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第一話:脱ぎ捨てた重力

 道場の静寂の中に、竹箒が床を払うカサカサという優しい音が響いていた。 二時間の練習を終え、汗を拭いながら道着を丁寧に畳む渡辺陸の隣で、同じように畳んでいた同学年の新城が「お疲れ、陸」と控えめに声をかけてくる。


「お疲れ様、新城くん」


陸もぺこりと頭を下げた。 大学の新歓期、押しに弱くて強引な雰囲気に呑まれるまま入部させられた「武道研究会」。新城も陸と同じく断りきれずに巻き込まれた仲間だったが、いざ体を動かしてみると案外楽しく、週に三日、放課後の練習をサボらず真面目に続けて一年が経っていた。


中学や高校からのガチな経験者たちには到底及ばず、陸自身の腕前はまだ基本技をこなす「級レベル」でしかない。それでも、汗を流した後の心地よい疲労感は悪くないものだった。

道場をあとにした陸は、夜風に当たりながら一人暮らしのアパートへ向かって足を早めた。


南関東国際大学のキャンパスからほど近い、古いアパートの一室。 自室に帰り着き、鍵をかけて小さく息をつく。履いているスニーカーを脱ぐ前に、玄関の小さなシューズラックへ鍵とスマートフォンを置こうとした——その時だった。 指先が滑り、スマートフォンが靴箱と壁の僅かな隙間へと落ちていってしまった。


「あ、やば……」


スニーカーを履いたまま床に膝をつき、狭い隙間へそっと腕を伸ばす。 指先がスマートフォンの角に触れかけた瞬間——足元を支えていた床の感触が、ふっと消え去った。


「え……!?」


視界がぐらりと大きく傾く。まるで最初から床など存在しなかったかのように、陸の身体は隙間の奥の虚無へと呑み込まれていった。


ふわりとした浮遊感のあと、肌を刺す冷気と湿った苔の匂いで目を覚ました。


「……うっ、たた……え?」


体を起こした陸の目の前に広がっていたのは、見慣れたアパートの天井でも壁紙でもなく、圧倒的な大自然の光景だった。


見上げるほど高く伸びた巨木は、太い幹が幾重にもうねり、葉の隙間から差し込む光が青白い粒子となって空間を漂っている。足元には、暗がりで仄かに発光する見たこともない苔が群生し、シダに似た色鮮やかな植物が鬱鬱と生い茂っていた。遠くからは、金属を引っ掻いたような不思議な生き物の鳴き声が木々に反響して届いてくる。


「ここは……どこだ……?」


視覚と臭覚を刺す生々しい情景に、陸は息を呑んで立ち尽くした。夢にしては、漂う空気の冷たさも草の匂いもリアルすぎる。


「あ、そうだ……スマホはどこだ……!?」


ふと我に返り、ポケットをまさぐる。当然入っていない。焦った陸は周囲の濡れた苔や見たこともない草むらに視線を落とし、夢中で手探りを始めた。

その時だった。目の前の空間に、見覚えのあるロゴとともに透き通るような青い画面がふわりと立ち上がった。


『——適合者の意識覚醒を確認。全知AI検索エンジン【ZEUS】を起動します』


脳裏に直接響く、静かで澄んだ声。


「うわっ!? が、画面……!? ゼウス……!?」

驚く陸の目の前にあるのは、元の世界で陸が毎日使っていた、世界最大規模の検索エンジン『ZEUS』のシステム画面だった。


『当システムは、あなたが地球で利用していた検索エンジン【ZEUS】の特別インターフェースです。現在地の空間座標および物理環境は地球のそれとは大きく異なっていますが、あなたの肉体構造は本来の密度を維持したまま保持されています』


「最大手の検索エンジンが……なんで僕の頭の中に!? っていうか物理環境って……じゃあ、ここは本当に……異世界ってことなのか……?」


信じがたい現実に呆然としていたその時、背後の茂みがガサガサと激しく揺れた。

振り返った陸の目に飛び込んできたのは、異形の巨獣だった。


体長は土佐犬よりも大きい、濡れたように輝く漆黒の毛並みを持った、大型の犬のような魔物。ギラギラと赤く光る二つの瞳が陸を捉え、低い咆哮とともに鋭い牙が覗く。


「グルァァァァッ!」


地を蹴り、地響きを立てて襲いかかってくる黒い影。


「ひえっ……!? 助けてえええっ!」


死の恐怖に襲われた陸は、半ばパニックのまま反転し、全力で逃げ出そうと地面を強く蹴りつけた。

——その瞬間、視界が恐ろしいスピードで下方へ置き去りにされた。


「えっ……!?」


ただ必死に地を蹴っただけのはずなのに、陸の身体はまるで羽毛のように高く舞い上がり、数メートル上の巨木の太い枝へと一気に躍り出ていた。


着地の衝撃も拍子抜けするほど優しく、膝への負担すら感じない。背中に羽でも生えたかのような、恐ろしいほどの身軽さ。


「な、何だこれ……!? 身体が……めちゃくちゃ軽い……!?」


眼下では、空振りを起こした犬の魔物が陸の飛び移った枝を見上げて呆然と鳴き声をあげている。 自分の脚力と身体の異様な手応えに、陸は引きつった顔で自分の両足を見つめるのだった。


ここまでお読みいただきありがとうございました!もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、画面下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援していただけると、毎日の執筆の励みになります!次回は明日20時頃に更新予定です。

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