えていたはずなのに、知らない仕組みを見つけた途端、もう頭の中では確かめる方法を考え始めている。


 数秒だけ迷ってから、リベルは上着を下ろした。


「……後だ」


 水。

 食料。

 安全な場所。


 まずはそれを確保する。


 知らないことを調べるのは、そのあとでいい。


 遠くの丘へ目を向ける。


 その向こうに何があるのかは分からない。

 自分の身体で何が起きているのかも、帰る方法があるのかも分からない。


 それでも。


 少なくとも、次に何をするかは自分で決められる。


「まずは水だな」


 リベルは一歩を踏み出した。


 見知らぬ世界での最初の一日。


 自分で選んだ名前を胸に、初めて自分自身で行き先を決めて歩き始めた。

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