第96話 エリナの決意
ティアとの月下の語らいから明けた、翌朝。
地底の疑似太陽が穏やかに昇り始めた頃、今度はエリナが、以前にも増して凛とした足取りでテオの私室を訪ねてきた。
しかし。その日の彼女は、テオが見慣れた、あの王都の象徴とも言える純白でヒラヒラとした「動きにくさ至上主義」の聖女のローブを纏ってはいなかった。
代わりに彼女が身に付けていたのは、テオが予備として渡しておいた、丈夫なデニム生地の農作業着。金色の長い髪は、作業の邪魔にならないように高々とポニーテールに結い上げられ、その腰には愛用の剪定ばさみがしっかりと差し込まれている。
「テオさん、おはようございます。……少し、大事なお話をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「おはよう、エリナ。……どうしたの? そんなに改まって。新しい作物の輸入契約の話なら、朝ごはんの後にゆっくり聞くよ」
「いえ……仕事の、いわゆる『対外的な業務』のことではないんです。……私、昨夜の万博の打ち上げの焚き火を見ながら、一晩中考えて。……そして、決めました。……私、聖女を正式に辞めますわ」
「……………………ええっ!?」
テオは絶句し、危うく持っていた淹れたてのコーヒーカップを床に叩き落とすところだった。
聖女。……それは人間界において、神の声を聴く唯一の存在として王宮や教会から最も尊敬され、一国の王でさえも一目を置く、絶対的な地位だ。その地位にある者が、突然「辞める」などと言い出すのは、一国の首相が「明日からバイトリーダーになります」と宣言する以上の、天地がひっくり返るような大事件である。
「教会に戻れば、私は再び高い壇上で『聖なる象徴』として祀り上げられる、退屈な、けれど保証された日々に戻るでしょうね。贅沢な暮らしもできるし、民衆からは絶え間なくちやほやもされるでしょう。……でも、あの日。……テオさんとこの農場で出会う前の私は、心の中が、凍りついた冬の荒野のように空っぽでしたの」
エリナは、一歩だけテオに近づき、真っ直ぐな、そして以前よりもずっと強さを増した瞳で彼を見つめた。その瞳の奥には、教会のステンドグラスのような虚飾の光ではなく、大地に根を張る生命の、一点の曇りもない輝きが宿っていた。
「私は……。ここでテオさんの横で、泥にまみれて髪を乱し、収穫の喜びで叫び、そしてみんなと一緒に、一皿のスープを笑い合って食べている自分が、何よりも好きなんです。……巨大な大根と格闘して、それを無事に引っこ抜いた瞬間の達成感の方が、神殿で何百時間も虚空に向けて祈りを捧げている時より、数万倍も『ああ、自分は今、生きているんだ!』って実感できるんですわ」
「エリナ……」
「だから……私はもう、世界の聖女という役割を捨てます。これからは、ただの一人の女性……『エリナ』として、ここでの人生を歩んでいきたい。……テオさんと一緒に、この農場を耕し、守り。……新しい実りを、共に育てていきたいのです。……このわがまま、迷惑……ではありませんか?」
エリナは、テオの温かい手を、自分の両手でぎゅっと握りしめた。
かつては白魚のように繊細で、傷一つなかったと言われるその指先には。いつの間にか、クワを振り、雑草を抜いたことでできた「農民の勲章」である小さな豆と、少しだけ厚くなった皮膚があった。……それは、彼女が言葉だけでなく、行動で示してきた『覚悟』の何よりの証明に他ならなかった。
「……迷惑なんて、あるもんか! エリナがいてくれないと、この農場は一日で書類の山に埋もれて爆発しちゃうよ。……それにね、……君。君が僕のために作ってくれる、あのお野菜たっぷりのお味噌汁。あれは世界中どこを探しても食べられない、僕にとっての『世界一の魔法』なんだ。……毎日でも、飲みたいくらいだよ」
「ま、毎日!?!? ……それ、それって、地球の言葉でいうところの……プロポーズ……!!?」
エリナが、爆発したかのように顔を真っ赤にした。
テオは慌てて「あ、いや! そんなダイレクトな意味じゃなくて、ほら、僕の好物だっていう……!」と、いつもの「鈍感属性」を発揮して言い訳をしようとしたが。
エリナは、その混乱をも楽しむかのように、涙を拭きながら、太陽のように美しく、そしてどこか茶目っ気のある笑みを浮かべた。
「ふふ……。もう遅いですわよ、テオさん。……『毎日飲みたい』と言った以上、覚悟していただきますから。……一生、私が責任を持って、最高に美味しいお味噌汁を作り続けてあげます。……もう二度と、私の手から逃がしませんわよ?」
エリナが、悪戯っぽく、しかし真実の愛を込めてそう告げた。
かつての冷徹な「聖女」の仮面を完全に脱ぎ捨て。一人の誇り高き、そして情熱的な「一介の農婦」として生まれ変わった彼女は。
万博のどの宝石よりも輝いていて、そしてテオの瞳には、かつてないほどに眩しく映っていたのであった。




