第二話:黒牙の脅威と、宙に浮かぶ解(後書きに検索エンジンZEUSの画像)
見上げるほどの巨木の太い枝にしがみつきながら、渡辺陸は生きた心地がしていなかった。
心臓が肋骨を激しく叩き、冷や汗が額から一筋、頬を伝って落ちていく。呼吸の音すら下に悟られまいと、陸は必死で口を両手で覆い隠していた。
巨木の根元にたたずんでいるのは、黒い毛並みを持つ凶悪な野獣だった。 体長は土佐犬ほどだが、その体躯ははち切れんばかりに筋肉が盛り上がり、鋭く突き出た二本の犬歯が黒く光っている。獣特有の低い唸り声が地面を揺らしていた。
(な、なんだよ、あれ……! 土佐犬より一回り大きくて、すごく強そうだ……!)
陸は大学の武道研究会で、週に三日、ごく普通に稽古に励んできた。新歓で断れずに入部したサークルだったが、やってみれば案外面白く、初心者なりに1年間きっちり続けてきた。おかげで素手の受け身や体さばき、刀や棒、槍の基本的な型くらいは身体にしみついている。
だが、それはあくまで「一般的な大学生のサークル活動」の範囲だ。目の前の凶暴な肉食獣と対峙するなど、最初から想定に入っていない。地上で正面から向かい合っていれば、一瞬で噛み殺されていたはずだった。
黒い野獣は、しばらく木の根元の匂いを嗅いでいたが、やがて興味を失ったように林の奥へと去っていった。
「ふぅ……っ、はぁ……っ!」
獣の影が消えると、陸は抑え込んでいた息を一気に吐き出した。命拾いした安堵感が全身を包み込む。こんな危険な場所から一刻も早く抜け出したい——そう思って木を下りようとした、その矢先だった。
「——ヒッ……! 嫌、来ないで……っ!」
静寂を切り裂いて、澄んだ若い女性の悲鳴が響き渡った。
茂みの隙間から、腰を抜かしたひとりの女性が見える。散らばった薬草のカゴの前で震える彼女の前に立ちはだかっていたのは——先ほど立ち去ったはずの、あの黒い野獣だった。
(嘘だろ……っ!?)
陸の頭の中が真っ白になる。 逃げなければいけない。自分はただの普通の大学生だ。だが、目の前で人が襲われているのを見捨てることなんて、どうしてもできない。
(どうしよう……!? 素手なんて無理だ、何か手はないのか……!?)
パニックになりかけた頭で、陸は目の前に浮かぶ透明なホログラム画面を思い出して叫んだ。
「おい、ZEUS! 画面が出ているなら何かできるんだろ!? あの化け物と今の僕の状況、検索できないのか!?」
陸の切羽詰まった声に反応し、宙の青い画面がまたたいた。
『——スキャンおよびクロス検索を開始します。対象:黒牙犬。分類レベル2。本来この浅い森には生息しませんが、冬眠直後の飢餓状態による一時的な徘徊と推測されます』
「レベル2ってどのくらいなんだよ!? どのくらい危険なんだ!?」
『回答します。現地人の基準において、レベル2は武装した大人や自警団が数名で対処する脅威度です。非武装の人間が単独で遭遇した場合、大ケガおよび致命傷に至る危険性があります』
「やっぱりすごく危険じゃないか! お腹を空かせているなら、僕が降りたら一瞬で襲われるよ!」
『追加で回答します。転移時の肉体補正により、マスターの骨密度や筋肉量は【100%地球人スペック】として完全固定されています。また、本世界の重力環境下において、マスターの現在の体感負荷はごく僅かです。垂直跳び数メートルが容易に可能です』
「体感負荷がごく僅か……? 数メートルも跳べる……!?」
ZEUSの返答に、陸は目を見張った。
(おいおい……何言ってるんだ? 骨が頑丈だから攻撃が効かない? 体重が軽くて高く跳べる? ハッ、そんな都合のいい話、命懸けの土壇場で信じられるわけがない……!)
脚がガタガタと震える。急に出てきた怪しい画面の言うことなんて、到底信用できるはずがなかった。
(とにかく武器だ! 素手なんて絶対無理だ、棒になるようなものはないか……!?)
焦った陸は、しがみついていた大木の横から生え伸びる、腕ほどもある太い木の枝に手を伸ばした。棒術の要領で叩きつける武器にしようと、全身の力を込めて引き折ろうとする。
——バキッ!!
あっけなく、何の手応えもなく枝が折れた。
「……えっ?」
手元に残ったのは、スカスカのプラスチックか枯れ枝のように軽い木の棒だった。
(なんだこれ……!? なんでこんな太い枝が、紙みたいに簡単に折れるんだ……!? こんな脆い木じゃ、
叩きつけた瞬間に粉々に砕けてしまうじゃないか!!)
武器にすらならないスカスカの枝を握りしめ、陸は青ざめた。 だが、下では黒牙犬が血走った目で女性へ向けて前脚に力を溜め、今にも飛びかからんとしている。女性は恐怖で固く目を閉じ、悲鳴すら上げられない。
(ええい……! 考える時間も、武器を探す時間も無い!!)
陸は歯を食いしばり、枝を握りしめた。
「こんな木じゃ間に合わない……! もう、どうなっても知らないぞ、届いてくれっ!!」
陸は恐怖を振り払うように声を張り上げ、太い大木の幹を強く蹴りつけた。半信半疑のまま大空へ飛び出した瞬間——まるで羽毛になったかのようにあり得ない軽さと速度で風を切る自分の身体に、陸は目を見開いた。




