③
翌朝。
窓から差し込む光に目を覚ますと、リベルはしばらく天井を見つめたまま動かなかった。
「…………」
柔らかい。
背中も痛くない。
風も吹いてこない。
何かが近づいてくる気配を警戒する必要もない。
「……ベッド、最高だな」
昨日まで当たり前だと思っていたものが、たった一晩で妙にありがたく感じる。
身体を起こして窓を見ると、フィンリスの街はすでに動き始めていた。
通りを行き交う人。
荷を積んだ荷車。
店先を開ける者たちの声。
昨日は見るものすべてが知らないものだった。
けれど、一晩眠っただけで少しだけ景色に馴染みが生まれた気がする。
「よし」
ベッドから降りる。
「働くか」
所持金、ゼロ。
借金、銀貨六十八枚。
今日の宿代は、もう誰も出してくれない。
「……働くしかないな」
改めて口にすると、妙に現実的だった。
◇
一階へ降りると、食堂にはすでに何人かの客が座っていた。
「おはよう、リベル!」
厨房からローナの声が飛んでくる。
「おはよう」
「ちゃんと寝られたかい?」
「めちゃくちゃ」
「そりゃ良かった!」
ローナは満足そうに笑うと、空いている席を顎で示した。
「座っときな。朝飯持ってくるよ」
「そっか、朝も付いてるんだった」
「昨日の銀貨二枚に入ってるよ。夕飯食わせて、朝は腹空かせて追い出す宿があるかい」
「助かるよ」
「その代わり、今夜も泊まるなら次は自分で払いな」
「分かってます」
「よろしい」
少しして運ばれてきたのは、温かいスープとパン、それから焼いた卵に似た料理だった。
リベルはパンをちぎり、スープへ浸す。
「……うま」
「昨日も聞いたよ、それ」
「美味いものは何回食べても美味いだろ」
「そりゃそうだ!」
ローナが笑う。
「今日は仕事かい?」
「初依頼を受けるつもり」
「ほう」
ローナの目が少しだけ細くなった。
「最初から張り切りすぎるんじゃないよ」
「ガルドたちにも同じこと言われた」
「だったら聞いときな。最初はみんな、自分だけは大丈夫って思うもんだからね」
「……気をつける」
「それでいい」
それ以上は何も言わず、ローナは別の客のところへ向かった。
リベルは残った朝食を食べながら、今日やることを頭の中で並べる。
まず依頼。
金を稼ぐ。
剣にも少しは慣れたい。
そして。
「…………」
昨夜見た華紋を思い出す。
閉じた蕾。
まだ一度も使ったことのない、自分の《核華》。
「……これもだな」
街の外で、人のいない場所を見つけたら試す。
「やること多いな」
でも、不思議と嫌ではなかった。
◇
朝の冒険者ギルドは、昨日とはまた違う騒がしさに包まれていた。
依頼へ出る準備を整えた冒険者たちが掲示板の前に集まり、仲間と紙を覗き込みながら話している。
「こっちは二日だぞ」
「森越えるなら三日は見た方がいいって」
「採取数足りるか?」
あちこちから聞こえてくる会話を横目に、リベルも掲示板の前へ立った。
「……いっぱいあるな」
護衛。
採取。
運搬。
捜索。
昨日エレナから説明された通り、仕事の種類はかなり多い。
ただし、今のリベルが受けられるのは《戊級》の依頼だけだ。
いくつか眺めていると、一枚の紙が目に留まった。
《ミレア草 十本採取》
《採取地域:ルーグ平原》
《報酬:銀貨四枚》
「四枚」
今夜の銀月亭が銀貨二枚。
この依頼を一つ終えれば、とりあえず今日も屋根のある場所で眠れる。
さらに二枚残る。
「……借金、銀貨六十八枚」
遠い。
ものすごく遠い。
「でも、まずはここからだな」
しかもルーグ平原なら、一度歩いた場所でもある。
討伐が目的でもない。
初仕事としては悪くなさそうだった。
依頼書を外し、受付へ向かう。
「あ、おはようございます」
ちょうど空いた受付にいたのはエレナだった。
「おはよう」
リベルが依頼書を差し出す。
「これ、受けたい」
エレナが内容を確認する。
「ミレア草ですね」
「初依頼としてどう?」
「いいと思いますよ。ルーグ平原で比較的見つけやすい薬草ですし、フィンリスからもそれほど離れません」
「薬草なんだ」
「はい。傷薬や止血用の薬、軟膏などによく使われています」
「そのまま食べたら傷が治ったり?」
「しません」
「早いな」
「薬材ですからね」
エレナが笑う。
「適切に加工して使うものです。そのまま食べたり、傷へ貼ったりしても、期待しているような効果はありませんよ」
「なるほど」
「特徴は、細長い葉と白っぽい葉先です」
エレナが近くに置かれていた見本帳を開き、一枚の絵を指した。
細い葉が根元から何本も伸び、その先端だけが薄く白んでいる。
「似た植物もありますから、分からなければ無理に採らないでください」
「間違えたら?」
「依頼品としては数えられません」
「十本集めたつもりで九本だったら?」
「もう一度どうぞ」
「厳しい」
「依頼ですから」
「ですよね」
エレナは受付の下から小さな麻袋を一つ取り出した。
「採取品はこちらへ。依頼用の袋なので、戻った時にそのまま出してください」
「助かる」
リベルは袋を受け取った。
今の自分には、剣とギルド証以外、まともな荷物入れすらない。
「あと」
エレナの表情が少しだけ真面目になる。
「採取依頼だからといって、平原が安全になるわけではありません」
「ガルドにも言われた」
「なら覚えておいてください。危険な生き物に出会っても、依頼と関係なければ無理に戦う必要はありません。避けられるなら避けてください」
「分かった」
そこでリベルは、ふと思い出した。
「そういえば、昨日この平原でラグと戦ったんだけど」
「ルーグ平原ではよく見られますね」
「昨日は何も分からなかったけど、あれって枝脈持ってる?」
「《身律》を持っています。」
「身律?」
「身体能力そのものに作用する枝脈です。ラグの場合は、特に後脚を使った瞬発力に長けていると言われていますね」
「だからあんな跳ぶのか」
「近づかなければ向こうから離れていくことも多いですが、驚かせたり追い詰めたりすれば反撃されます。見つけても不用意に近づかないでくださいね」
「分かった」
「本当に?」
「なんで毎回確認するの?」
「昨日のリベルさんを見ていますので」
「信用ないな……」
「これからですね」
エレナが笑い、依頼の受理を済ませる。
「それでは、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
リベルは麻袋を持ち、今度は一人でギルドの出口へ向かった。
◇
フィンリスの門を抜けると、ルーグ平原が広がっていた。
緩やかに揺れる草。
遠くまで続く空。
昨日は、目的地も分からず歩いた場所。
今日は違う。
ミレア草を十本集める。
自分で選んだ、最初の仕事だ。
「その前に……」
リベルは街道から離れた方向を見る。
昨夜からずっと気になっていたことがある。
ただ、何が起きるのか分からない以上、人の近くで試すつもりはなかった。
「もうちょい離れるか」
低い丘を一つ越え、さらに先へ進む。
草が途切れ、土と小さな石が露出した場所で足を止めた。
振り返る。
フィンリスの城壁は見える。
だが、周囲には誰もいない。
「……ここなら大丈夫か」
念のため、もう一度辺りを確認する。
剣は腰に残したままだ。
「よし」
服の裾を持ち上げる。
左脇腹から胸へ伸びる青白い線。
その途中にある蕾。
「《核華》……」
どうやって使えばいいのか。
不思議と、意識を向ける場所だけは分かる気がした。
《顕現》を使う時より、もっと深いところ。
自分の奥へ意識を沈める。
「…………」
魔力を流す。
その瞬間。
「っ!」
華紋が淡く光った。
左脇腹から胸へ伸びる青白い線を、光がゆっくりと走っていく。
そして。
閉じていた蕾が、開き始める。
「……おお」
線で描かれていた花弁が、一枚ずつほどけるように広がっていく。
青白い花が、身体の上に咲いた。
熱くはない。
痛くもない。
けれど、明らかに何かが変わった。
「これが……核華を使ってる状態?」
答える者はいない。
リベルは目を閉じた。
「…………」
何かがある。
《顕現》を使う時は、自分の魔力を外へ伸ばし、そこへ形を与えていく感覚がある。
今は違った。
もっと深い。
自分でも触れたことのない場所へ、意識だけが届いているような。
「……何だ、これ」
力があることは分かる。
けれど、それで何ができるのかは分からない。
動かそうとしてみる。
「…………」
何も起きない。
「使えてる……んだよな?」
華紋は咲いている。
何かが変わっている感覚もある。
なのに、その先が分からない。
「難し……」
もう少し探ってみたい。
だが、正体すら分からない力を、何も考えずに動かすのは少し怖かった。
「今日はここまでにしとくか」
気になる。
本当はものすごく気になる。
それでも、分からないまま無理に進めるのは違う。
リベルが意識を緩めると、華紋の光が弱くなった。
開いていた花がゆっくりと閉じ、最後には昨夜と同じ蕾へ戻る。
「…………」
服を戻す。
「余計に分からなくなったな」
でも。
分からないからこそ。
「……絶対また試す」
小さく呟いた。
まずは今日の仕事だ。
◇
「ミレア草、ミレア草……」
それからしばらく。
リベルは腰を屈め、草の間を覗き込みながら平原を歩いていた。
エレナに見せてもらった絵を思い出す。
細長い葉。
白い先端。
「あれ?」
しゃがむ。
「……違うな」
似ている。
でも葉先まで緑色だった。
「思ってたより難しいな」
もう少し歩く。
またしゃがむ。
「これも違う」
さらに先。
「…………」
葉の先が白い。
「これか?」
摘む前にじっくり見る。
細い葉。
根元から何本も伸びている。
白くなっているのは先端だけ。
「たぶん、これだ!」
一本目。
根元を傷めすぎないよう慎重に摘み、麻袋へ入れる。
「よし。あと九本」
そこからは少しずつ目が慣れてきた。
二本目。
三本目。
一度見つけると、似ている草との違いも何となく分かってくる。
「四本」
袋の中を確認する。
「思ってたより順調だな」
採取という仕事は地味だ。
戦うわけでもない。
派手なことも起きない。
それでも、自分で選んだ仕事を、自分の足で進めている。
「こういうのも悪くないな」
リベルが立ち上がった。
その時。
少し先の草が揺れた。
「…………」
風とは違う。
一部分だけ、何かが動いている。
リベルの手が反射的に剣の柄へ向かった。
「何かいる?」
すぐには近づかない。
少し横へ移動し、草の間を覗き込む。
灰褐色の小さな背中。
低い身体。
そして、大きく発達した後脚。
「……あ」
見覚えがある。
こちらが気づいたのと、向こうが気づいたのはほぼ同時だった。
小さな頭が上がる。
目が合った。
「ラグ」
この世界で最初に戦った相手。
「…………」
リベルは動かなかった。
エレナの言葉を思い出す。
追い詰めなければ、向こうから離れていくことも多い。
「別に戦う必要ないんだよな」
ゆっくりと一歩下がる。
だが、ラグはその場から動かない。
後脚が僅かに沈んだ。
「……その構え、嫌なんだけど」
距離が近すぎたのかもしれない。
さらに一歩下がろうとした、その瞬間。
ラグが地面を蹴った。
「速っ!」
一気に距離が消える。
リベルは剣を抜きながら横へ身体を動かした。
目の前を、小さな身体が通り抜ける。
「っ……!」
避けた。
だが、身体が思った位置まで動いていない。
足がもつれ、そのまま膝をつく。
「危なっ……!」
すぐに振り向く。
ラグは数歩先で着地すると、ほとんど間を置かずこちらへ身体を向け直した。
「これだよ」
初めて戦った時も速かった。
あの頃より、相手の動きは分かる。
何をしてくるかも少しは知っている。
それなのに。
「剣持ったからって、俺が速くなったわけじゃないんだよな」
当たり前のことだった。
ラグが再び地面を蹴る。
「っ!」
剣を前へ出す。
受けられる。
そう思った。
だが、ラグは直前で僅かに軌道を変えた。
「そっち!?」
一瞬、見失う。
次に見えた時には、横から後脚が迫っていた。
「うわっ!」
咄嗟に腕を上げる。
衝撃で身体が横へ崩れ、草の上を転がった。
「……痛っ」
腕がじんじんと痺れる。
大怪我ではない。
でも。
「《身律》って、こういうことか……!」
脚力。
跳躍。
着地から次の動作へ移る速さ。
身体そのものが、あの動きに適している。
対して自分は。
「剣以前の問題だな」
立ち上がる。
肩に力が入っている。
柄を強く握りすぎている。
足も止まる。
バレンに言われたことが、そのまま実戦で出ていた。
「落ち着け」
握る力を少し緩める。
ラグを見る。
「速いけど……」
消えているわけじゃない。
動いている。
全部を目で追う必要はない。
ラグの後脚が沈む。
「来る」
地面を蹴る。
跳ぶ。
今度は剣を振らない。
リベルは横へ一歩だけ動いた。
足が少し遅れる。
それでも、さっきよりはましだった。
ラグが通り過ぎる。
「そこ!」
剣を振る。
空を切った。
「……当たらない!」
ラグが着地する。
その瞬間。
リベルは左手を向けた。
「《顕現》!」
青白い魔力が外へ伸びる。
ラグの進行方向。
地面すれすれの位置に、小さな板状の実体が形を取った。
ラグが地面を蹴る。
「っ!」
目の前に現れた障害物を避けようと、空中で身体を捻る。
だが、大きく軌道までは変えられない。
着地点がずれた。
「今!」
リベルが踏み込む。
剣を振った。
今度は刃がラグの脇腹を浅く捉える。
「キィッ!」
ラグが高い声を上げた。
着地と同時に大きく距離を取り、そのまま草むらの向こうへ駆けていく。
「…………」
追わない。
リベルは剣を構えたまま、しばらくラグが消えた方向を見ていた。
「……行った?」
草が揺れる。
だが、戻ってくる気配はない。
「はぁ……」
大きく息を吐き、剣を下ろす。
「勝った……っていうより、追い払っただけか」
それでも、前とは違った。
あの時は、何も分からず必死だった。
今は相手の名前を知っている。
枝脈も知っている。
剣もある。
《顕現》も使った。
それなのに。
「身体が追いついてかないな」
剣を見る。
武器が悪いわけではない。
ラグの動きを頭では分かっていても、視線が遅れる。
足が追いつかない。
振れば身体が流れる。
「《身律》か……」
もし、自分の身体もああいうふうに動かせたら。
「…………」
気になる。
けれど、今の自分には《身律》はない。
核華についても、結局何も分からなかった。
「分からないこと、増えるな」
それなのに、口元が少し上がる。
「……まあいいか」
知りたいなら、少しずつ確かめればいい。
それより。
「まだ四本しか採ってない」
現実が戻ってきた。
「先に仕事終わらせよ」
剣を収め、落とした麻袋を拾う。
腕の痛みを軽く確かめてから、リベルは再びミレア草を探し始めた。
◇
それからは、とくに大きな問題も起きなかった。
「七本」
少し歩いて。
「八本」
似た草に二度ほど騙され。
「……これ違うじゃん」
さらに歩いて。
「九本」
最後の一本を見つけたのは、低い岩の根元だった。
葉先を見る。
白い。
形も同じ。
「……よし」
丁寧に摘み取る。
「十本!」
麻袋へ入れる。
中には、確かに十本のミレア草が収まっていた。
「初依頼、終わり!」
思っていたより時間はかかった。
途中でラグにも襲われた。
核華まで試した。
「草十本採るだけだったはずなんだけどな」
苦笑する。
それでも、依頼は達成した。
「帰るか」
リベルはフィンリスの城壁が見える方向へ歩き始めた。
◇
冒険者ギルドへ戻った頃には、朝よりも少し人が増えていた。
依頼帰りらしい冒険者たちが受付へ並び、素材の入った袋や泥の付いた装備を持ち込んでいる。
リベルも列へ並び、しばらくして。
「お帰りなさい」
またエレナの受付へ辿り着いた。
「ただいま」
「どうでした、初依頼?」
「草採って、核華試して、ラグに襲われた」
「…………」
エレナが止まった。
「ミレア草の採取ですよね?」
「ミレア草の採取」
「どうして途中に二つ増えてるんですか?」
「俺もそう思う」
エレナが小さく息を吐く。
「怪我は?」
「腕をちょっと蹴られたくらい」
「見せてください」
「大丈夫だって」
「確認です」
「またそれ」
袖を少し上げる。
赤くなっている程度で、大きく腫れてはいない。
「……これなら大丈夫そうですね」
「でしょ?」
「でも、次からは気をつけてください」
「うん」
「核華については?」
エレナの声が少し低くなる。
「ここでは話さない方がいい?」
「その方が助かります」
「じゃあ後で」
エレナが頷いた。
「まず依頼品を確認しましょう」
リベルは麻袋を差し出す。
エレナが一本ずつ取り出し、葉や茎を確認していく。
一。
二。
三。
途中から、リベルの方が少し緊張してきた。
「……十」
最後の一本を置く。
「すべてミレア草です。状態も問題ありません」
「よし!」
思わず小さく拳を握る。
エレナが笑った。
「初依頼、達成ですね」
「おお……」
分かっていたのに。
言葉にされると嬉しい。
エレナは受付の奥から銀貨を四枚取り出し、カウンターの上へ並べた。
「こちらが報酬の銀貨四枚です」
「…………」
リベルは銀貨を見る。
昨日、門を通るために銀貨一枚を借りた。
剣も。
宿も。
全部、人の金だった。
けれど、これは違う。
自分で依頼を選んだ。
自分で街の外へ出た。
自分で十本の草を探した。
その対価。
「……これ、俺の金?」
「もちろんです」
「初めて稼いだ」
「おめでとうございます」
四枚の銀貨を手に取る。
小さい。
なのに、妙に重く感じた。
「今夜の宿が二枚」
「はい」
「残り二枚」
「はい」
「借金、銀貨六十八枚」
「はい」
「…………」
リベルは手の中の銀貨を見る。
「先長いな」
「始まったばかりですよ」
「……それもそうか」
リベルは笑った。
所持金、銀貨四枚。
初めて、ゼロじゃなくなった。




