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第六部 六十一話

 翌日、まるで何事もなかったかのように時雨は目を覚まして検査を受けた。

 特段検査に異常はなかったが、様子を見に来た執事たちの計らいで念のため美空との接触は避けるように決まった。

 体は元気になったが病室は借りたまま。


 時雨はずっと窓の外の方を眺めていた。

 じきに雨が降るのかそれとも冬らしく雪が降るのかもしれない。


 遠くの空では鱗雲が漂っている。

 時雨はそれを目をこすりながら見ていた。


 ドアをノックする音。

 時雨の部屋へ訪れたのは瀬戸香だった。

 髪留めをしていないロングヘアの瀬戸香は何気に初めて見る気がする。


 普段彼女の快活さを表すようなサイドポニーテールがなくなったたことで随分印象が違って見えた。


「時雨ちゃん、ごはん。美空がせめて料理だけでもっていって聞かなくて。」

 

 瀬戸香は相変わらず元気なようだがそれでもたいそう大人しめ。

 この子は事の重大さを本能的に理解しているのかも知れない。


「…ありがとう」


 盆にのせられた食事を受け取る。

 時雨はいただきますも言わずに黙々と食べ始めた。


 瀬戸香は時雨の調子が悪いのではとずっと時雨が食べる様子を見ていた。


「時雨ちゃん…おいしくない?」


「えっ?」

 瀬戸香は時雨の様子を見て少し気まずそうに問いかける。時雨はその問いかけが予想外で思わず声を上げてしまった。


 瀬戸香は違和感を抱く。

 時雨は食べるとき幸せそうな顔をすることが多いのにただ黙々と箸を動かして咀嚼しているだけ。


「いや、おいしいよ」

 時雨は乾いた笑顔を作る。

 瀬戸香はそ、そう…と言って黙ってしまった。


 時雨ちゃんは何か隠してるんじゃないか。

 それはほぼ確信に近かった。


 でも瀬戸香は聞くことができなかった。

 大抵距離感とか雰囲気をぶち壊してしまう。

 そんな瀬戸香が相談役になんてなれると思わなかった。


 執事の様子を見ても決してこれは軽いことなんかではないと悟っている。

 むやみに詮索するのは怖くてできなかった。


 そのまま無言のまま時雨は食べ終わって、瀬戸香もそれを見届けてから病室を去る。


 一段と冷え込んだ空気が病院の廊下に立ち込めていた。


 ――――


 「教官」

 道場で弟子の指導をする合間。

 草薙が一息ついている時に時雨はやってきた。


「体は大丈夫そう?」

「それなんですけど…」


 草薙の問いに対して時雨は少し困った様子で説明を始めた。


 ――――


 そうして数週間時雨はしばらく京には滞在しなくなった。

 本人も体の異変を感じ取っているようで、だからこそ美空に危害を加えないようにと距離を離すことに。


 しばらくの間かつて訪れた山荘に滞在することになる。


「…」

 

 山荘の姿は本当に変わらなかった。

 しかしその周りの木々は葉を落として寂しい枝と幹が剥き出しになっている。


 松の木は鋭い葉を残しているが硬く固まってしまい、寒さに耐えるべく動きを最小限にしているかのような状態だ。


「あ、久しぶり」

 山荘の玄関の前で庭の様子を見ているとるぅが声をかけてくれる。


 や、と軽く手のひらをこちらに見せてくれた。

 るぅも相変わらずのようだ。


「…匂いが変わったね。時雨。」

「…そう…なのかな」


 時雨はるぅの言葉に驚いて自分の匂いを嗅ぐ。

 普段匂いなんて嗅がないからそもそも匂いが変わったのかはわからなかった。


「くさい…?」

 時雨は心配そうに尋ねる。


「ちょっと独特の香りが」

 時雨はちょっと気まずくなった。

 多分独特な香りと言ってくれてるのは気遣いだろう。


 普通の京人に輪をかけて鼻の利くるぅのことだ。

 ほかの人が感じなくても匂いで感じてしまうことがあるんだろう。


「お風呂…借りるね」

 時雨は急いで中に入っていった。


「…多分洗っても取れないんじゃないかな」

 もう時雨の耳には届かないだろうからただの独り言に過ぎない。るぅは心配そうに時雨を見送った。


 ――――


 それからさらに数日が経った。

 山荘には何度か怪人が向かってくるようになったらしい。


 恐らく山荘も脅威の一つとして数えられているんだろう。


「はああっ!」

 時雨は山の中を縦横無尽に駆け回り、多くの怪人を屠った。


 そのなかには等級5は余裕であるような怪人も多く、時雨の消耗具合はそこそこ。


 圧力に水流操作を駆使して怪人を斬り刻んだ。

 ばらばらになった怪人は時雨の移動した場所にごろごろと転がっている。


「ふぅ」

 周囲の気配がなくなってから時雨は額の汗をぬぐう。冬だから汗は出にくいはずなのに運動量の多さで汗が噴き出してくる。


「時雨、本当に大丈夫?」

 近くで作業をしていた雨宮が声をかけてくれた。

 無表情だが珍しく声色にだけ感情が乗っている。


「…大丈夫です」

 時雨は一息つき終わってもう一度あたりを警戒し続けていた。


 (やはり様子が変だ。以前は怪人相手でも斬るということはしなかったのに今は何の躊躇もなく斬っている。)


 それに前なら雨宮が近くにいるときは安心していることが多かったはず。それだけ雨宮を信用していたということでもあるだろう。


 それでも警戒を怠らないのはある意味防人としての成長とも思えなくもないが、今ばかりは素直に喜べない。

 

「時雨、一旦…」


 ズン!!

 重い音が下から突き上げるように響く。

 雨宮が驚くと同時に時雨は飛び上がって低い姿勢で着地する。


 そのままかなり警戒しているように見えた。

 まるで野生動物みたい。


『おごごご…?』

 背後からいきなり不気味な声が聞こえる。

 2人はそれまで一切接近に気が付かなかった。


 振り向いた先にはぽつんと一人、怪人が立っている。緑色の体に発達した後ろ足。背中に入った一筋の茶色いライン。


「…イナゴ?!」

 時雨は驚愕する。

 真冬のこんな時期にイナゴの怪人。


 しかも明らかに呆けたように首を傾げて突っ立ってるというのに全く隙がないと感じた。

 複眼もどこを見ているのかさっぱりわからない。


 時雨が困惑している間もなく雨宮は即座に動く。イナゴの首筋に寸分違わずナイフの一撃を叩き込む。


 ナイフの刃が首の皮を裂き、筋肉にぶつかった瞬間。


 ぐりんっ!と首をもたげた。

 今までの呆けていた様子が嘘のようにはっきりとした動きを見せる。


 ここにきてどこを見ているのか定まらなかった複眼の中央の黒い点がはっきりする。


「っ!!」

 雨宮は本能的に恐怖を煽られる。

 時間操作を自分に適用し、周りから見れば瞬間移動にしか見えないほどの速さで動いた。


 しかし。


 既にナイフがイナゴに触れた時点で手遅れだった。


 イナゴの怪人がぶれる。


 目にもとまらぬ速さで雨宮へ膝蹴りを繰り出す。

 雨宮と同じ、もしくはそれ以上の速度で。


「がはっ…!!?」

 雨宮は堪らず血反吐を吐く。

 雨宮がそのまま宙に浮いている間に怪人は次の目標に目を付けた。


 時雨。

 時間に関連する力を持たない以上怪人の姿を目に捉えるのは困難だ。


 時雨が認識する間もなく怪人は時雨の腹を穿った。


 筋肉質な腕が時雨を串刺しにした。

 アッパーの形を取ったまま天へ掲げられた腕から水がしたたり落ちる。


 それは深い青色の液体だった。

 ぽたりぽたりと滴るその液体が不快だったのか怪人は腕を横に振って時雨を吹っ飛ばす。


 近くの木にぶつかって力なく落下して横たわる時雨。

 深い青の海が山の一端に広がり始めていた。


 ――――


「ここは…」


 時雨が目を覚ますと不思議な空間にいた。

 薄暗い床に投影される海の姿、山の姿。


 それはまるで映画館や科学未来館の展示の姿のようであったが、あいにくそれらを知らぬ若人にはそれが例えとして出てくることはなかった。


 木で作られた椅子に座った状態の時雨は薄ら目を開けて驚いた。

 まるで鎖で拘束されたかのように体は動かず。


「やあやあ、ようやく会えたね」

 そこへ一人の人間が歩いてきた。

 否。それは人間でもなくましてや京人ですらなかった。


 魔神よりも遥かに大きな存在。

 それはまさしく星。


 透き通るようで深みのある海のような青い髪。

 そのなかには雲のような白が混ざり、深い緑も混ざる。

 砂漠のようなクリーム色も。


 地下深くで胎動するマグマのような赤い目が他の色と大きく異なっていて目立つ。

 なんとも美しいと思わせる存在だった。


「アビスの力を与えてから長いこと眠らなきゃいけなくて、全然ご挨拶できてなかったのはごめんね」


 地球(ガイア)は、くすりと笑った。


「…!!」

 時雨は目を見開く。

 自分には記憶がない。

 なぜアビスの力をいつから、どこで手に入れたのかも知らない。


 だからこの地球(ひと)を知らない。


 でも感覚だけは妙に馴染んでいる。

 それが自分を生み出した存在であると。


 それは水の民としての感覚なのかアビスとしての感覚なのかは分からなかった。


「全然適応できてない感じだね。困ったなぁ、デミス戦のマスターピースは破壊の権能だけなのに」


 からからと笑う地球はまるで少女みたいで、でも同時に得体の知れない存在でもあった。

 自分にもホシという脅威が迫っていながらもなぜか陽気。まるで達観しているみたいな感じ。

 

 里長を前にした時と似てはいるが彼女以上に目の前の地球の存在は大きかった。

 時雨は声を出せない。

 それがアビスとしての未熟な状態の証。


 地球の内側にあるその空間において時雨の体は未完成でしかない。

 外側はできていても中身が伴っていないから動くこともできず。


「もう一人破壊を増やすのは体力的にも無理だしなぁ…うん、君(・)が(・)頑(・)張(・)っ(・)て(・)」


 地球はひとりでに何かを言いながらとうとう勝手に決めて時雨をへ一つの玉を授ける。

 それは深い闇の中に暗い青の光が瞬く何かであった。

 

 そしてそれは時雨の体の中へすぅっと入っていった。


 「~~~~~~!!!!??」

 時雨は声にならない声を上げる。

 体全体が悲鳴を上げた。

 激しい痛みと拒絶。

 あるいは耐え切れずに焼き切れていく感覚。


 空間の中で急速に自分の体が構築されていく。

 空間はじきにふわりと姿を消していった。



 ――――


「ぐっ…!!」

 雨宮はイナゴの怪人のラッシュをなんとか防ぎきって見せる。

 正直なところ時間に関係する力を手に入れられた以上は雨宮が劣勢と言って間違いない。


 相手の力は能力コピー。


 力では完全に負ける。

 能力なしの素早さで勝っているが、それでも余裕はない。


 苛烈な拳の連撃に手を焼く。


「ふんっ!!」

 雨宮はナイフでイナゴの腹を裂く。

 ほんの一瞬だけ時間の流れを自分だけ速くする。

 

 それにより雨宮は連打を潜り抜けて接近できた。


『ギャゴ…!?』

 イナゴは予想外の動きに対応できず悲鳴を上げる。

 体内から勢いよく緑色の体液が流れ出る。

 もはや滝のような量。


 雨宮はイナゴの血流だけに加速をつけた。

 だからここまでの体液が噴き出す。


『グッ…ゴッ…』

 イナゴもそれに気が付いた。

 手で患部を押さえて時間操作をかけ直す。

 すぐに傷は塞がって体液の流出を防いでしまう。


 雨宮がさらに追撃を加えようとしたその時。

 深淵の咆哮が響き渡った。


 音を本体とした衝撃波が山の中を駆け巡る。

 それは周囲にある木の枝をいとも容易くへし折り、朽ちた木を豪快に張り倒す。


 雨宮も思わずそれに弾き飛ばされた。

 イナゴの怪人も迫る雨宮に対応しようとしていたから対応できずふっ飛ばされる。


 衝撃波の中心地に怪物は立っていた。

 特に何の格好をするでもなく立っていた。


 以前よりも刺々しさを増した青の突起。

 体はより大柄になっただろう。


 雨宮は瞠目した。

 時雨の変貌具合に。


 アビスを知る彼女だけが瞠目した。


 『ゴゴ!』

 他方、怪人は知らない。

 突如として邪魔に入った相手に目標を変えた。


 時間操作を使って加速した怪人が怪物に拳を叩き込もうとしたその時。


 顔にある青いクリスタルが光り、瞬時に少し俯いていた顔を上げた。


ゴン!!


 拳が怪物にぶつかった瞬間に破壊の力が作動する。

 本来生じるはずだった激しい衝撃音を無音がかき消してしまう。


 破壊の力は怪人の力へと伝わり、まず時間操作を破壊した。


 瞬時に動きが遅くなる怪人。

 激しい痛みに空中で藻掻く。


 怪人が地面に着地するまでにはほんの僅かな時間もあれば十分だった。


 しかし怪物にとってそんなことは関係なかった。


 空中にいる間にさらに拳を叩き込む。

 音がしなかった。


 しかしそれは確かに強烈な一撃で間違いなかった。怪人の外骨格が簡単にへこみ、体液が噴き出す。


 少し押し出された怪人の体は上へ。


 手が届かなくなる前にさらにもう一発。

 暗く青い光を宿す拳は先程よりも高い威力で放たれる。


 怪人の首が飛んだ。

 首が地面に着地する前に、既に亡きものとなった怪人の胴体へ3発目の拳。


 怪人の体に風穴を上け、腕で串刺しにする。

 太陽の光がその残酷な光景を高らかに照らし出した。


 体液が滴る。

 しかしその体液でさえだんだんと粉々になって消えていく。


 怪物は腕を横に振って乱暴に亡骸を地面に放り出した。受けた返り血とも言うべき緑の液体は怪物の体表で消滅していく。


 怪人を処理した怪物の目標はすぐそばにいた雨宮へ標的を変える。

 いきなり雨宮の方へ振り向いて走り出した。


「!!」

 雨宮は青ざめる。

 一切の容赦のない確実に相手を屠るための戦い方。

 暴走にありがちな野性的な行動ではなくいかに効率よく相手を殺すかに特化された理性の暴走形態。


 雨宮は駆け出した。

 今の時雨が具体的にどうなっているのかは分からない。

 しかし今の様子を見て即座に戦ってはならないと確信を得た。


 時間操作を自分にかけて高速で逃走する。


 怪物は追いつけないと理解するや否や地面に拳を叩きつけた。

 今までよりもはるかに強い破壊のエネルギーが地面へと伝わり、あっという間に地面を崩落させる。


「なっ…!?」

 雨宮は驚嘆した。

 すぐに自分の足場どころかはるか遠くまで底の見えない峡谷となる。

 当然雨宮は落下した。


 踏ん張る地面のないこの場所では雨宮は高速で動けない。

 怪物はそれを狙ったようだ。


 雨宮からすればこの規模は予想外。

 これだけの体積を破壊するのにいったいどれだけの力が必要か。


 暴走していることを加味してもこの威力は予想外。


 そして驚嘆する雨宮へ怪物はすぐに迫って来た。

 落下する岩や地面、巨木の中に紛れて怪物の足が確かに雨宮の首を捕らえた。


 ――――


「…!?何の音?!」

 地面が崩落する振動にいち早く気が付いたのはるぅ。

 一切の音も響かずにその崩落は起きた。


 すぐに家から出て外の様子を確認する。

 外には冷たい風が吹いていた。


 「!!」

 るぅは周囲の異変に気が付く。

 多くの気配。


 近くの木の陰から数多く躍り出る影。

 それは何万という数のイナゴの怪人だった。


「…嘘!!」

 るぅはあまりの数に驚嘆し、すぐに家に飛び込む。この物量をまともに相手にしたら押しつぶされるだろう。


「おじき!!すぐに京に救援呼んで!!!」

 珍しくるぅが声を張り上げる。

 状況を把握していたらしい高屋はすでに連絡を付けていた。


「こちら高屋!すぐに救援を頼む!空を埋め尽くすような数の怪人が来た!」

 通信の先でも騒動が起きているようだ。

 

 外野の声がかすかながら入ってくる。

 受領をしたという声の直後に悲鳴が響き、通話が終わる。


「!!」

 高屋は冷や汗を流した。

 まさか京でもこいつらが暴れているのではないか?!


 もしそうだとしたら簡単には救援を呼ぶことはできない!


 バリバリ…


 建物がきしむ音が聞こえた。

 怪人は建物を文字通り食っている。


 この数に音からわかる食べる速度。

 残り20秒も持つまい。


「るぅ!頑丈なものの下へ隠れろ!」

 高屋は声を張り上げた。

 周囲はイナゴ立てる音にかき消されて、届いたかどうかも分からない。


(時雨…!!)

 高屋は孫を案じる。


 無事でいてくれと願った時、建物は勢いよく倒壊した。

 

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