六十五話
凍て風がないている。
氷園へ吹き込んだ風は一層冷たくなって水分を失う。
かわいたとても冷たい風が時雨の体を少しずつ凍えさせてきた。
水でできた体。
温度変化によるダメージや体の内側の機能の低下は関係ない。
でも体はすぐに凍ってしまいそうだ。
水流操作を全身に適応させて水を循環させる。
これなら簡単には凍ってしまわない。
「…」
氷園に佇む何かは時雨の様子をじっと見ていた。
特段脅威としてみていないからこその傍観。
「…勝負だ」
時雨は今この瞬間からすべての力を開放した。
自分が持っている水流操作。
冬樹から受け継いだ圧力。
母からもらったミヅハノメ。
地球に渡されたアビス。
時雨の体は変化する。
髪色が濡れ烏色から明るい水色へ。
水色の中へ薄紫が混じり、対流する。
瞳孔は雫の形へと変わり、時雨の周囲を羽衣が包む。
右手にはアビスの剣。
左にはいつも使っている水妖。
ここで初めて氷園の主は相手を脅威と認識したらしい。
氷気が荒れて渦巻いていく。
空中から氷の結晶が生まれて短く不思議な形をした短剣が現れた。
それはまるで雪の結晶のような形をした扇のようでもあり、確かに長い部分が剣として機能しそうなほど鋭い。
ただこの事象を見れば襲から取り出すような感覚だと思ったかもしれない。
しかし時雨はその光景を間近で見て理解してしまった。
(空気中の気化している水分を瞬時に氷にしてしまっている…!)
気体から個体まですぐに変化させてしまうほどの冷気。
普通ならこんな光景は見ることがない。
この氷結自体が特殊で不自然な光景を生み出しているのではない。
ただこの低温だけでそれを実現させるほどのエネルギーが秘められている。
ただただその事実を如実に表していた。
(分かってはいた)
時雨は目の前の事象を見て少しおびえた。
分かっていた。
相手が規格外の存在であるということは。
それでもいざ片鱗だけでも目にすればこの恐怖は拭えない。
でも。
「はっ!」
時雨は駆け出した。
凍り付いてしまいそうな体を思いっきり動かした。
相手よりも低く。
自分のタッパを有利に使う。
低い姿勢から剣撃を加えていく。
アビスの剣から先に相手の体に触れようとしたとき。
ガギィン!という硬い音を響かせて剣が弾かれる。
僅かな隙間にあった空気の水分を凍り付かせて防御して見せた。
さらにアビスの剣も半ばまで凍り付いてしまって手放さざるを得ない。
時雨は間一髪後ろに下がって避けきる。
「…!!」
下手に攻撃に出られないということだ。
瞬時に氷を展開するのは防御になるが、同時に強力な攻撃にもなる。
後退した時雨の周囲に氷の槍が空を覆うように降り注いできた。
時雨は即座に駆け出す。
動きを予想されないように不規則な動きを繰り返して槍を避けていく。
しかしギリギリに違いなかった。
雨のように降り注ぐ槍は時折移動先を予測して飛んでくるものがあった。
「くっ…!」
槍を攻撃で弾く。
ほんの一瞬触れただけ。
それでもミヅハノメの力が篭もる刀も凍り付いてしまう。
数秒あればエネルギーのおかげで元通りにはなるが、その数秒が命取り。
時雨は知らず知らずの間に罠に誘い込まれていた。
「これは…!」
足元には氷が隆起していた。
まるで諏訪湖の神渡のように、隆起した氷は勢いを増して時雨の体を穿つ。
「…っ!!」
時雨の体の半分以上がそれによって氷漬けにされる。
切り裂かれたことにより流れた血も液体の姿をとどめることなく氷の塊となってしまい、時雨の体も一体化してしまう。
だが。
破壊のエネルギーが駆け抜けて、氷に埋まっていたアビスの剣が飛び出してくる。
その軌道上にいた相手の体を少しだけ切り裂いて飛んできて、時雨の手元に戻って拘束する氷を砕く。
相手の黒く染まった部分にパキリと小さなひびが入った。
「…もう少し入れられると思ったけど」
時雨の不意打ち。
アビスの剣を手放したときに即興で思いついた策。
自分への攻撃が苛烈になっていた時に少しでも攻撃を入れようとしたのだ。
ただではやられないという強い意志を感じる作戦に六花の意識が朧気ながら反応したらしい。
氷の扇刀を扇ぎ、氷結する竜巻を複数発生させる。
天を突くような高さと圧倒的な大きさの竜巻。
ゴゴゴ…と音が地響きまで発生させていく。
「はあっ…!」
時雨が放つのはミヅハノメの砲弾。
あたりが暗くなるほど眩い光を放ち、雫は氷園を駆け抜けていく。
ほんの少し首を傾けて六花は回避した。
はるか後方で炸裂した雫は竜巻を強引に洗い流して消滅させる。
流石にこれには六花も驚いたらしい。
一瞬のスキをついて時雨は急接近して刀で切りかかる。
それでも瞬時に展開する氷に攻撃は阻まれた。
「はあっ!!」
刀からエネルギーが爆発して氷を強引に吹き飛ばす。
衝撃波は氷を弾き飛ばすだけにとどまらず六花本体にもダメージを与えた。
『…!』
すかさず6連撃の攻撃。
不規則に変化しつつも多大なエネルギーを放つ刀。
アビスの力を宿す剣。
対処が難しい2つの混合攻撃は六花をして初見では打ち破れない。
体に半分くらいは掠る。
アビスのエネルギーは即座に作用して黒い部分の罅を広げていく。
「ぐぅっ!?」
でも簡単にはいかない。
受けた瞬間に攻撃に転じた六花は扇刀で串刺しにしてくる。
ぐさり。
時雨が知覚できるよりも早く時雨の心臓部を刺す。
時雨に心臓はない。
心臓らしい感覚はあるがそれは実態を伴わない。
だからこれが致命傷になることはなかった。
その様子に六花は困惑しつつも、冷気の出力を高めて時雨を氷像にしようとする。
(くっそ…!凍るのが早い!)
時雨は焦燥した。
全身を氷漬けにされればもはや戦えない。
エネルギーを高めて対抗するが、相手の力が強くて押し返せなかった。
ゴオオオン!!
結果、できたことは自爆による強引な拘束の解除。
お互いに吹っ飛ばされる。
時雨は地面を転がってすぐに体勢を立て直す。
体に着いた氷の粉を振るい落として刀を構え直した。
足元の氷が盛り上がる。
危険を察知した時雨は瞬時に飛びのく。
先ほどまで時雨がいた場所には氷山が現れた。
そのまま突っ立っていたらまた串刺しになっていただろう。
しかしそれだけでは終わらず山が次々と現れて、上空には巨大な氷の塊が出現する。
時雨はそのすべてを回避しきることはできず肩と腹部に攻撃を受ける。
「がっ…!?」
空中に浮いた時雨に六花は急接近する。
扇刀を振るって直接攻撃しに来た。
一閃。
白く冷たい光がきらりと光った。
その威力と速度は尋常ではない。
時雨は寸前でアビスの装甲を出現させて防いだはいいが、簡単に切り裂かれてしまう。
体の内部の方まで攻撃が届いたが、それでも装甲のおかげでかなり軽減されていると見えた。
(装甲がなかったら即死だった…!)
時雨は腕をアビスの変化させて地面に叩きつける。
アビスのエネルギーが地面を爆発させていく。
六花は即座に距離をとった。
音もなく大規模な攻撃が炸裂して地面は数メートル崩落していく。
氷の行き届いていなかった場所の土も瞬く間に白く凍り付いてしまう。
無数のアビスのエネルギー弾が六花を襲う。
マシンガンの構造をしたアビスの武器のおかげだ。
氷球が六花を守護する。
破壊の力が込められた弾丸とてそれを突破することはかなわず、弾かれてしまう。
キリキリ…
弦を引き絞る音がしたと思うと球に風穴があく。
今度時雨が使用したのは弓。
貫通力なら銃よりも優れた弓ならばこの球を穿てる。
さらに矢につけられていた水球が爆ぜて、紫のドームを作り出す。
氷気が吹っ飛ばされていく。
ドームは、形が崩れる手前になって凍り付いた。
「!!」
ドームを突き破って六花は鋭く扇刀を見舞う。
時雨の胴体を大きく切り裂いた。
時雨の脳が理解するよりも速く。
『…』
凍てつく力が今までよりもはるかに強く輝いていく。
勢いを増して、空気の水分どころかそれを構成する気体すべてを凍り付かせて、周囲一帯を氷に変えてしまう。
それは時雨の周囲だけではない。
そこから数千キロにわたってすべてが凍り付いた。
一瞬のうちに、なすすべもなく。
京も、ホシのいる塔も。
巨大な凍り付いた塊が出現した。
これが六花。
星に対抗しうる雪禍。
それはまるで氷河期を彷彿させるほどの冷酷な冷たさの暴威。
今まで六花はまったくと言っていいほど全力を出していなかった。
――――
激しい戦闘もすべて時が止まってしまったかのように凍てついて、誰一人として凍り付かない者はいない。
それがたとえホシであったとしても。
そんなことは時雨は知らなかった。
動くことはできない。
水がすべて凍ってしまった。
それでも水の民という不思議な体質故か意識に何ら影響はない。
(くそ…!全く動けない…!)
しかし無情にも意識があるだけ。
自分の持つ力もアビスの力も出てこない。
(なにも…できない…?)
時雨は悔しかった。
約束したのに、負けた。
この後自分がどうなるのかは相手の気分次第。
まず死ぬと言っていい。
もし自分が死んだら、美空はひどく悲しむだろう。それに自分の後これの標的になるのは誰だ?
何人やられる?
意識はある。
なんとか打開策を…!
でも。
どうやって?
体を動かすことはできない。
力も使えない。
考えてるだけでは何も変わらない。
自分ができることは何?
できることはひとつだけ。
吠えろ。
自分はまだ負けていないと豪語しろ。
少しでも長く、相手を自分の前にとどめるんだ。
そしてあわよくば。
ミヅハノメを感情で昇華させて打ち破る。
無理だと思って辞めてしまったら、そこで終わり。
体は反応しなくても。
ほんの少ししか効果がなかったとしても。
その時紫の光が芽生えた。
ミヅハノメとは違う暗く彩度の高い美しい雷。
氷の中を駆け抜けていく。
数千キロの氷の中を駆け抜けていくと、次第に氷は優しくちりぢりになっていった。
『!?』
六花は驚嘆する。
たとえデミスであろうと行動できなくなるこの力に対抗してきた。
相手にそんな力はなかったはずだ。
それなのに今、氷は姿を消してすべてが元に戻っていく。
消えた氷の中からでてきたのは怪物の姿。
アビスの破壊とは異なる紫の装甲。
突起はやや短くなり、巨体ではなく時雨とほとんど変わらない大きさ。
アビス「理壊」。
それは時雨がアビスに適応した姿であり、アビスが時雨に適合した姿。
雨宮が以前言っていた。
アビスへの適性が中途半端だと制御に苦しむが、ある時独自の進化を遂げると。
独自の進化に必要なのは、信念。
信念の形に適応した能力へと変化する。
時雨が決め込んだのは、六花の絶大な力への拒絶。
逆らえないのが理なら、それを壊すと。
自分が生きることと、六花を生かすこと。
このどちらかを天秤にかけて最初は戦いを挑んだ。
ここにきて吹っ切れてしまった時雨はその天秤を壊すことを選んだ。
暗い宇宙の空間が時雨の横に現れる。
時雨はそこへ手を突っ込んで、双剣を取り出す。
アビスらしい武骨なものではなく、洗練された紫の刀。
時雨の使い慣れた刀と変わらぬ見た目と形。
「まだいける…!」
時雨は叫ぶ。
六花は目の前の存在に向き直る。
そして猛吹雪が吹き荒れていく。
六花は本当はもう一度すべて凍らせるつもりだった。
だが叶わない。
出力が落ちている。
否。
時雨の「理壊」はそれを許さない。
六花の持つすべてを凍らせることのできるという理を壊したのだ。
「はあっ…!!」
時雨は切りかかる。
ほんの一瞬。
わずか一撃。
今までよりもはるかに速く六花の体を切り刻む。
ヒビの形と色が変わって、適合し、黒い部分を崩壊させていく。
六花は拒否反応を示し、氷の剣で時雨を切り払い、さらに10m以上ある氷の塊を降らせる。
ドドドド…!!
圧倒的な質量攻撃。
時雨とてもそれを捌き切れるわけではなく装甲が砕かれていく。
それでも時雨はなんとかしのぎきった。
少し前ならすぐノックアウトされてしまうであろう出力。
氷の柱が立ち、猛吹雪が視界を遮る。
激しい弾幕攻撃が繰り返されてなお時雨は立ち向かった。
「ああああああああああああっ!!!」
刀を振るった。
六花も目の前の脅威に相対し、扇刀を振るう。
激しい撃ち合いが大気を震わせる。
1秒に100回を超えるほどの速度で刀が音を鳴らす。
両者ともに引かず。
一発一発には多大なエネルギーが込められていて、衝撃波だけで氷が吹き飛ばされて氷の柱は倒れていく。
周囲から来る槍の攻撃も風圧の前ではなすすべもなく砕け散る。
時雨は完全な肉弾戦に持ち込んだ。
これだけの規模の攻撃を繰り出され続ければ負けるのは自分の方。
今の自分の身体能力ならギリギリ六花と撃ち合える。
同時に余波だけで弾幕攻撃を消せる。
「はあああっ!!!!」
時雨はさらに前に出た。
攻撃を受けようとも構わない。
装甲が悲鳴を上げて、凍てつく。
周囲の吹き飛ばされた氷。
地面が露出してなおさらに凍っている。
依然として六花が有利であり、この場の主であることを明確に示していた。
剣技においても六花の方が上だ。
普通の戦いなら時雨に勝ち目はなかった。
しかし時雨のやることは決まっている。
六花をこの黒い呪縛から解放すること。
少しでも触れていればいい。
そうしているうちに呪縛はみるみるそぎ落とされていく。
刀を振るって扇刀をいなし攻撃してはじき返していく。
同時に刀に触れれば理壊のエネルギーを流していく。
まだ!
もっと!
速く!!
撃ち合いで傷を負っているのは六花ではなく時雨。
やがて装甲はぼろぼろと崩れていき、生身の姿へと戻っていく。
当然受けるダメージは大きくなる。
いくら時雨のやることが決まっているとはいえ、このままでは負けてしまう。
相手は距離を取る。
すかさず追いかけて追撃する。
しかし相手の方が早い。また距離を離されていく。
六花も理解していた。
撃ち合う中で相手の打算を理解した。
六花はすぐに大技を繰り出す。
すべてを凍てつかせる攻撃は相手のせいで今使えなくなっている。
しかし彼女の武器はそれだけではない。
吹き荒れていた吹雪が細かくなって日の光を反射して輝き始める。
暗雲が立ち込めていたかのような絶大な冷気と氷は姿を消して、氷園も少しずつ溶け始めた。
(これは…!!)
時雨は理解した。
追撃をやめた。
周りにあふれ出していた冷気をすべて自身に溜めているのだ。
すべては確実に時雨を倒すために放たれる大技の威力を高める。
ならば、時雨も迎え撃つ準備をしなければ対応できない。
時雨も全身にアビスの力を駆け巡らせる。
駆け巡るエネルギーは以前は時雨の体を蝕む様な痛みがあったのに、今は全くない。
紫のスパークが時雨の体を包み込む。
刀にも纏わせていく。
ビリビリと大気が震える。
ゴウウウ…!!!!
しかし時雨が準備を終えるよりも早く氷の力は解放された。
凍てつく氷が時雨の周囲を円状に包み込んだかと思うと、六花から放たれたビームが時雨に直撃する。
極太のビームは円まるごと押しつぶしてしまう勢いで辺りを埋め尽くしていく。
とどまり切らず冷気は周囲の空気そのものまで凍てつかせた。
激しいブリザードが吹き荒れていくが、周囲よりも中心の方がはるかに低温に見舞われる。
一瞬ビームが途絶えたかと思うと、瞬く間に氷の荒々しい巨大な棘が姿を現した。
棘の直径は太いところで50m。
高さは300mを超えようという巨大な楔となって獲物を永久に凍りつかせてしまう驚異の技に他ならなかった。
しかし。
『ッ…!?』
六花の黒い呪縛はすべて砕け散って、美空の良く知るあの武人の姿に戻った。
ふらついてその場にへたり込む六花。
頭を押さえながら虚ろな目をしていたが、やがてはっきりと意識を取り戻す。
「…!あの子はっ…!?」
六花は即座に氷の力を解除してすべてを元に戻す。
氷のトゲの中には気を失った時雨の姿があった。
「助けてくれたんだね」
六花は激戦の後にも関わらず素早く駆け寄って時雨を抱き上げる。
(身を挺して私を助けてくれたこの子をなんとかしなければ)
武人は、跳躍した。
瞠目するほど早く、軽やかな動きで京の本陣へ向かって突き進んでいった。




