④
銀貨四枚を手の中で転がしながら、リベルはしばらくその重みを確かめていた。
初めて、自分で稼いだ金。
嬉しいのは間違いない。
ただ、目の前には借金銀貨六十八枚という現実もある。
「……まあ、一歩目だな」
「そうですね」
向かいで笑っていたエレナが、ふと周囲へ視線を巡らせた。
受付の前では冒険者たちが行き交い、隣の窓口からも依頼について話す声が聞こえている。
「それで、さっきの話なんですけど」
エレナが少しだけ声を落とした。
「《核華》を試したんですよね?」
「うん」
「ここでは詳しく聞かない方がよさそうですね」
「やっぱり?」
「念のためです」
近くの職員へ一声かけ、エレナはリベルを受付の奥へ案内した。
通されたのは、小さな相談室だった。
机と椅子が数脚あるだけの簡素な部屋で、扉が閉じると外の喧騒が少し遠くなる。
「それで、何が起きました?」
エレナが椅子へ腰掛ける。
リベルも向かいへ座り、朝のことを思い返した。
「まず、華紋の蕾が開いた」
「開花したんですね」
「うん。青い薔薇みたいな花だった」
「青い薔薇……」
エレナが小さく繰り返す。
「それから?」
「それが、よく分からない」
「分からない?」
「何かが変わった感じはした。でも、火が出るとか、力が強くなるとか、そういう分かりやすいことは何も起きなかった」
リベルは胸元へ手を当てた。
「《顕現》を使う時とは全然違うんだよ。《顕現》は魔力が外へ伸びていく感じがする。でも核華は、もっと自分の奥に触れてるような……」
「自分の奥?」
「うん。ただ、その先が分からない」
エレナの表情から、少しずつ笑みが消えていく。
驚いているというより、聞き漏らさないよう集中している顔だった。
「何かをしようとは?」
「した。でも、何をすればいいのか分からなかった」
「それで止めたんですね?」
「うん。正体も分からないのに無理やり動かすの、ちょっと怖いし」
「それは正解だと思います」
即答だった。
「そこは迷わないんだ」
「未知の核華を勢いだけで試す新人を止めるくらいは迷いません」
「新人関係ある?」
「大いにあります」
エレナはそう言いながらも、少し安心したように息をついた。
「核華は枝脈が、その人自身の使い方や経験を重ねて深く育った先で成立するものです」
「うん」
「だから、本来ならその核華が何をするものなのか、本人にはある程度分かることが多いんですが……」
「俺は分からない」
「そうですね」
「やっぱり変?」
「かなり」
「即答だな」
「リベルさんの場合、そもそも《枝脈》について何も知らない状態でしたから。それが関係しているのかもしれません」
「なるほど」
分からない。
けれど、何も分からなかった朝よりは少しだけ整理できた気がする。
「それより」
エレナの視線が、リベルの腕へ向いた。
「ラグと戦った方は?」
「ああ、それ」
リベルは蹴られた腕を軽くさする。
「《身律》ってすごいな」
「実感しました?」
「めちゃくちゃ」
相手が何をしてくるのか分かっていても、視線が遅れる。
足が追いつかない。
剣を振れば姿勢が崩れる。
「頭では分かってても、身体が全然ついてこなかった」
「初めて剣を持った翌日ですからね」
「それはそうなんだけど」
リベルは少し考える。
「俺にも《身律》があったら、ああいう動きできるのかな」
「それだけで同じように動けるわけではありませんよ」
「そうなの?」
「枝脈を持っていることと、使いこなせることは別です」
「あ」
言われてみれば当然だった。
「ラグだって、生まれてからずっとあの身体で動いています。《身律》も、その使い方に合わせて育ってきたはずです」
「……じゃあ、手に入れたらすぐ強くなる、みたいなものじゃないんだ」
「少なくとも、私はそう考えない方がいいと思います」
「そっか」
少し残念ではある。
でも。
「それも面白いな」
「面白いんですか?」
「だって、持ってるだけじゃ駄目なんだろ?」
「まあ……はい」
「じゃあ、使い方で変わるってことじゃん」
エレナが一瞬黙り、それから小さく笑った。
「本当に、そういうところだけは前向きですね」
「そういうところだけ?」
「褒めてます」
「絶対ちょっと違うだろ」
言い返そうとした、その時だった。
ぐう、と腹の奥から思った以上に素直な音が鳴った。
「…………」
「…………」
エレナの視線がリベルの腹へ落ちる。
「……なんにせよ、まず飯か」
「ふふっ」
「笑うなよ」
「いえ、大事な判断だと思います」
「だろ?」
「朝から平原を歩いて、ラグとも戦ったんですから、ちゃんと食べてください」
「そうする」
リベルが立ち上がる。
「また何か分かったら教えてください」
「もちろん」
「無茶した報告はいりませんからね」
「努力します」
「そこは『しません』って言ってほしかったんですけど」
「嘘はよくないだろ?」
「もう……」
呆れた声を背中に受けながら、リベルは相談室を出た。
◇
受付へ戻ると、先ほどより冒険者の数が増えていた。
昼前だからだろうか。
依頼から戻ってきた者と、これから街を出る者が入り混じっている。
「さて」
飯を食べに戻ろう。
そう思って出口へ向かいかけた時だった。
視界の端で、何かが揺れた。
「…………?」
足が止まる。
人混みの向こう。
一人の女が掲示板の前に立っていた。
黒髪。
黒を基調とした軽装。
年齢は、自分とそう離れていないように見える。
けれど、リベルが見ていたのはそこではなかった。
「……何だ、あれ」
腰の辺りから垂れているのは、一本の長い鎖。
その先に、刃。
剣でもない。
槍でもない。
昨日バレンの店で見た《戦叉》とも違う。
鎖の先に刃が付いている。
「武器……だよな?」
思わず目で追う。
女は掲示板から一枚の依頼書を外すと、受付へ向かって歩き出した。
その動きに合わせて、鎖が小さく揺れる。
「…………」
どう使うんだ。
振り回す?
投げる?
引き戻す?
そもそもあんな長いものを、本当に自分へ当てずに扱えるのか。
疑問が一気に増えていく。
「気になります?」
すぐ横から声がした。
「うわっ」
振り向くと、エレナが立っていた。
「びっくりした……」
「ずっと見ていたので」
「だって、あれ何?」
リベルが女の腰元を指す。
「《鎖刃》です」
「さじん?」
「鎖の先に刃を取り付けた武器ですね」
「そのままだな」
「名前とは大抵そういうものです」
「どうやって使うの?」
「私は使ったことがないので」
「エレナさんでも知らないんだ」
「受付ですから」
「そうだった」
女は別の受付へ依頼書を渡している。
その周囲だけ、少し空間が空いているように見えた。
「…………」
気のせいだろうか。
他の冒険者たちは普通に行き交っている。
けれど、あの女のすぐ近くを通る者は少ない。
「有名なの?」
エレナが一瞬だけリベルを見る。
「どうしてそう思ったんです?」
「何となく」
もう一度そちらを見る。
「周りがちょっと避けてる気がしたから」
「よく見ていますね」
「合ってる?」
「……まったくの勘違い、とは言いません」
「何かあるんだ」
その時。
受付を終えた女が振り返った。
翡翠色の瞳と、目が合った。
「…………」
「…………」
ほんの一瞬。
女の視線がリベルを捉える。
見すぎた。
そう思った時には、彼女はもう視線を外していた。
そのまま何も言わず、ギルドの出口へ向かう。
黒髪が揺れ。
鎖刃が、僅かな金属音を残した。
「……行っちゃった」
「声をかけるつもりだったんですか?」
「ちょっと」
「何を聞くつもりで?」
「鎖刃」
「やっぱり」
「だって気になるだろ」
エレナが小さく笑った。
「セラさんですよ」
「え?」
「今の方です。セラさん」
「セラ……」
リベルは閉じた扉を見る。
名前を一度、頭の中で繰り返した。
「鎖刃か」
また一つ。
この世界で知らないものが増えた。
そして同時に。
知りたいものも、一つ増えた。
◇
銀月亭へ戻ると、昼時の食堂は朝より賑わっていた。
「おや、もう帰ってきたのかい」
リベルを見つけたローナが、皿を片手に声をかけてくる。
「初仕事終わった」
「へえ! ちゃんと帰ってきたじゃないか!」
「その言い方だと帰ってこないと思ってたみたいじゃん!」
「初日の新人なんて心配するもんだよ!」
ローナは豪快に笑った。
「飯だろ?」
「正解」
「昼は銅貨三十枚だよ」
「三十枚……」
リベルは懐の銀貨を意識する。
今の所持金は銀貨四枚。
今夜も泊まるなら、ここから銀貨二枚。
「……ちゃんと計算してる顔だね」
「今の俺には重要なんだよ」
「そりゃそうだ」
代金を払い、席へ着く。
少し待って運ばれてきたのは、肉と野菜を煮込んだ汁物と、焼きたての薄いパンだった。
「いただきます」
一口。
「……うま」
「それ、毎回言うつもりかい?」
少し離れたところからローナの声が飛んできた。
「美味い間は言う!」
「なら好きなだけ言いな!」
周囲の客が少し笑い、リベルもつられて笑った。
温かいものが腹へ入ると、朝から張っていたものがようやく緩んでいく。
初めて依頼を受けた。
初めて自分で金を稼いだ。
ラグと戦った。
核華も試した。
そして。
「……鎖刃か」
今度は、見たこともない武器を持った冒険者までいた。
まだ昼だというのに、昨日まで知らなかったものがまた増えている。
「今日はどうする?」
皿を下げに来たローナが聞いた。
「ん?」
「もう一仕事行くのかい?」
「…………」
リベルは少し考える。
金は必要だ。
借金もある。
今日から宿代だって自分で払わなければならない。
けれど、朝の戦いで分かったこともある。
剣を持っただけでは、使えるようにはならない。
「今日は、剣の練習してみようかな」
「へえ」
「持ってるだけじゃ意味ないらしい」
「そりゃそうだろ」
「みんな同じこと言うな」
「当たり前だからじゃないかい?」
「それもそうか」
リベルは残っていたパンを口へ放り込む。
仕事をして。
金を稼いで。
知らないものを見つけて。
できないことを知る。
そして、また次にやりたいことが増える。
「……忙しいな」
「何だって?」
「何でもない」
リベルは笑った。
まだ、この街へ来て二日目だった。




