第99話 変わらぬ日常
世界がこれほどまでに激変し、自らが「農神」として歴史に刻まれ、周囲が巨大なマクロ経済圏へと変貌を遂げても。テオの送る日々のルーチンは、十年前のあの日、たった一袋の種を手に孤独に歩き出したあの頃から、驚くほど一ミリも変わってはいなかった。
地中階層の疑似太陽が、地平線の幻影から柔らかな琥珀色の光を放ち始める前の、静謐な早暁。テオは誰に起こされるでもなく目を覚まし、井戸から汲み上げたキンキンに冷えた水で顔を洗う。そして、ガントンが何度も何度も叩き直し、今やもはや美術品の域に達した「いつものクワ」を手に取り。使い古された、けれど清潔な作業服を纏って、彼は静かに、愛おしい畑へと足を踏み出すのだ。
どんなに地位が上がり、各国の王たちから英雄として伯爵以上の礼遇を受けても。エリナの経営努力によって、使い切れないほどのゴールドが蔵に溜まっても。テオの本質は、いつだって、一粒の種に希望を託し、大地の声に耳を傾ける「一介の農家」であり続けた。
「おはよう、トマトたち。……うん、昨夜の雨(魔法の散水システム)はちょうど良かったみたいだね。……君、最近少し葉の色が薄いかな? よし、後で栄養たっぷりの追肥をしてあげるからね」
土を裸足に近い感覚で踏みしめる、あの独特の感触。
朝霧を含んだ湿った空気と、無数の植物が放つ濃密な緑の香り。
そして、土の中で、茎の中で、果実の中で、刻一刻と成長し続ける生命の爆発的な息吹。
テオにとっては、これさえあれば、他には……世界一の富も、不老不死の魔法も、英雄の称号も、一切必要なかった。
「おーーいッ!! テオ!! いつまで畑に居座っておるのじゃ!! 朝ご飯が完全に出来上がっておるぞ、これ以上遅れたら、わしが全部食べてしまうからのぉーーッ!!」
テラスの向こうから、ティアの元気な、そして以前よりもどこか深みを増した慈愛に満ちた声が響き渡る。
「テオさん、今日の朝ご飯は気合が入っていますわよ!! 今朝採ったばかりの『奇跡の鶏』の卵を使った、濃厚な卵かけご飯! それと、一晩じっくり寝かせた秘伝の出汁で作った、季節野菜の具だくさんお味噌汁と、お漬物ですわ!!」
エリナの声も重なる。その香ばしい、鰹節と味噌の混ざり合った、胃袋をダイレクトに掴むような芳醇な匂いが、風に乗ってテオの鼻腔まで届く。
「ミルクも絞りたてだよぉー!! 今日の新聞と、魔界のパパからの『早く孫の顔を見せにこい』っていう、いつもの迷惑な催促の手紙も届いてるからねーーーッ!!」
リルの、子供たちと一緒になってはしゃぐ明るい声。
「……ははは。あぁ、ごめん! 今、今行くよ!!」
テオは愛用のクワを、丁寧に手入れされた道具置き場へと収め、首にかけたタオルで額に滲んだ爽やかな汗をひと拭きすると、愛する家族と仲間たちが待つ、光の溢れるログハウスに向かって駆け出した。
かつての孤独な自分には、想像もできなかった光景。
伝説の勇者になって称賛を浴びるよりも。最強の魔法使いになって世界を支配するよりも。あるいは、一国の王となって贅を尽くすよりも。
この、何気なくて、当たり前で、けれど何物にも代えがたい「ありふれた朝の日常」こそが。彼が十年の歳月をかけて、大地を耕し続けて手に入れた、世界で一番価値のある、最高で最後の『宝物』なのだ。
「「「「いたたきまーーーーすッッ!!!!」」」」
家の扉を開けた瞬間。弾けるような笑い声と、湯気が立ち上る食卓。
今日もまた、テオの農場には、昨日よりも少しだけ美味しくて、昨日よりも少しだけ温かい、最高の一日が始まろうとしていた。
彼の「スローライフ」は。終わることのない実りと共に、これからも永遠の輪を描いて続いていくのである。




