鼓動
誰にも知られていない場所で、なにかが静かに脈打っていた。
それが地の底にあるのか、海の底にあるのか。
あるいは、生きる者たちが「場所」として認識できるところに存在しているのか。
それを知る者はいない。
ただひとつ確かなのは、それが遥か昔からそこにあり、途方もない時間の中で、世界を巡る無数の命と、その痕跡を取り込み続けてきたということだった。
命は生まれ、育ち、やがてその営みを終える。
地を駆けるもの。
空を舞うもの。
土に根を張るもの。
そして、言葉を交わし、街を築くもの。
姿も、生き方も、持って生まれる力も違う無数の命が、それぞれの時間を生き、世界へ痕跡を残していく。
それらは長い年月の中で取り込まれ、混ざり合い、やがてまた別の命へと巡っていった。
はじまりがどこだったのかなど、もはや誰にも分からないほどに。
そんな果てしない循環の中へ、ある時、本来この世界には存在しないはずの情報が紛れ込んだ。
夜になっても光の絶えない街。
空を遮るほど高く伸びた建物。
大勢の者を乗せ、決められた道を走る鉄の箱。
そこに暮らす者たちは、魔力に頼ることなく遠く離れた相手と言葉を交わし、掌に収まるほどの道具から、膨大な知識を引き出していた。
そして、その光景とともに、一人の男が生きてきた記憶があった。
朝になれば目を覚まし、決まった服に着替えて仕事へ向かう。
夜になれば家へ帰り、眠りにつけば、また同じような朝が訪れる。
決して不幸な人生ではなかった。
笑った日もあった。
楽しかった記憶もある。
きっと傍から見れば、ごく普通の人生だった。
それでも、その記憶の奥には、何度日常へ戻っても消えなかった思いがひとつだけ残っていた。
知らない場所へ行ってみたい。
自分の意思で行き先を決め、好きなものを食べる。
気に入った場所があればそこに留まり、また別の景色が見たくなれば次へ向かう。
誰かにそうしろと言われたからではない。
自分で選んだから、その道を歩く。
――もっと、自由に生きてみたい。
その思いに、何かが答えたわけではない。
願いを聞き届けた存在がいたわけでも、その男が何者かに選ばれたわけでもなかった。
ただ、遥か昔に刻まれた傷を修復し続ける、あまりにも長大な生命活動の中で。
本来なら循環へ紛れ、別の何かへ溶けていくはずだったその情報が、偶然、ひとつの場所へ重なった。
見知らぬ街の景色。
男が生きてきた記憶。
身体が辿ってきた成長。
考え方と価値観。
そして、その奥に残り続けたひとつの願い。
それらが、そこにあった別の生命情報と混ざり始める。
誰かが組み立てているわけではない。
完成した姿を思い描く者もいない。
それでも、集まった情報は少しずつ互いに結びつき、やがて、それまで存在しなかったひとつの《存在核》が形を成した。
小さく、不完全で、それでも確かに他の何ものとも違う、ひとつの生命として。
静かに脈打っていたものの内側で、もうひとつ。
新しい鼓動が始まる。
その命が何を見て、誰と出会い、どこへ向かうのか。
そして、その先で何を選ぶのか。
まだ、何も決まっていない。
だからこそ、その先を選ぶのは――これから生きる、その命自身だった。




