第89話 龍の進撃
数千年の眠りから目覚めたばかりの古代龍、エンシェント・ダイヤモンド・ドラゴンにとって、目の前の人間たちやきらびやかな建物は、別段、憎悪や敵意を向けるべき対象ではなかった。
彼にとっては、ただ数千年に一度の寝起きで、身体を少し伸ばして大きく欠伸をし、眠気覚ましの散歩を始めた程度に過ぎない。しかし。その『程度』が、あまりにも超越的すぎていた。
彼が一つ欠伸をすれば、大気に超高周波の振動が走り、強固な防壁さえも粉々に砕け散る。
彼が軽く尻尾を一振りすれば、ガントンが魂を込めて組み上げた巨大なパビリオンが、子供の積み木細工のように一瞬で倒壊、瓦礫の山へと変わり果てる。
そして彼が巨大な足を一歩踏み出せば、その足跡は深さ数メートルに及ぶ巨大なクレーターとなり、開墾したばかりの美しい畑を絶望的なまでに踏み荒らしていった。
さらに、最悪の事態が発生した。
龍の、山のような鼻の穴がピクピクと、敏感に動いたのだ。
「(……クンクン。……クンクン。……何という、脳を直接揺さぶるような、芳純でエネルギーに満ちた匂いか。……肉が焦げる、野性味溢れる香り。……魚が焼ける、香ばしい誘惑。……そして、甘美で力強い、大地の結晶のような蜜の匂い……)」
龍の、瞳孔が縦に割れた宝石のような視線が、テオたちのいるメインステージ周辺――すなわち、万博の全美食が凝縮された究極の「グルメエリア」へと固定された。
無理もない。数千年も絶食状態で眠り続けていたのだ。魔王の娘が「お腹ぺこぺこー!」と叫ぶのとは訳が違う。世界一つを食べ尽くして、ようやく腹八分目。そんなレベルの宇宙規模の空腹が、龍の理性を瞬時に焼き切った。
ズシン。ズシン――。
一歩ごとに農場を、いや地殻全体を揺らしながら、龍が食事会場へと向かって歩みを進め始める。
その直線上には、テオたちが一ヶ月かけて作り上げた、魂の結晶である『ベジタブル・パレス』。そして、エリナが家を担保にし、商会の総力を結集して建てた、最高級温泉旅館『深淵楼』が、無防備に立ち塞がっていた。
「あああああッ!! な、なんてことを! 私の旅館が……私の、王都最高値の宿泊予約が詰まった旅館が、あんなトカゲのつまずき一つで崩れ去ろうとしていますわぁぁ!! まだローンが法定償却期間の半分も終わっていないのにぃぃッ!!」
エリナが膝から崩れ落ち、ショックのあまり泡を吹いて卒倒しかける。
「野菜館が……!! あそこには、僕たちが毎日泥にまみれて育てた自慢のトマトと、明日のメインイベントで提供するはずだった特大スイカが、全部詰まってるんだぞ……!!」
テオの声も、悲痛な叫びとなって裏返った。自らの努力、仲間の想い、そして農場の未来。それらすべてが、巨大なトカゲの「ただの食事までの散歩道」として、無慈悲に踏み潰されようとしている。
「……させない。……絶対に、ここから先へは一歩も活かせないぞ!!」
テオが、泥の地面を強く蹴って立ち上がった。
彼の瞳には、天災に対する恐怖よりも、大切なものを踏みにじられたことへの静かなる怒り、そして農場主としての絶対的な「守護の意志」が、青白い炎となって燃え盛っていた。
「ロボ! タコちゃん! お客様の避難を最優先だ! ゲートの魔力を最大出力にして、パニックを抑えつつ全員を地上か魔界へ逃がせ! ……ティア、リル、ガントンさん!! 僕たちは、あいつをここで食い止めるぞ!」
「おう! わしの最高傑作であるクワ……いや、ハンマーの錆にしてくれるわい! ドワーフの意地を見せてやるッ!」
「パパも呼ぶ! パパーーッ!! こっちにすごいのいるから、早く助けてーーっ!!」
「……やれやれ。眠れる森の馬鹿龍が、我の領地で好き勝手するのは許せん。……徹底的に『躾』をしてやらねばならんな」
スタッフたちが一斉に、それぞれの配置へと、あるいは龍の目の前へと動き出す。
ここを戦場にすれば、農場の再建にはまた膨大な時間がかかるだろう。だが、今ここで立ち上がらなければ、すべてを失う。
テオは愛用の黄金のクワを構え、山よりも巨大な、しかし空腹に負けた情けない古代龍の前に、決然と立ちはだかった。
これが、テオたちのスローライフ最大の、そして全世界の存亡を懸けた、最後の防衛戦の幕開けであった。




