短編 暖かい家
ここで短編を挟みます。
あのキャラクターの謎が少しわかる短編です。
少し離れたところを台風が通るその町の空は、風に流されてころころと空模様を変えていた。
たびたび日が差しては陰り、電車の窓から見える景色を妙に温かく照らす。
高い電波塔の周囲を回る橋の上を大きな音を立てて流れていく電車は、メタリックな銀色の箱。浴びたぽかぽかとした暖色の光をぎらぎらと反射する。
暑さはずっと厳しい。もはや真夏と何ら変わらない暑さは日が西に傾いても体の水分が蒸発する感じがよくわかるくらいであった。
都心よりも少し離れただけのアスファルトに覆われた街はゆらゆらと空気を揺らしている。
薄いガラスの屋根に覆われたホームに風と共に入り込んだ電車は、中にいる人を揺らしながら定位置に止まった。
1拍おいてプシューっという音を立てて開かれたドアから、一気に温風が車内に吹き込んでくる。
そんなことにわき目もふらずドアに歩いていく汗ばんだ黒い背中を眺めた田舎者は、見慣れぬ景色に驚きながらもその後ろを歩いて暑苦しい空気に出迎えられた。
「すごいや…」
初めて見る高層ビルに大きなスクリーンは本当に驚くばかりだと思わず声を漏らす。
漏れ出た声はがやがやとした声か音か分からぬ周囲の音に紛れて消えていった。
右も左もわからぬまま標識に従っていった先の改札の向こうには、光る写真を背にたくさんの人が立っているのが見える。
人間とはこういう生活をしているのかと噂にしか聞いたことのない光景を目の前にして、田舎者は西日に当てられた首元まで伸びた髪をなびかせて歩みだす。
西日が赤いからだろうか、蒼く見えるはずの髪は今は紫色に見える。
「ユッキ」
一人休暇をもらって各地を放浪する時雨を呼び止めたのは見知らぬ夫婦であった。
歳は中年少し手前といったところであるその夫婦は、「ユッキ」という息子か娘かの名前を呼んで反応しなかった時雨の腕をすっと、優しく掴む。
「おかえり」
少しぽっちゃりした妻の方が涙ぐんだ瞳でこちらを見ている。
時雨は何がなんだか分からない状況に困惑しきっていたが、その「ユッキ」という子が帰って来た喜びを涙ながらに噛み締めている夫婦から離れることはできなかった。
帰ろう、帰ろう。そう手を引いてくれる夫婦に逆らうことはできなかった。ただ何となく一緒に帰りたい気がした。それがなぜなのかはわからないけれども。
握られた手が温かい。
自分にも親がいたらこんな感じなのだろうか。
温かいようで胸が締まる気持ちを抱えながら、時雨はもうすぐ沈み始めるだろう遠くの西日が眩しくて目を細めた。
こんなに喜んでいるのなら、少しの間だけでも「ユッキ」として一緒に「家」へ帰るべきなのだろう。しかしどちらかといえば自分の行動でこの二人を悲しませたくないからかもしれない。
――――
こじんまりした家だった。
コンクリートの背が高い塀に囲われた小さな日陰の庭に光沢のある深緑の葉が見える。
椿だろうか?小さな花壇と庭と比較すると目を引くくらい大きい。
時雨の身長の倍は軽くあるだろう。
その木を横目に見ながら二人に連れられて玄関の前に立つ。
薄い橙色のレンガで作られたほんの2段程度の階段の上で、夫の方が鍵を開ける。
右側に開いた扉の奥の白い壁に明るい色の木でできた床とドアが見慣れた日本家屋とはまた違う温かみを持って時雨を迎えてくれた。
靴を脱いでみんなで揃えて端に寄せる。
ただそれだけのことなのにぽかぽかとした気持ちになる。
「ユッキ」もそうだったんだろうか。
「ユッキ」は今どこに行ってしまったのだろう。
そんな考え事をしながら、知らないようで何か懐かしさを感じる廊下を歩いて夫婦と共に居間に移動する。
二人用といっても差し支えないくらいの小さな家の居間はいわば3LDKという形であった。
縦長の部屋の奥を仕切るようなキッチンの配置は、時雨の良く知る配置とはまた違って随分と新鮮だ。
キッチンの手前に置かれたおそらく4人用くらいの木テーブルの右側には大きな窓があって、すっかり暗くなった外の景色は内側の温かい光を反射するガラスに阻まれてよく見えなかった。
帰ってすぐなのにすぐさま夕飯の準備にとりかかった男はキッチンに立って料理を始める。
ザクザクと包丁を使う音はずいぶんと手慣れた音を鳴らす。
流石に勘違いされているだけなので時雨は作らせるのは悪いと思って手伝おうとするが、「せめて今だけは休んでおいて」と優しく断られてしまった。
いいとは言われても気にしてしまう性格の時雨は椅子に戻って、部屋の中を見渡す。
基本的には木を使ったインテリアが多い部屋の中は、少しオレンジがかった照明の光も相まって眩しくも優しい光景を作り出している。
少し年季の入った木製の縁のふりこ式壁掛け時計。おそらく誰かが手作りした明るい木目調の棚。
その中にはいくつかのヨーヨーや雪だるまのインテリアが寂しげに顔をのぞかせている。
じゅーっという音を立てて玉ねぎの匂いが鼻に入ってくる。
それと同時に奥さんが声をかけてくれた。
「せっかく帰ってきたんだから今のうちにあなたの部屋に戻っててもいいのよ。宝物はちゃんと保管してあるから。」
そういわれて、少し「ユッキ」が大切にしていたものが気になって見に行くことにした。
決して触れないようにと誓いながら、おそらく2階にあるのだろうその部屋を目指す。
階段は少しぐるっと回るような構造になっていて、階段の上だけはひと際天井が高かった。
ひらひらとした曲線を描く照明器具に少し目を奪われながら、階段を上り切ったところで3つの部屋のドアが見える。その中から右側に一個だけある部屋のドアを開く。
玄関と同じ右に開く扉の向こうには、居間の半分くらいの大きさの小さな部屋があった。二段ベッドが右奥にあって左側は大きな窓。
おもちゃがプラスチックのケースに詰め込まれていて、持ち主が戻るのを待ち続けているように見えた。
電車を模したおもちゃが逆さまになって車輪が上を向いているのが、どこか寂しげな雰囲気を帯びている。
そして一番目を引くのは真正面の壁に掛けてある狐面である。
白基調に細長い紫色の色が入った面。
時雨はこの狐面を見て初めて気付いた。
ここは冬樹の家だったのである。
高谷の山荘にいた自分そっくりのその少女(自分の片割れ)は、自分のことを多くは語らなかった。
きっとこの夫婦に大事に育てられていたのだろう。どういう経緯でここを出て行ったのかは定かではないが、そのことだけははっきりと窺えた。
夫婦がなぜ自分を呼び止めたのかここで初めて合点がいった。
「ごはんにするよー!」
時雨を、いや「ユッキ」を呼ぶ声がする。
「ユッキ」は、はぁいと大きな声で返事をして、ハンバーグの匂いを辿るように階段を駆け下りていった。
—-
「ユッキ、もう行くのかい?」
温かい家族の空間に包まれた夕食を食べて布団のぬくもりに川の字になって包まれて。
夜はあっという間に過ぎていった。
すごく久々に感じた快眠の後、時雨は朝日が街を照らし始める頃に玄関口に立っていた。
この家は居心地が良かった。一度気を許しすぎたら戻れなくなってしまう様で恐ろしいくらいに。
でも、少なくとも時雨にはそうできない理由がある。立ち止まる時間はない。
「うん。またしばらく戻れないかもしれないけれど…」
振り返って夫婦に答える「ユッキ」は、まだ赤みを帯びた朝日に照らされた髪を揺らす。
少し髪が伸びているのだろう。少し目にかかり始めた前髪を指でのける。
「いつでも帰っておいでね。ここで父ちゃんと母ちゃんが待ってるから」
優しく微笑む二人の姿を名残惜しむように何度も振り返りながら、京への帰路を進む。
一直線に伸びた駅までの道はしばらくの間温かいつながりを保ってくれた。
きっと小さな庭の椿は冬になれば綺麗な花を咲かせているのだろう。
白か赤かは分からないけれど、あの椿が咲くころにまた帰ってきたいものだと時雨は心の中で考えていた。
――――
駅前のビル風は相変わらず熱風であった。
それでもかすかに秋らしい香りを運んできはじめている。
もうすぐ季節が変わるのだろう。
そのように感じさせる風の香りと共に駅の中を進み、京に比較的近い方面の電車を探す。
今度は山吹色の少し年季の入った電車がホームの空気を押して目の前に現れる。
そして皆昨日よりも人の多い電車に乗り込んで人工的な冷たい空気の中に入っていく。
時雨は電車に揺られながら温かい夫婦のことと、そして今まで存在を感じさせていなかった冬樹のことを思い返している。
ある程度昇ってきた太陽が、窓越しに眩しく時雨を照らしていた。




