⑥
「どうやって助けるかな」
リベルはその場にしゃがんだまま、目の前の状況を見直した。
小さな獣は、ギルムの巣から少し離れた場所で身を低くしている。
後ろ脚と尾の周りには、半透明の粘着物。
そこへ枯れ草や土が絡みつき、動こうとするたびに地面へ引き戻されていた。
「グルル……」
「分かってる。近づいてほしくないんだろ」
牙を見せる獣にそう答える。
当然、言葉が通じているとは思っていない。
それでも声を出していた方が、自分も落ち着ける。
問題は、その周囲だった。
ギルムの巣。
地面には、ところどころ粘ついたものが伸びている。
下手に踏み込めば、自分まで足を取られるかもしれない。
「俺まで動けなくなったら意味ないしな」
近くに落ちていた小石を拾う。
軽く投げる。
ぺたり。
地面へ落ちた石は、粘着物に触れた瞬間その場へ張りついた。
「うわ」
つま先で行かなくてよかった。
リベルは少し考え、左手を前へ出した。
「《顕現》」
青白い魔力が形を持つ。
地面の少し上。
平たい板。
昨日ラグとの戦いで作ったものよりも、少し広く。
「……これなら」
足を乗せる。
沈まない。
もう一枚。
さらにその先へ。
粘着物の上に、青白い板を飛び石のように作っていく。
「これ、結構便利だな」
戦うために使うことばかり考えていた。
でも、こういう使い方もできる。
一枚目へ足を乗せる。
「グルルッ!」
獣の唸り声が強くなった。
「行くけど、噛むなよ」
「ガッ!」
「今の絶対噛むやつじゃん……」
とはいえ、ここまで来て帰る気もない。
一歩。
もう一歩。
獣との距離が縮まる。
長い耳は後ろへ伏せられ、翡翠色の瞳がじっとリベルを追っていた。
近くで見ると、身体は思っていたより細い。
大きさは膝より少し低いくらい。
柔らかそうな淡い毛に覆われた身体。
その身体には不釣り合いなくらい大きな尾が伸びている。
逃げられさえすれば、相当速そうだった。
「……そこがくっついてるのか」
後ろ脚を見る。
粘着物は毛だけではなく、周囲の枯れ草ごと固まっていた。
無理に引けば、毛や皮膚まで傷めるかもしれない。
「切るしかないか」
腰の剣へ手を伸ばす。
そこで止まった。
「…………」
大きい。
近くに獣の脚がある状態で、この剣を振るのは怖い。
「これは違うな」
剣から手を離す。
なら。
左手を見る。
「もっと小さく……」
魔力を出す。
細く。
短く。
必要なのは剣ではない。
絡んだ草だけを切れる程度の、小さな刃。
青白い光がゆっくり形を取る。
「…………」
できた。
指先から少し伸びる程度の、短い刃。
形は少し歪んでいる。
それでも。
「これならいけるか」
一歩近づく。
「グルルルッ!」
「待て待て!」
獣が身体を捻る。
粘着物が引っ張られ、後ろ脚が止まった。
「暴れると余計取れなくなるって」
もちろん言っても止まらない。
牙がこちらを向く。
「…………」
リベルはしゃがんだ。
すぐには手を出さない。
少し待つ。
獣も唸る。
リベルも動かない。
「別に捕まえたいわけじゃないんだよ」
ゆっくり、左手を見せる。
「これだけ切る」
反応はない。
いや。
唸り声が、ほんの少しだけ弱くなった気がした。
「……今だな」
少しずつ手を伸ばす。
刃先を粘着物へ近づける。
獣の身体が強張った。
「大丈夫」
一か所。
絡まった枯れ草を切る。
粘着物が少し緩んだ。
「よし」
もう一か所。
今度は尾の近く。
「グッ……!」
「動くなって!」
顔のすぐ横を牙が掠めた。
「危なっ!」
慌てて上体を引く。
「噛むなよ!」
「グルル……」
「助けてるんだけどなぁ……」
文句を言っても仕方ない。
もう一度。
今度はさらにゆっくり。
粘着物そのものを無理に剥がさず、絡まっている草や枝だけを少しずつ切っていく。
「あとちょっと」
最後に、後ろ脚の下へ絡みついていた枯れ草を切った。
その瞬間。
「っ!」
獣が強く身体を引いた。
ぶちっ、と粘着物の一部が伸び、後ろ脚が抜ける。
「取れた!」
尾も自由になった。
次の瞬間。
「うわっ!」
獣が勢いよく飛び退いた。
リベルも反射的に身を引く。
二人の距離が一気に開いた。
「…………」
「…………」
獣は逃げなかった。
数メートル先。
身体を低くしたまま、こちらを見ている。
後ろ脚には、まだ少し粘着物が残っている。
けれど歩けないほどではなさそうだった。
「もう大丈夫そうだな」
一歩も近づかない。
「行っていいよ」
獣の耳が僅かに動く。
そして風が揺れた。
「え?」
獣の身体の周りを、空気が巻いたように見えた。
次の瞬間。
「速っ」
一跳び。
さっきまで動けなかったとは思えない速度で、草原の向こうへ駆けていく。
あっという間に小さくなり、やがて草の向こうへ消えた。
「…………」
リベルはしばらくその方向を見ていた。
「行ったか」
少しだけ寂しい。
自分から助けておいて何を期待していたのか、とも思う。
「まあ、あれだけ警戒されてたしな」
助けたからといって、急に仲良くなるわけでもない。
むしろ噛まれなかっただけ良かったと思うことにしよう。
「よし」
振り返る。
ギルムたちは相変わらず巣を直していた。
こちらの騒ぎにはほとんど興味がなかったらしい。
「俺も仕事戻ろ」
《顕現》で作った板を消す。
最後に、短い刃を見る。
「…………」
小さい。
形も綺麗とは言えない。
今までは、顕現で刃を作ったことがなかった。
「剣じゃなくても作れるんだよな」
昨日、バレンの店で見た様々な武器を思い出す。
長さ。
厚み。
形。
用途。
「これ、もっと色々できそうだな」
また一つ、試したいことが増えた。
◇
「八……」
それから少し歩き。
「九」
岩の陰。
そして。
「あった」
浅い窪地に、淡い青白色の葉。
「十本!」
最後のセルナ草を摘み取り、袋へ入れる。
中身を確認する。
ミレア草、十本。
セルナ草、十本。
「よし」
今日は戦っていない。
けれど。
ニグを見た。
ギルムを見た。
枝脈が、生きるために使われるところを見た。
知らない獣まで助けた。
「草採りだけの予定だったんだけどな」
昨日も似たようなことを言った気がする。
「まあ、いいか」
リベルは二つの袋を抱え、フィンリスへ向かった。
◇
街の門が近づいてきた頃。
「…………?」
後ろで草が揺れた。
リベルが振り向く。
「何だ?」
風か?
そう思った。
けれど。
少し離れた丘の上。
「…………」
二本の長い耳が見えた。
「あ」
昼間助けた獣がこちらを見ている。
「お前……」
声をかけた瞬間。
耳がぴくりと動き、すぐに草の向こうへ消えた。
「…………」
リベルは少し待つ。
もう一度姿を見せるかと思ったが、何も出てこない。
「ついてきてた?」
分からない。
偶然同じ方向へ来ただけかもしれない。
「まあいいか」
リベルは再び歩き始めた。
数歩進んで、もう一度振り返る。
何もいない。
「…………」
それでも。
なぜか少しだけ嬉しかった。
◇
「お帰りなさい」
ギルドへ戻ると、エレナがいつものように迎えてくれた。
「ただいま」
「二つとも終わりました?」
「うん」
「では確認しますね」
二つの袋を渡す。
ミレア草、十本。
セルナ草、十本。
「どちらも問題ありません」
「よし!」
「ミレア草採取が銀貨四枚。セルナ草採取が銀貨五枚。合計、銀貨九枚です」
銀貨がカウンターへ並ぶ。
「九枚……」
昨日の四枚より明らかに多い。
リベルは銀貨を受け取った。
「昨日より増えた」
「二件達成しましたからね」
「これなら宿代払っても余裕あるな」
「だからといって使い切らないでくださいね」
「分かってるって」
そう答えてから。
「そういえばエレナさん」
「はい?」
「今日、知らないやつ見た」
「またですか?」
「またって何だよ」
「いえ。どんな定相種でした?」
「定相種かどうかも分からない」
リベルは思い出す。
「大きさは俺の膝よりちょっと低いくらい。四本脚で、耳が長くて、身体は細めだった。あと、尻尾がかなり大きかったな」
エレナの表情が少し変わる。
「毛は?」
「淡い色。銀色っぽく見えた。」
「……《カーバル》でしょうか」
「カーバル?」
「四足型の定相種です。警戒心が強いので、自分から近づいてくることはあまりありません」
「へえ」
「どうして見たんです?」
「ギルムの粘着物に捕まってたから助けた」
「…………」
エレナが止まった。
「何?」
「いえ」
「またその顔」
「リベルさんらしいなと思って」
「どういう意味?」
「そのままの意味です」
「絶対何か含んでるだろ」
エレナは答えず、小さく笑った。
「怪我は?」
「してない。噛まれそうにはなったけど」
「それは怪我の一歩手前です」
「噛まれてないから大丈夫」
「そういう問題では……」
エレナが額へ手を当てる。
「まあ、無事ならいいです」
「うん」
「カーバルは不用意に追わないでくださいね」
「追わないよ」
少し考える。
「向こうからついてきてたっぽいけど」
「え?」
「帰りに、ちょっと離れたところから見てた」
「…………」
「何?」
エレナは少し考えたあと、首を横へ振った。
「いえ。偶然かもしれません」
「だよな」
「はい」
リベルも深く考えなかった。
今日会ったばかりだ。
助けただけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
ただ、もしまた会ったら。
「次はもうちょっと警戒されないといいな」
「もう会う気なんですね」
「会えたら、だけど」
リベルは笑った。
また一つ。
明日が少し楽しみになる理由が増えた。




