表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
96/100

第96話 エリナの決意

 ティアとの月下の語らいから明けた、翌朝。

 地底の疑似太陽が穏やかに昇り始めた頃、今度はエリナが、以前にも増して凛とした足取りでテオの私室を訪ねてきた。

 しかし。その日の彼女は、テオが見慣れた、あの王都の象徴とも言える純白でヒラヒラとした「動きにくさ至上主義」の聖女のローブを纏ってはいなかった。

 代わりに彼女が身に付けていたのは、テオが予備として渡しておいた、丈夫なデニム生地の農作業着つなぎ。金色の長い髪は、作業の邪魔にならないように高々とポニーテールに結い上げられ、その腰には愛用の剪定ばさみがしっかりと差し込まれている。


「テオさん、おはようございます。……少し、大事なお話をさせていただいてもよろしいでしょうか?」

「おはよう、エリナ。……どうしたの? そんなに改まって。新しい作物の輸入契約の話なら、朝ごはんの後にゆっくり聞くよ」

「いえ……仕事の、いわゆる『対外的な業務』のことではないんです。……私、昨夜の万博の打ち上げの焚き火を見ながら、一晩中考えて。……そして、決めました。……私、聖女を正式に辞めますわ」


「……………………ええっ!?」


 テオは絶句し、危うく持っていた淹れたてのコーヒーカップを床に叩き落とすところだった。

 聖女。……それは人間界において、神の声を聴く唯一の存在として王宮や教会から最も尊敬され、一国の王でさえも一目を置く、絶対的な地位だ。その地位にある者が、突然「辞める」などと言い出すのは、一国の首相が「明日からバイトリーダーになります」と宣言する以上の、天地がひっくり返るような大事件である。


「教会に戻れば、私は再び高い壇上で『聖なる象徴』として祀り上げられる、退屈な、けれど保証された日々に戻るでしょうね。贅沢な暮らしもできるし、民衆からは絶え間なくちやほやもされるでしょう。……でも、あの日。……テオさんとこの農場で出会う前の私は、心の中が、凍りついた冬の荒野のように空っぽでしたの」


 エリナは、一歩だけテオに近づき、真っ直ぐな、そして以前よりもずっと強さを増した瞳で彼を見つめた。その瞳の奥には、教会のステンドグラスのような虚飾の光ではなく、大地に根を張る生命の、一点の曇りもない輝きが宿っていた。


「私は……。ここでテオさんの横で、泥にまみれて髪を乱し、収穫の喜びで叫び、そしてみんなと一緒に、一皿のスープを笑い合って食べている自分が、何よりも好きなんです。……巨大な大根と格闘して、それを無事に引っこ抜いた瞬間の達成感の方が、神殿で何百時間も虚空に向けて祈りを捧げている時より、数万倍も『ああ、自分は今、生きているんだ!』って実感できるんですわ」

「エリナ……」

「だから……私はもう、世界の聖女という役割を捨てます。これからは、ただの一人の女性……『エリナ』として、ここでの人生を歩んでいきたい。……テオさんと一緒に、この農場を耕し、守り。……新しい実りを、共に育てていきたいのです。……このわがまま、迷惑……ではありませんか?」


 エリナは、テオの温かい手を、自分の両手でぎゅっと握りしめた。

 かつては白魚のように繊細で、傷一つなかったと言われるその指先には。いつの間にか、クワを振り、雑草を抜いたことでできた「農民の勲章」である小さな豆と、少しだけ厚くなった皮膚があった。……それは、彼女が言葉だけでなく、行動で示してきた『覚悟』の何よりの証明に他ならなかった。


「……迷惑なんて、あるもんか! エリナがいてくれないと、この農場は一日で書類の山に埋もれて爆発しちゃうよ。……それにね、……君。君が僕のために作ってくれる、あのお野菜たっぷりのお味噌汁。あれは世界中どこを探しても食べられない、僕にとっての『世界一の魔法』なんだ。……毎日でも、飲みたいくらいだよ」

「ま、毎日!?!? ……それ、それって、地球の言葉でいうところの……プロポーズ……!!?」


 エリナが、爆発したかのように顔を真っ赤にした。

 テオは慌てて「あ、いや! そんなダイレクトな意味じゃなくて、ほら、僕の好物だっていう……!」と、いつもの「鈍感属性」を発揮して言い訳をしようとしたが。

 エリナは、その混乱をも楽しむかのように、涙を拭きながら、太陽のように美しく、そしてどこか茶目っ気のある笑みを浮かべた。


「ふふ……。もう遅いですわよ、テオさん。……『毎日飲みたい』と言った以上、覚悟していただきますから。……一生、私が責任を持って、最高に美味しいお味噌汁を作り続けてあげます。……もう二度と、私の手から逃がしませんわよ?」


 エリナが、悪戯っぽく、しかし真実の愛を込めてそう告げた。

 かつての冷徹な「聖女」の仮面を完全に脱ぎ捨て。一人の誇り高き、そして情熱的な「一介の農婦」として生まれ変わった彼女は。

 万博のどの宝石よりも輝いていて、そしてテオの瞳には、かつてないほどに眩しく映っていたのであった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ