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WILD HEART  作者: 日向 トキ
第二章 新しい日常

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13/32

②

 武器屋を出ると、フィンリスの街には夕暮れがいっそう濃くなっていた。

 西へ傾いた陽が建物の隙間から長い影を落とし、道には仕事を終えた者や、夕食を求めて店へ向かう人々の姿が増えている。


 どこかの店から焼いた肉の匂いが漂ってきて、リベルの腹が小さく鳴った。


「…………」


「今、鳴った?」


 隣を歩いていたミアが振り向く。


「鳴ってない」


「鳴ったよ」


「聞こえた」


 セイルまで淡々と加わる。


「二人とも耳良すぎない?」


「今日まともに食ってないんだろ」


 ガルドが言った。


「そういえば」


「そういえばじゃねぇよ」


 リベルは手にしたばかりの剣へ目を落とした。

 銀貨十五枚。

 その金額を思い出した瞬間、空腹とは別の重さが胸へ戻ってくる。


「今の俺、借金銀貨六十六枚か……」


「まだ言ってる」


 ミアが笑う。


「俺にとっては大問題なんだよ!」


「必要だったんでしょ?」


「そうだけど!」


 そんなやり取りをしながら歩いていたガルドが、ふと足を止めた。


「そういや、お前」


「ん?」


「今日どこで寝るんだ?」


「…………」


 リベルも止まる。

 ミアとセイルまで足を止めた。


「……決めてないの?」


 ミアが聞く。


「今、思い出した」


「忘れるものなの?」


「今日は覚えること多すぎたんだよ!」


 枝脈。

 核華。

 華紋。

 冒険者。

 ギルド証。

 武器。


 草原で目を覚ました時には知らなかった言葉や物が、一日の間に一気に増えた。

 寝床のことまで頭が回らなかったとしても、少しくらい許してほしい。


 ガルドが呆れたように息を吐く。


「金は?」


「ない」


「知ってる」


「なら聞かなくてもよくない?」


「確認だ」


「エレナさんみたいなこと言い始めたな」


「で、どうするつもりだったんだ」


「…………」


 リベルは夕暮れの通りを見回す。


「どっかで寝る?」


「街の中で野宿する気?」


 ミアの眉が上がった。


「駄目?」


「駄目っていうか、やめた方がいいよ」


「門の外で寝るのもなしだからな」


 ガルドが念を押す。


「分かってる。それはさすがに嫌だ」


 剣を手に入れたとはいえ、夜の平原で一人きりになる気はない。


 ガルドは少し考えてから、通りの先へ目を向けた。


「《銀月亭》行くか」


「銀月亭?」


「宿だ。冒険者もよく使ってる」


「安いし、ご飯もおいしいよ!」


 ミアがすぐに補足する。


「いくら?」


「食事付きで、たしか一泊銀貨二枚」


「…………」


 リベルは無言でガルドを見る。

 ガルドも無言でリベルを見た。


「ないんだな」


「ない」


「一枚も?」


「一枚も」


「知ってる」


「だからなんで聞くんだよ!」


 ガルドは笑うと、仕方なさそうに頭を掻いた。


「今日の分だけ出してやる」


「……いいの?」


「立て替えだぞ」


「ですよね」


「また敬語」


「今のは出るだろ!」


「まあ、それは出るね!」


 ミアが笑う。


 ガルドは指を一本立てた。


「明日からは自分で稼げ。俺が出すのは今日までだ」


「うん。分かってる」


「剣が銀貨十五枚。宿が二枚」


 セイルが静かに口を開く。


「ガルドへの借金は十七枚」


「計算早いな」


「ギルドに五十枚。マルクに一枚。ガルドに十七枚」


 一拍。


「合計、銀貨六十八枚」


「…………」


 リベルは遠くを見る。


「増えるの早くない?」


「まだ依頼一件も受けてないのにね!」


「ミア、楽しんでるだろ」


「ちょっとだけ!」


「認めたな!」


 それでも、寝る場所がないより遥かにいい。


「……借ります」


「よし」


「明日、絶対稼ご」


「その意気だ」


 ガルドが笑った。


     ◇


 《銀月亭》は冒険者ギルドから歩いてそれほど遠くない場所にあった。


 大通りから一本入った通りに建つ、木と石を組み合わせた二階建ての建物。

 周囲の店と比べて派手ではないが、入口の上では銀色の三日月を描いた小さな看板が揺れている。


「ここ」


 ミアが指した。


「へえ」


 リベルは建物を見上げる。


「思ってたより普通だな」


「宿に何を期待してたの?」


「もっとこう……でっかい看板とか」


「寝られればいいだろ」


 ガルドが扉へ手をかける。


「それもそうか」


 扉が開いた瞬間、温かい空気と一緒に料理の匂いが流れてきた。


「……腹減った」


「今度は普通に言ったね」


「もう隠す意味ないだろ」


 一階は宿の受付と食堂を兼ねているらしく、木製のテーブルがいくつも並んでいる。


 すでに何人かの客が座り、酒を飲みながら話していた。

 奥からは鍋の蓋が鳴る音や、食器の重なる音が聞こえる。


 床も壁も新しくはない。

 けれど、きちんと手入れされていて、どこか落ち着く。


「いらっしゃい!」


 奥から明るい声が飛んできた。


 厨房から顔を出したのは、四十代くらいの女性だった。

 後ろでまとめた髪にエプロン姿。

 手を布で拭きながら、慣れた足取りで受付へ出てくる。


「……あら?」


 女性の目がガルドたちへ向く。


「珍しいね。今日は三人で泊まりかい?」


「いや、俺たちじゃない」


 ガルドがリベルの背中を軽く押した。


「こいつ」


「え?」


「泊まるのはお前だろ」


「まあそうだけど」


 女性がリベルを見る。

 頭から足元まで一度眺め、それから手にした剣へ視線を止めた。


「見ない顔だね」


「今日フィンリスに来たばかりです」


「今日?」


「冒険者にも今日なった」


「今日?」


 女性の眉が上がる。


「武器も今日買った」


「今日!?」


「全部今日です」


「濃い一日だねぇ!」


 女性が声を上げて笑った。


「私はローナ。この《銀月亭》の女将だよ。泊まりたいなら歓迎するよ!」


「リベルです。よろしく」


「はいよ、リベルね」


 ローナはにっと笑う。


「食事付きで一泊銀貨二枚。夕食と朝食込み。部屋だけなら銀貨一枚と銅貨五十枚だけど、冒険者なら食っときな」


「食事付きで」


「即決!」


「腹減ってるから」


「いいねぇ。ちゃんと食べる新人は嫌いじゃないよ」


 リベルはそこでガルドを見る。


「…………」


「何だよ」


「お願いします」


「今だけ急に礼儀正しいな」


 ガルドが笑いながら銀貨二枚を受付台へ置いた。

 乾いた音が二度鳴る。


 ローナの視線が銀貨からリベルへ移った。


「……あんた、自分の宿代もないのかい?」


「ないです」


「きっぱり言うね」


「今日冒険者になったばっかりなので」


「それは理由になってるようで、なってない気もするねぇ」


「俺もそう思います」


 ローナがまた笑った。


「まあ、払ってもらえるならこっちは構わないよ。ただし、明日からも泊まるなら自分で払いな」


「もちろん」


「こっちも商売だからね」


「その方が助かります」


「ほう?」


「変に気を遣われると、返すもの増えそうだし」


「もう十分増えてるけどな」


 ガルドが言う。


「言わないで!」


 ローナが面白そうに二人を見比べた。


「借金持ちかい?」


「銀貨六十八枚」


 セイルが答えた。


「セイル!」


「聞かれたから」


「結構あるねぇ!」


 ローナは驚いたものの、深刻そうな顔はしなかった。


「まあ、身体が動くなら働いて返しな」


「明日からそうするつもりです」


「ならいいさ」


 妙にあっさりしている。

 けれど、その態度がリベルにはありがたかった。


「部屋は二階の奥が空いてるよ」


 ローナが小さな鍵を取り出す。


「食事はもう少ししたら出せる。荷物置いてくるなら今のうちに行っといで」


「ありがとう」


「剣持って階段で転ぶんじゃないよ」


「そこまで初心者に見える?」


「見える」


「即答!」


 後ろでミアが笑った。


     ◇


「じゃあ、俺たちはここまでだな」


 鍵を受け取ったところで、ガルドが言った。

 リベルが振り向く。


「もう行くの?」


「俺たちにも戻る場所があるからな」


「そっか」


「明日は朝からギルド行くんでしょ?」


 ミアが聞く。


「そのつもり」


「初依頼?」


「うん」


「無茶なの選ばないでよ?」


「戊級で受けられるやつしか無理なんだろ?」


「そういう問題じゃないの!」


「分かってるって」


「その返事が軽いんだよなぁ」


 ミアが少しだけ頬を膨らませる。


 セイルがリベルを見る。


「分からない依頼なら、受付で聞いた方がいいよ」


「うん」


「それと、武器」


 視線がリベルの剣へ落ちる。


「持ってるだけで使えるようになるわけじゃないから」


「……それは今日ちょっと分かった」


 武器屋で構えを直されたことを思い出す。


「まず慣れるところからだな」


 ガルドが言った。


「無理して戦う必要もない。最初は採取でも運搬でもいい」


「分かった」


「稼がないと宿代も払えないしね!」


「分かってるって!」


 ミアが笑いながら手を振る。


「じゃあ、またね!」


「また」


 セイルも小さく手を上げる。


 ガルドは最後にリベルの肩を軽く叩いた。


「何かあったらカードで連絡しろ」


「うん」


「本当に困った時は、遠慮すんなよ」


「……分かった。ありがとう」


「じゃあな」


 三人が扉の向こうへ出ていく。

 リベルは入口の前で、その背中を見送った。


 マルクとは少し前に別れた。

 今度はガルドたちも帰っていく。


 さっきまでずっと誰かが隣にいたせいか、一人になると食器の触れ合う音や客たちの笑い声が、急に大きく聞こえた。


「寂しくなったかい?」


 後ろからローナの声がした。


「え?」


「そんな顔してたよ」


「いや……ちょっと静かになったなって」


「ここは静かじゃないけどね」


「たしかに」


 食堂の奥では誰かが大声で笑っている。


「まあ、また会えるし」


「ならいいさ」


 ローナはそれ以上聞かなかった。


「部屋見てきな。飯できたら呼ぶよ」


「うん」


 リベルは鍵を握り、二階へ向かった。


     ◇


 二階の一番奥。

 鍵を差し込んで扉を開ける。


「おお……」


 部屋は広くない。


 ベッド。

 小さな机と椅子。

 壁際には荷物を置くための台。

 それから、通りを見下ろせる小さな窓。

 飾りらしいものはほとんどないが、床もシーツも清潔に保たれている。


「十分だな」


 この世界に来た時、目を覚ましたのは草原だった。

 屋根も、壁も、寝床もなかった。


 今は鍵の掛かる部屋にいて、目の前にはちゃんとしたベッドがある。


「……すごい安心感」


 剣を邪魔にならない場所へ置き、ベッドへ腰掛ける。

 身体が少し沈んだ。


「柔らか……」


 そのまま倒れ込みたくなる。

 けれど、空腹がそれを許さなかった。


「飯」


 すぐに立ち上がる。


 そこでふと、部屋を見回した。


「……風呂は?」


 ない。

 それらしい場所も見当たらない。


「共同かな」


 それなら一階で聞けばいい。

 リベルは部屋を出た。


     ◇


「ローナさん」


「ん?」


 夕食の準備をしていたローナが振り返る。


「風呂ってどこ?」


「…………」


 ローナの手が止まった。


「何?」


「いや……あんた、ずいぶんいい暮らししてたんだねぇ」


「何の話?」


「風呂だよ。うちにはない」


「…………ない?」


「ない」


 今度はリベルが止まる。


「じゃあ、どうやって身体洗うの?」


「湯を沸かして、布で拭く」


「…………」


「その顔は何だい」


「風呂ないんだ……」


「そんな落ち込むことかい?」


「いや、毎日入るものだと思ってた」


「毎日!?」


 ローナの声が食堂へ響いた。

 近くで食事をしていた客が何人か振り返る。


「そんな驚く?」


「浴槽いっぱいの湯を毎日用意するのに、どれだけ水と燃料使うと思ってんだい!」


「……なるほど」


 言われてみれば、大量の水を用意して温めるだけでも手間がかかる。

 元いた世界では当たり前だったことも、ここでは違うらしい。


「風呂なんて、設備の整った家か、金に余裕があるところで使うもんだよ。うちみたいな普通の宿で毎日やってたら、銀貨二枚じゃ泊められないね」


「違う世界だな……」


「何だって?」


「何でもない」


 ローナが不思議そうに首を傾げる。


「そんなに風呂好きなのかい?」


「好きというか……入りたい」


「今日は湯を一桶持ってってやるから、それで我慢しな」


「浴槽は?」


「ない」


「ですよね」


「そんなに欲しいなら、金貯めて自分で作りな」


「…………」


 リベルの目が止まった。


「自分で?」


「何だい?」


「……それ、いいな」


「何が?」


「いつか作る」


「風呂を?」


「うん」


「冒険者になって最初の目標がそれかい!」


 ローナが声を上げて笑った。


「大事だろ!」


「普通は立派な武器とか、でかい家とか言うもんじゃないのかい?」


「家も欲しいかもしれない」


「ほら」


「風呂付きの」


「そこは譲らないんだねぇ!」


 また笑われる。

 けれど、リベルは割と本気だった。


「……覚えとこ」


 この世界でやりたいことが、一つ増えた。


     ◇


 夕食は、大きな器に入った温かいシチューとパン。

 それから香草と塩で焼いた肉だった。

 特別豪華というわけではない。


「……うまい」


「そうだろ?」


 近くを通ったローナが得意そうに笑う。


「めちゃくちゃうまい」


「腹減ってるから何食べてもそう思うんじゃないかい?」


「それもあるかも」


「正直でよろしい」


 野菜の甘みが溶けたシチューを口へ運ぶ。

 肉も柔らかく、少し硬めのパンを浸せばちょうどいい。

 一日中動き回っていた身体へ、食事の温かさが染み込んでいくようだった。


「銀貨二枚でこれならいいな」


「明日から自分で払えるならね」


「……明日、絶対依頼受けよ」


「頑張りな」


 ローナは笑いながら厨房へ戻っていった。


 リベルは食事を続けながら、今日のことを思い返す。


 知らない草原で目を覚ました。

 戦って、人と出会って、街へ来た。

 自分の枝脈を知り、冒険者になった。

 ギルド証を手に入れ、剣まで買った。


「……ほんとに今日一日なんだよな」


 自分で言っていて信じられない。


「しかも借金銀貨六十八枚」


 そこだけは、妙に現実的だった。


「明日はまず稼がないとな」


 残ったパンをシチューへ浸す。


     ◇


 食事を終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 ローナから湯の入った桶と清潔な布を借り、二階の部屋へ戻る。

 温めた布で身体を拭くと、草原の土や一日の汗が落ちていった。


「……これはこれで悪くない」


 さっぱりはする。


「でも風呂は欲しい」


 そこだけは変わらなかった。


 身体を拭き終え、服を着直す。

 窓を少し開けると、夜のフィンリスから様々な音が入ってきた。


 遠くを走る荷車。

 酒場らしき場所から聞こえる笑い声。

 店じまいを知らせる木戸の音。


 知らない街。

 知らない世界。


 それでも今夜は、安心して眠れる場所がある。


 リベルはベッドへ腰掛けた。


「…………」


 静かになると、自然と気になるものがあった。


 服の裾へ手をかける。

 少し持ち上げると、左の脇腹から胸元へ向かって伸びる青白い模様が見えた。


 枝のように伸びる線。

 そして、その途中にある蕾。


「《華紋》……」


 ギルドで初めて名前を知った。


 エレナたちによれば、自分にはすでに《核華》がある。

 この蕾も、その証だ。

 普段は閉じていて、核華を使う時には花が開く。


 指先で触れてみる。

 痛みはない。

 皮膚に描かれた模様のようにも見える。


 けれど、意識を向けると分かる。

 《顕現》とは少し違う。

 もっと深いところに、何かが繋がっているような感覚。


「……ダメだ」


 気になる。

 ものすごく気になる。


「これ、使ったら何が起きるんだ?」


 エレナには、正体の分からない核華をギルドの中で試すなと言われた。


「…………」


 リベルは部屋を見回す。


 木の壁。

 ベッド。

 机。

 その向こうには、別の宿泊客もいる。


「いや、ここも駄目だろ」


 もし火が出たら。

 壁が壊れたら。

 何かを吹き飛ばしたら。


 何が起こるか分からない以上、人のいる建物の中で試すべきではない。


 けれど、一度考えてしまったせいで余計に気になる。


「……明日だな」


 服の裾を戻す。


「街の外に出て、人がいないところ探して」


 そこで試す。

 何が起きるのか。

 何ができるのか。

 そもそも、本当に自分で使えるのか。


「……こういうの、絶対気になる」


 思わず笑った。


 明日は初めて依頼を受ける。

 金も稼がなければならない。

 剣にも慣れたい。

 そして、自分の《核華》も試したい。


「忙しいな」


 誰に言うでもなく呟き、リベルはベッドへ横になる。

 柔らかな寝具が身体を受け止めた。


「……これ最高だな」


 草原で目を覚ましてから、まだ一日しか経っていない。

 それなのに、明日やりたいことはもういくつもある。


 どれからやろう。

 そう考えるだけで、少し楽しみになった。


「明日、外で試してみるか」


 最後にそう呟いて。

 リベルは、この世界で初めて手に入れた安全な寝床で、ゆっくりと目を閉じた。

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