第三部 二十五話 碧
もこもことしたシュークリームみたいな形をした雲が、青い空を背にゆっくりと流れていく。
日差しは少しずつ高くなりつつあるも、まだまだ朝の時間帯。
しかし真上の空とは対照的に、西の空はかなり厚い雲に覆われて黒く染まっている。
(もう夏になった…そんな感じだ)
時雨は日の出とともに起きて自邸の掃除を終わらせて、一息ついているところだった。
時雨は縁側から空を見上げてふっと息を吐く。
今回は初めて会う人とバディを組む日。
(もうみんな階級上がってるんだっけ)
時雨が山荘に行って修行している間、ほとんどの同期は黄色から緑の階級へ昇格していた。
緑の階級以降はそれまでと比べ昇格が大変になるとのウワサだが、時雨はその度合を想像することしかできない。
当然と言えば当然だが同期に比べて時雨は少し出遅れているわけである。
しばらくは一緒には組めないだろう。
しかも風の噂によると後輩の霙が急成長して緑の階級に上がっているらしい。
後輩に完全に追い越されてしまったということもあって時雨は驚いていた。
ただ今回の遅れはあくまで修行で任務から離れていたからというもの。
修行で身に着けたものは大きく、完全に出遅れているわけではないはずだ。
雨宮に教えてもらったアビスの制御。
そしてもう一つは冬樹から教わった…
「すみませーん」
玄関の前で声がする。
快活な女の子の声。
「はあい」
時雨はすぐに家の内側から回り込んで玄関から出迎える。
玄関の横開きの扉を開けて視界に飛び込んできたのは暗い赤色のツインテール。
ピンク色の大きな玉のような髪留めをしている。
若干ツリ目気味の目に。瞳は蒼くてぱっちりとしていた。
濃い黒の軽装の姿で腰回りには短刀が備えられている。
(かわいい)
これからバディを組むことになる後輩の榊原 碧さんだ。
霙とは同期だったようで、途中から置いて行かれてしまったらしい。
時雨は彼女の経歴を役所で聞いた時に自分とは少し似た境遇の彼女には少し親近感を抱いていた。
家に一旦上げてから縁側で少しのお茶菓子でもてなしつつお互いの自己紹介を済ませた。
「時雨さん…ってやっぱり脱走したことで有名な…?」
「あ…うん。」
お茶を飲んだ後、彼女が発した言葉に時雨は言葉を詰まらせるしかない。
いきなり脱走したとなればウワサになるのは当然のことだろう。
それで有名になってしまっては困ったものだがこれは自分が悪いとしか言いようがない。
しょんぼりしている時雨の様子をじっと見ていた碧はなんとか気まずい空気を紛らわせようとキョロキョロした後、ふと質問を投げかける。
「その狐面…不思議な感じですね」
時雨が脇に置いている白と紫の狐面。
これは以前山荘で冬樹にもらったもの。
碧が言及した通りこの狐面は霊力とそれに似た何かを内包している一風変わった品である。
「あ、これね…大事なものなんだ。」
時雨は傷つけないようにそっと狐面を持ち上げて親指で撫でる。
狐面のチェックが終わった後時雨はこの狐面を襲に収納する。
この狐面は戦闘においても重要な役割がある。持って行かない手はない。
――――
その後はいつも通り京の奉行所に行って、書類を確認して出発する。
今回の目的地は久々の御影山。
前回と同じくふもとの探索。
かつては異常事態につき剣が小さくない怪我を負った場所だ。
(剣は今元気にしているだろうかな…?)
かつて訪れた場所について時雨は上を見上げる。
視界は相変わらずほとんど葉っぱに覆われていてさらさらと風に揺れている。
今にも雨が降りそうな空気。
森の中の湿っぽい空気も相まって少し蒸し暑かった。
小さなリスがたかたかと軽やかな足音を立てて付近の樹上を動き回る。
ミカゲシロスジリス。
京近郊と、御影山に生息する霊力を宿したリスの仲間。
周囲の変化に敏感かつ警戒心が非常に強い。
聞いた話によると捕まえるのは困難を極めるそうだ。
クルミの仲間の実が大好物であることは普通のリスと共通している。
(すごくピリピリしてる…)
その様子を見るにどうやら相当警戒しているようだ。
警戒している時に見ている視線は時雨たちにも向いているが、いくつかは森の奥の方を見ていた。
リスはしばらく固まっていたものの一気に樹上を駆け出していく。
突如として姿を消した。
そしてわずかに遅れて風が揺らぐ。
「危ない!」
時雨は咄嗟に碧を突き飛ばした。
ズズウン…!
僅か1秒遅れて巨木が勢いよく飛んできた。
時雨は液状化で無理やりやりすごしたためになんともない。
「…!?」
間一髪碧も勢いそのままに避けたために無事な様子だが、いきなりの出来事に相当困惑しているようだ。
飛んできたのは本当に巨木もいいところで地面を激しく抉って豪快な衝撃音を奏でた。
これほどの威力だと直撃していたら大けがどころか最悪死んでいた可能性もある。
恐ろしい威力に二人とも肝を冷やすしかなかった。
僅かな落葉とふかふかの腐葉土を踏んで森の奥から一人の怪人が姿を現す。
「「!!」」
ノコギリクワガタの怪人。
推定だがその等級は4。
かつて時雨がギリギリ生き延びることができたルリマダラカミキリの怪人と同格。
むしろ今回は怪人側に羽化直後というハンデが無いことを踏まえれば脅威度はこのクワガタの方が上であろう。
時雨はすぐ襲を起動しいつもの戦闘時の服装に着替える。
(行くよ)
襲の中に収納されていた義手と刀が姿を現す。
義手は最初はただの直方体の形をしているが、起動されることで展開して義手の形に変化する。
ガシン…!
変形は鉄曰く襲の収容スペースを余分に取らないようにとのことだった。
義手は襲の効果でしばらく浮いているが、時雨を感知すると自動で右腕の部分にくっつく。
時雨の霊力に反応して右腕に活着する。
(うん。問題ない)
家で何度も使用して慣れさせたのでタイムラグはほとんどない。
違和感なく動く新たな腕で刀を掴み、いつもと同じように構える。
怪人ははたから見てよくわからない動きを警戒して距離をとっていたが、時雨が構えると同時に戦闘態勢に入る。
風が吹くより速く両者は激突する。
ブンッ!
初っ端から容赦なく繰り出される、力強い4本の腕による連撃を時雨は液状化も駆使しながら回避する。
速く、重い攻撃の威力を感じて時雨は一層真剣な表情で攻防を続けた。
当然ミスすればそれだけで大怪我をするだろう。
風が勢いよく固まりとなって揺らぎ、足元の草を薙ぎ、切断された草は宙へ舞う。
激しい攻防の末に今まで隙が無かった怪人の腹部へようやく時雨は3連撃を加える。
だが、浅い。そして相手が堅い。
軽く傷をつけることしかできなかった。
(まだ追いついていない!)
時雨は内心で叫ぶ。
山荘で鍛錬をした後、今まででは考えられなかったくらいに向上した身体能力。
それはむしろ時雨の感覚を惑わして、体が時雨を振り回す。
今の時雨は自分で把握している身体能力と実際の身体能力が乖離しているのである。
「な!?」
さらにガサガサ、と大量のイナゴ怪人が姿を現す。軽く数は10は超えるであろう量。
流石にクワガタを相手しながらこの量は難しい。
「イナゴの方は私が行きます!」
碧が叫ぶ。
あんまりにも時雨と怪人が至近距離で戦っていたために手を出せなかったのだろう。
既に襲を起動して持て余していた碧はイナゴに向かって構える。
「ふっ!」
彼女は霙に触発されているらしく、燃えるような瞳で怪人を捉えていた。
恐らく襲の中に収納していたのだろう巨大なスパナーを振り回す。
やや彼女の身長よりも大きなスパナーは相当な重量がありそうだが、遠心力を利用して難なく振り回して周囲のイナゴ怪人を豪快に殴り飛ばす。
(任せても大丈夫そう)
彼女が大丈夫そうなのを確認できるとすぐにクワガタとの戦闘に集中する。
感覚のずれはしばらく治りそうにないのでこのまま戦うしかない。
猛スピードの肉弾戦を迫られる時雨は無理やりにでも食らいついていく。
液状化で軸足の足首の関節の可動域を無視して、強引に回し蹴りを叩き込む。
ドン!
脇腹にヒットするがやはり当たり方が良くないのだろう。
あまり効いている様子はなく少し後ろに動いた後再び突撃してくる。
(すごく強い…!でも、なんだか落ち着いてる)
外殻も腹筋もその硬さは異常。
例え前の時雨が切りつけたところで本当にかすり傷しかつかなかったことだろう。
『~~!?』
時雨はダメージ覚悟でクワガタムシを蹴り飛ばす。クワガタムシは勢いを殺しきれず十メートル近く後退して転んだ。
時雨は転んだ瞬間を逃さず刀を変化させて拘束する。
刀は一旦右の義手で持ってそっと襲を起動する。
「行くよ…冬樹」
左手で襲から取り出すのは狐面。
時雨が狐面を被ると同時に側面についていた紐がするするっと自ずから結ばれる。
時雨の髪の先端がすぅっと紫色に変化した。
時雨が使えるようになったのは冬樹と同じ圧力。
両手で片方ずつ刀を持ち直して、刀の柄伝いに適応させることで刀身が振動を帯び熱が蓄積する。
怪人は束縛から抜け出して上に飛び上がった。
「ふっ!」
勢いよく刀を鞭のように振るう。
バチイィィンと激しい音と共に怪人を穿ち、撃墜する。
地面に落ちて来た怪人は悶えるように転がった。
圧力をかけることでより勢いよくそして熱く攻撃ができる。
これにより今までよりも飛躍的に火力を上昇させることができるのだ。
今までならすぐにガス欠になりかねないが、霊力の総量が多くなったおかげで複数の能力の同時使用でへばることはなくなった。
(行ける!)
それに相手の堅牢な外殻を強引に削り取ったおかげで攻撃が通るようになる。
イナゴを多く爆散させる碧を背に時雨は怪人に立ち向かう。
ザザ…
紫色の髪が、風に揺れる。
怪人も怯まずに迎え撃つ。
「はああっ!!」
相手の攻撃や速度はほとんど変わらないから油断は禁物。
時雨は自身の身体に圧力をかけて身体を熱くする。
体の熱さ相応に身体能力が上がった。
圧力を空気にも適応しジェットのように推進力を得る。
圧力といつもの能力を併用することによって単純な身体能力の強化も可能となった。
さらに感覚のズレが広がるという問題点もあるが、等級4の怪人相手にも余裕が生まれる。
突進して切り刻み、怪人の拳を上昇して避けて再度空中で急発進して斬りつける。
一番上昇したのは間違いなく機動力だろう。
今までになかなか実現できなかった動き。
『…ッ!!』
怪人は次第にダメージを蓄積し、防戦一方になり始める。
圧力は液状化と水流操作を併用するよりも急発進がやりやすいので、3次元的な動きで怪人を追い詰めていく。
(決める!!)
時雨は再度急上昇し、降りる際に縦に回転して勢いをつける。水流操作も加わった回転エネルギーを怪人に思いっきりぶつけた。
今の時雨の渾身の一撃はクワガタムシ怪人を一刀両断した…かと思えば、全然斬れた感じではなくシンプルな打撃に終わった。
しかし威力は十分だった。力なく倒れた怪人に時雨は静かにかるたを刺す。
怪人がかるたに吸い込まれていく。
碧もあれだけたくさんいたイナゴ怪人を片付け終わったようだ。
後輩も後輩で相当強いようだ。
イナゴの怪人は等級2と2体だけ3の個体がいたが、時雨が加勢するまでもなく片付けてしまった。
「先輩…すごいですね。」
時雨の動きを見ていたらしく碧は目を見開いていた。
「いや…僕はまだまだだよ」
時雨は苦笑いする。
美空の顔が浮かんだ。
美空も今どうしているんだろう。
あまりにも怪人の数が多いので碧の持っているかるたでは足らず、時雨もかるたを使って吸収するのを手伝う。
「あれ、もう降ってきた…」
碧が掌を上に向けて雨粒を受ける。
怪人を倒したのを確認して京に帰る途中雨が降り始めた。
最初はぽつぽつといった弱い雨だったけれどもだんだんと雨足が強くなっていく。
ざあざあ…
静かだった森の中はやがて大きな雨音に包まれていく。
2人は走って京まで帰った。約5分ほど。
道中の雨は水流操作でしのいで、なんとか2人共濡れずに帰ることができた。
雨の日の京は、いつも多い人通りが少なくてちょっぴり寂しげだった。
しかし雨の日に少しだけ行き交う人々の頭上に咲く和傘は雅に視界を彩る。
――――――
その翌日には人間の町の内、海辺に位置する場所に赴くことになった。
人間の里に入ってすぐ駅から電車に乗って目的地に向かう。
「せ、先輩、こっちです」
「あ、ごめん!ありがとう…」
大きな人だかりに、見慣れない鉄筋コンクリートの建物は2人にとって新鮮そのものだった。
廊下にあるモニターに大きな窓。
向こう側に見えるギラギラと太陽光を反射する街並み。
2人はずっと目を泳がせている。
やがてホームに入ってくるほぼ真っ黄色な四角い電車の姿に圧倒された。
そして窓から見える内側の様子に2人は目を疑った。
電車に乗ればぎゅうぎゅう詰め。時雨と碧は窓に押しつけられるような形で電車に揺られる。
「え、これが普通なの…?」
周囲の人は何も言うでもなくぎゅうぎゅう詰めの電車という箱に揺られ続けていた。
「…みたいだね」
――――
乗った駅に比べて到着した駅の規模は小さかった。
3番線から降りて、改札を出てすぐもう海が見える。
鈍色の空の下、コンクリートで覆われた港の姿が眼前に広がっていた。
大小様々な何個もの船が出入りしていると聞いていたが今日はあまり行き来していない。
大きな船が港に停泊しているだけでそれ以外は閑散としていた。
海から回収したゴミを集めて作られた魚のオブジェクトだけがその港に佇んでいる。
海の上はほとんど風を遮るものがないものだから潮風は強く2人に吹き付けてくる。
港にある大きな駐車場も今日はひどくガラガラであった。
(流石に人が少ないね)
電車がこの駅に着く前2人を除いてみんな降りてしまった。
この港で怪人の目撃情報が出てから観光客は踵を返し、地元の人は家からあまり出られない状態となっている。
なにせ昨日の間に4人ほど食われて死んだらしい。
自治体の方も住民には外に出ないようにと勧告を出している。
「時雨さん、これ…」
コンテナの後ろを見ていた碧は時雨に指さしてみたものを伝える。
大量の血の跡と肉片。
恐らくは興味本位で近づいた人間が殺されたのだろう。
怪人を目の前にしては逃げることも戦うこともできない。
「…ひどい」
持久力以外の身体能力が軒並み低い人間では取れる手段などほとんどないのだ。
熊とか大型の動物ならある程度戦えるかもしれないが、そもそもぶつかり合うこと自体メリットがないからそうそう戦おうとするまい。
この死体を何とか弔ってやりたいところだが、下手に触って死体遺棄されたと勘違いされては敵わない。
自分たちがやるべきことは怪人の姿を探り、討伐することだ。
「周りに特に気配は…」
周囲はとても見晴らしがいいため、目視で確認できてもよさそうだが怪人姿は見当たらない。
しかし京人の聴覚がわずかな音を聞き取る。ところどころにある芝生の上を何かが歩いた音。
忍び足をしているのだろうが、草のせいで音が立っていた。
「!!」
音源は後方のコンテナの後ろ。
ひとまず不意打ちされないようにコンテナから離れて開けた場所に移動する。
相手もこちらの動きを察知したらしくコンテナの上に登って姿を現した。
曇り空越しの日差しを背に現れた怪人は、猫。
『フシャア…』
白黒の模様でずんぐりむっくりの体。
怪人らしく2足歩行であるようだ。
『ニャアゴ…?』
首をもたげてこちらを見た後、柔らかい動きでコンテナから飛び降りてくる。
怪人は少しの間こちらを観察していたが靭やかな動きで襲いかかってきた。
「っ!!」
比較的小さいながら鋭利な爪。
狙われたのは碧。
素早い動きゆえに避けきれず、首元の皮膚が裂ける。もう少し深ければ喉笛に基づいていたかもしれない。
(あっ…危ないっ…!!)
ひやりとする碧は身を翻し、スパナーを襲から取り出す。
いきなり大きなものが出てきたので怪人は大きく後ろにバク転で跳躍する。
『ニャア…』
一度距離を取ることに成功したので碧は能力を使用する。
彼女の足元を中心に複数の赤い円が展開した。
円から吹き荒れるほどの風が吹き、髪が持ちあがる。
瞳が赤に、髪が蒼へ。
同時に彼女の周りを赤い光が漂い始める。
「爆光」
彼女の能力だ。
彼女自身もしくは彼女の持つ武器にこの爆破の力を持つ光が付与される。
爆破の単純な威力はもちろん、代謝を上げることで赤からピンクへ変化して能力の底上げがなされるようだ。
準備ができた碧はネコの怪人へ攻撃を仕掛ける。
「せいっ!」
大きな掛け声とともにスパナーを振り回す。その軌道上に赤い光がまばらに広がった。
あまりにも勢いがいいので猫の怪人も慌てて跳躍して回避する。
だが怪人が飛び跳ねた時に生じた風に乗って赤い光がついて行く。
ドオン!!
怪人の身体に付着し、数秒の後に爆発する。
意外にも音自体は大きくないがその威力は十分。
衝撃で飛んでいった怪人はぶすぶすと焦げた身体を手で擦っていた。
『フゥーッ!』
たった一回の動作に付随する能力でここまでダメージを通せる辺り、強力な能力であることに疑いはない。
しばらく横方向ににじり歩いてこちらの様子をみていたが猫怪人は相当警戒してか逃亡を始める。
「!」
その様子を見て時雨も碧も急いで追いかけるが流石に猫由来の足の速さには敵わない。
(速い!!)
みるみる距離を離されていく。
近くの海水を操作して捕縛しようとするも、リング状になった海水を器用に回避してくる。
本能的に中央を通ったらまずいと理解しているらしく全然捕まらない。
やがて近くの建物の影に入った。
時雨と碧がたどり着いたころには忽然と姿を消している。
次第に雨が降り始める。
ぱらぱらと小さく軽やかな音を立てて二人の間を包んでいった。




