②
武器屋を出ると、フィンリスの街には夕暮れがいっそう濃くなっていた。
西へ傾いた陽が建物の隙間から長い影を落とし、道には仕事を終えた者や、夕食を求めて店へ向かう人々の姿が増えている。
どこかの店から焼いた肉の匂いが漂ってきて、リベルの腹が小さく鳴った。
「…………」
「今、鳴った?」
隣を歩いていたミアが振り向く。
「鳴ってない」
「鳴ったよ」
「聞こえた」
セイルまで淡々と加わる。
「二人とも耳良すぎない?」
「今日まともに食ってないんだろ」
ガルドが言った。
「そういえば」
「そういえばじゃねぇよ」
リベルは手にしたばかりの剣へ目を落とした。
銀貨十五枚。
その金額を思い出した瞬間、空腹とは別の重さが胸へ戻ってくる。
「今の俺、借金銀貨六十六枚か……」
「まだ言ってる」
ミアが笑う。
「俺にとっては大問題なんだよ!」
「必要だったんでしょ?」
「そうだけど!」
そんなやり取りをしながら歩いていたガルドが、ふと足を止めた。
「そういや、お前」
「ん?」
「今日どこで寝るんだ?」
「…………」
リベルも止まる。
ミアとセイルまで足を止めた。
「……決めてないの?」
ミアが聞く。
「今、思い出した」
「忘れるものなの?」
「今日は覚えること多すぎたんだよ!」
枝脈。
核華。
華紋。
冒険者。
ギルド証。
武器。
草原で目を覚ました時には知らなかった言葉や物が、一日の間に一気に増えた。
寝床のことまで頭が回らなかったとしても、少しくらい許してほしい。
ガルドが呆れたように息を吐く。
「金は?」
「ない」
「知ってる」
「なら聞かなくてもよくない?」
「確認だ」
「エレナさんみたいなこと言い始めたな」
「で、どうするつもりだったんだ」
「…………」
リベルは夕暮れの通りを見回す。
「どっかで寝る?」
「街の中で野宿する気?」
ミアの眉が上がった。
「駄目?」
「駄目っていうか、やめた方がいいよ」
「門の外で寝るのもなしだからな」
ガルドが念を押す。
「分かってる。それはさすがに嫌だ」
剣を手に入れたとはいえ、夜の平原で一人きりになる気はない。
ガルドは少し考えてから、通りの先へ目を向けた。
「《銀月亭》行くか」
「銀月亭?」
「宿だ。冒険者もよく使ってる」
「安いし、ご飯もおいしいよ!」
ミアがすぐに補足する。
「いくら?」
「食事付きで、たしか一泊銀貨二枚」
「…………」
リベルは無言でガルドを見る。
ガルドも無言でリベルを見た。
「ないんだな」
「ない」
「一枚も?」
「一枚も」
「知ってる」
「だからなんで聞くんだよ!」
ガルドは笑うと、仕方なさそうに頭を掻いた。
「今日の分だけ出してやる」
「……いいの?」
「立て替えだぞ」
「ですよね」
「また敬語」
「今のは出るだろ!」
「まあ、それは出るね!」
ミアが笑う。
ガルドは指を一本立てた。
「明日からは自分で稼げ。俺が出すのは今日までだ」
「うん。分かってる」
「剣が銀貨十五枚。宿が二枚」
セイルが静かに口を開く。
「ガルドへの借金は十七枚」
「計算早いな」
「ギルドに五十枚。マルクに一枚。ガルドに十七枚」
一拍。
「合計、銀貨六十八枚」
「…………」
リベルは遠くを見る。
「増えるの早くない?」
「まだ依頼一件も受けてないのにね!」
「ミア、楽しんでるだろ」
「ちょっとだけ!」
「認めたな!」
それでも、寝る場所がないより遥かにいい。
「……借ります」
「よし」
「明日、絶対稼ご」
「その意気だ」
ガルドが笑った。
◇
《銀月亭》は冒険者ギルドから歩いてそれほど遠くない場所にあった。
大通りから一本入った通りに建つ、木と石を組み合わせた二階建ての建物。
周囲の店と比べて派手ではないが、入口の上では銀色の三日月を描いた小さな看板が揺れている。
「ここ」
ミアが指した。
「へえ」
リベルは建物を見上げる。
「思ってたより普通だな」
「宿に何を期待してたの?」
「もっとこう……でっかい看板とか」
「寝られればいいだろ」
ガルドが扉へ手をかける。
「それもそうか」
扉が開いた瞬間、温かい空気と一緒に料理の匂いが流れてきた。
「……腹減った」
「今度は普通に言ったね」
「もう隠す意味ないだろ」
一階は宿の受付と食堂を兼ねているらしく、木製のテーブルがいくつも並んでいる。
すでに何人かの客が座り、酒を飲みながら話していた。
奥からは鍋の蓋が鳴る音や、食器の重なる音が聞こえる。
床も壁も新しくはない。
けれど、きちんと手入れされていて、どこか落ち着く。
「いらっしゃい!」
奥から明るい声が飛んできた。
厨房から顔を出したのは、四十代くらいの女性だった。
後ろでまとめた髪にエプロン姿。
手を布で拭きながら、慣れた足取りで受付へ出てくる。
「……あら?」
女性の目がガルドたちへ向く。
「珍しいね。今日は三人で泊まりかい?」
「いや、俺たちじゃない」
ガルドがリベルの背中を軽く押した。
「こいつ」
「え?」
「泊まるのはお前だろ」
「まあそうだけど」
女性がリベルを見る。
頭から足元まで一度眺め、それから手にした剣へ視線を止めた。
「見ない顔だね」
「今日フィンリスに来たばかりです」
「今日?」
「冒険者にも今日なった」
「今日?」
女性の眉が上がる。
「武器も今日買った」
「今日!?」
「全部今日です」
「濃い一日だねぇ!」
女性が声を上げて笑った。
「私はローナ。この《銀月亭》の女将だよ。泊まりたいなら歓迎するよ!」
「リベルです。よろしく」
「はいよ、リベルね」
ローナはにっと笑う。
「食事付きで一泊銀貨二枚。夕食と朝食込み。部屋だけなら銀貨一枚と銅貨五十枚だけど、冒険者なら食っときな」
「食事付きで」
「即決!」
「腹減ってるから」
「いいねぇ。ちゃんと食べる新人は嫌いじゃないよ」
リベルはそこでガルドを見る。
「…………」
「何だよ」
「お願いします」
「今だけ急に礼儀正しいな」
ガルドが笑いながら銀貨二枚を受付台へ置いた。
乾いた音が二度鳴る。
ローナの視線が銀貨からリベルへ移った。
「……あんた、自分の宿代もないのかい?」
「ないです」
「きっぱり言うね」
「今日冒険者になったばっかりなので」
「それは理由になってるようで、なってない気もするねぇ」
「俺もそう思います」
ローナがまた笑った。
「まあ、払ってもらえるならこっちは構わないよ。ただし、明日からも泊まるなら自分で払いな」
「もちろん」
「こっちも商売だからね」
「その方が助かります」
「ほう?」
「変に気を遣われると、返すもの増えそうだし」
「もう十分増えてるけどな」
ガルドが言う。
「言わないで!」
ローナが面白そうに二人を見比べた。
「借金持ちかい?」
「銀貨六十八枚」
セイルが答えた。
「セイル!」
「聞かれたから」
「結構あるねぇ!」
ローナは驚いたものの、深刻そうな顔はしなかった。
「まあ、身体が動くなら働いて返しな」
「明日からそうするつもりです」
「ならいいさ」
妙にあっさりしている。
けれど、その態度がリベルにはありがたかった。
「部屋は二階の奥が空いてるよ」
ローナが小さな鍵を取り出す。
「食事はもう少ししたら出せる。荷物置いてくるなら今のうちに行っといで」
「ありがとう」
「剣持って階段で転ぶんじゃないよ」
「そこまで初心者に見える?」
「見える」
「即答!」
後ろでミアが笑った。
◇
「じゃあ、俺たちはここまでだな」
鍵を受け取ったところで、ガルドが言った。
リベルが振り向く。
「もう行くの?」
「俺たちにも戻る場所があるからな」
「そっか」
「明日は朝からギルド行くんでしょ?」
ミアが聞く。
「そのつもり」
「初依頼?」
「うん」
「無茶なの選ばないでよ?」
「戊級で受けられるやつしか無理なんだろ?」
「そういう問題じゃないの!」
「分かってるって」
「その返事が軽いんだよなぁ」
ミアが少しだけ頬を膨らませる。
セイルがリベルを見る。
「分からない依頼なら、受付で聞いた方がいいよ」
「うん」
「それと、武器」
視線がリベルの剣へ落ちる。
「持ってるだけで使えるようになるわけじゃないから」
「……それは今日ちょっと分かった」
武器屋で構えを直されたことを思い出す。
「まず慣れるところからだな」
ガルドが言った。
「無理して戦う必要もない。最初は採取でも運搬でもいい」
「分かった」
「稼がないと宿代も払えないしね!」
「分かってるって!」
ミアが笑いながら手を振る。
「じゃあ、またね!」
「また」
セイルも小さく手を上げる。
ガルドは最後にリベルの肩を軽く叩いた。
「何かあったらカードで連絡しろ」
「うん」
「本当に困った時は、遠慮すんなよ」
「……分かった。ありがとう」
「じゃあな」
三人が扉の向こうへ出ていく。
リベルは入口の前で、その背中を見送った。
マルクとは少し前に別れた。
今度はガルドたちも帰っていく。
さっきまでずっと誰かが隣にいたせいか、一人になると食器の触れ合う音や客たちの笑い声が、急に大きく聞こえた。
「寂しくなったかい?」
後ろからローナの声がした。
「え?」
「そんな顔してたよ」
「いや……ちょっと静かになったなって」
「ここは静かじゃないけどね」
「たしかに」
食堂の奥では誰かが大声で笑っている。
「まあ、また会えるし」
「ならいいさ」
ローナはそれ以上聞かなかった。
「部屋見てきな。飯できたら呼ぶよ」
「うん」
リベルは鍵を握り、二階へ向かった。
◇
二階の一番奥。
鍵を差し込んで扉を開ける。
「おお……」
部屋は広くない。
ベッド。
小さな机と椅子。
壁際には荷物を置くための台。
それから、通りを見下ろせる小さな窓。
飾りらしいものはほとんどないが、床もシーツも清潔に保たれている。
「十分だな」
この世界に来た時、目を覚ましたのは草原だった。
屋根も、壁も、寝床もなかった。
今は鍵の掛かる部屋にいて、目の前にはちゃんとしたベッドがある。
「……すごい安心感」
剣を邪魔にならない場所へ置き、ベッドへ腰掛ける。
身体が少し沈んだ。
「柔らか……」
そのまま倒れ込みたくなる。
けれど、空腹がそれを許さなかった。
「飯」
すぐに立ち上がる。
そこでふと、部屋を見回した。
「……風呂は?」
ない。
それらしい場所も見当たらない。
「共同かな」
それなら一階で聞けばいい。
リベルは部屋を出た。
◇
「ローナさん」
「ん?」
夕食の準備をしていたローナが振り返る。
「風呂ってどこ?」
「…………」
ローナの手が止まった。
「何?」
「いや……あんた、ずいぶんいい暮らししてたんだねぇ」
「何の話?」
「風呂だよ。うちにはない」
「…………ない?」
「ない」
今度はリベルが止まる。
「じゃあ、どうやって身体洗うの?」
「湯を沸かして、布で拭く」
「…………」
「その顔は何だい」
「風呂ないんだ……」
「そんな落ち込むことかい?」
「いや、毎日入るものだと思ってた」
「毎日!?」
ローナの声が食堂へ響いた。
近くで食事をしていた客が何人か振り返る。
「そんな驚く?」
「浴槽いっぱいの湯を毎日用意するのに、どれだけ水と燃料使うと思ってんだい!」
「……なるほど」
言われてみれば、大量の水を用意して温めるだけでも手間がかかる。
元いた世界では当たり前だったことも、ここでは違うらしい。
「風呂なんて、設備の整った家か、金に余裕があるところで使うもんだよ。うちみたいな普通の宿で毎日やってたら、銀貨二枚じゃ泊められないね」
「違う世界だな……」
「何だって?」
「何でもない」
ローナが不思議そうに首を傾げる。
「そんなに風呂好きなのかい?」
「好きというか……入りたい」
「今日は湯を一桶持ってってやるから、それで我慢しな」
「浴槽は?」
「ない」
「ですよね」
「そんなに欲しいなら、金貯めて自分で作りな」
「…………」
リベルの目が止まった。
「自分で?」
「何だい?」
「……それ、いいな」
「何が?」
「いつか作る」
「風呂を?」
「うん」
「冒険者になって最初の目標がそれかい!」
ローナが声を上げて笑った。
「大事だろ!」
「普通は立派な武器とか、でかい家とか言うもんじゃないのかい?」
「家も欲しいかもしれない」
「ほら」
「風呂付きの」
「そこは譲らないんだねぇ!」
また笑われる。
けれど、リベルは割と本気だった。
「……覚えとこ」
この世界でやりたいことが、一つ増えた。
◇
夕食は、大きな器に入った温かいシチューとパン。
それから香草と塩で焼いた肉だった。
特別豪華というわけではない。
「……うまい」
「そうだろ?」
近くを通ったローナが得意そうに笑う。
「めちゃくちゃうまい」
「腹減ってるから何食べてもそう思うんじゃないかい?」
「それもあるかも」
「正直でよろしい」
野菜の甘みが溶けたシチューを口へ運ぶ。
肉も柔らかく、少し硬めのパンを浸せばちょうどいい。
一日中動き回っていた身体へ、食事の温かさが染み込んでいくようだった。
「銀貨二枚でこれならいいな」
「明日から自分で払えるならね」
「……明日、絶対依頼受けよ」
「頑張りな」
ローナは笑いながら厨房へ戻っていった。
リベルは食事を続けながら、今日のことを思い返す。
知らない草原で目を覚ました。
戦って、人と出会って、街へ来た。
自分の枝脈を知り、冒険者になった。
ギルド証を手に入れ、剣まで買った。
「……ほんとに今日一日なんだよな」
自分で言っていて信じられない。
「しかも借金銀貨六十八枚」
そこだけは、妙に現実的だった。
「明日はまず稼がないとな」
残ったパンをシチューへ浸す。
◇
食事を終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。
ローナから湯の入った桶と清潔な布を借り、二階の部屋へ戻る。
温めた布で身体を拭くと、草原の土や一日の汗が落ちていった。
「……これはこれで悪くない」
さっぱりはする。
「でも風呂は欲しい」
そこだけは変わらなかった。
身体を拭き終え、服を着直す。
窓を少し開けると、夜のフィンリスから様々な音が入ってきた。
遠くを走る荷車。
酒場らしき場所から聞こえる笑い声。
店じまいを知らせる木戸の音。
知らない街。
知らない世界。
それでも今夜は、安心して眠れる場所がある。
リベルはベッドへ腰掛けた。
「…………」
静かになると、自然と気になるものがあった。
服の裾へ手をかける。
少し持ち上げると、左の脇腹から胸元へ向かって伸びる青白い模様が見えた。
枝のように伸びる線。
そして、その途中にある蕾。
「《華紋》……」
ギルドで初めて名前を知った。
エレナたちによれば、自分にはすでに《核華》がある。
この蕾も、その証だ。
普段は閉じていて、核華を使う時には花が開く。
指先で触れてみる。
痛みはない。
皮膚に描かれた模様のようにも見える。
けれど、意識を向けると分かる。
《顕現》とは少し違う。
もっと深いところに、何かが繋がっているような感覚。
「……ダメだ」
気になる。
ものすごく気になる。
「これ、使ったら何が起きるんだ?」
エレナには、正体の分からない核華をギルドの中で試すなと言われた。
「…………」
リベルは部屋を見回す。
木の壁。
ベッド。
机。
その向こうには、別の宿泊客もいる。
「いや、ここも駄目だろ」
もし火が出たら。
壁が壊れたら。
何かを吹き飛ばしたら。
何が起こるか分からない以上、人のいる建物の中で試すべきではない。
けれど、一度考えてしまったせいで余計に気になる。
「……明日だな」
服の裾を戻す。
「街の外に出て、人がいないところ探して」
そこで試す。
何が起きるのか。
何ができるのか。
そもそも、本当に自分で使えるのか。
「……こういうの、絶対気になる」
思わず笑った。
明日は初めて依頼を受ける。
金も稼がなければならない。
剣にも慣れたい。
そして、自分の《核華》も試したい。
「忙しいな」
誰に言うでもなく呟き、リベルはベッドへ横になる。
柔らかな寝具が身体を受け止めた。
「……これ最高だな」
草原で目を覚ましてから、まだ一日しか経っていない。
それなのに、明日やりたいことはもういくつもある。
どれからやろう。
そう考えるだけで、少し楽しみになった。
「明日、外で試してみるか」
最後にそう呟いて。
リベルは、この世界で初めて手に入れた安全な寝床で、ゆっくりと目を閉じた。




