第88話 古代龍の目覚め
万国博覧会『D・EXPO』がもたらした空前絶後の熱気。それは単なる心理的な興奮に留まらず、地脈を通じて、物理的な振動と魔力波動として地下深くの地層にまで浸透し、その影響を及ぼしていた。
数万人もの人々が放つ歓声の共鳴、調理のために放出される膨大な熱エネルギー、転移ゲートが回るたびに生じる空間の歪み。そして、何よりも――全階層に漂い始めた、抗いようもなく「美味しそうな」料理の匂い。
それらの複合的な刺激が、地下百階層――「深淵の底」と呼ばれ、神話の時代より絶対の禁域とされてきた封印区画に眠る「ある超越的な存在」の、永い、永い眠りを妨げてしまったのである。
ズズ……。ズズズズズ……。
最初は、誰もが興奮のあまり気づかないほどの、微かな、しかし粘り気のある振動だった。
並べられたグラスの表面に小さな波紋が広がり、足首にどこか重苦しい磁気を感じる程度。
しかし。それは秒を追うごとに、破壊的なエネルギーを伴う激震へと急速に。かつ残酷に変貌していった。
ドン!! ズシン!!
平穏な農場の大地が、悲鳴を上げるように上下に揺れ、屋台の鍋がひっくり返り、豪華なパビリオンの柱が軋みを上げる。地面の底の底から、とてつもなく巨大な「意志」が突き上げてくるような、不吉すぎる縦揺れだ。
「……地震? いや、ダンジョンの構造そのものが恐怖で震えているのか……?」
広場の特設シートで、お土産のイチゴを食べていたティアが、突如としてその手を止め、虚空を、いや地下の底を見つめて、その透き通った肌を真白く強張らせた。
「この魔力反応……地脈そのものが、生物の形をして動き回っているのか? ……嘘じゃ。まさか、奴が目覚めたというのか? 神話の時代に決着がついたはずの、あの怪物が……!」
「ティア! どうしたんだ、そんなに震えて! ポチも、怯えてるぞ!」
テオが駆け寄る。その足元では、神獣の末裔であるはずのポチが、毛を逆立て、尾を股の間に巻き込み、低く唸りながら後退りしていた。
「テオ! 今すぐに客を避難させろ!! ゲートを全開にして、一刻も早く、ここを……深層を空にするのじゃ! 冗談抜きで、この世の終わりがやってくるぞ!!」
ティアの警告が会場に響き渡るのと、同時だった。
会場中央の広場。ついさっきまで家族連れが笑顔で写真を撮っていた、シンボルの大噴水があった場所の地盤が、まるで内側からの爆圧を受けたかのように、天空へ向かって猛烈に隆起した。
ドガァァァァァァァァァーンッッ!!!!
数十メートルの土煙と破砕された岩石が、火山噴火のように吹き飛び、その爆炎と不気味な青い光の中から、天を覆い尽くさんとする巨大な影が、ゆっくりと姿を現した。
全身が、硬質なダイヤモンドのような透明な鋭い鱗に覆われ、会場を照らす魔法の太陽を反射して、見る者の視神経を焼くような虹色の凶光を放つ、全長百メートルを優に超える「超越の巨龍」。
エンシェント・ダイヤモンド・ドラゴン。
かつて、地上のあらゆる文明を一度灰に帰し、世界を再定義しようとしたとされる、生ける天災。
神話の中でしか存在を許されなかったはずのその化身が、今、テオの目の前で現実の空気を震わせていた。
「グオォォォォォォォォォォォォォッッ!!!!」
ただの一咆。
その咆哮から放たれた物理的衝撃波は、パビリオンの強化ガラスを一瞬で粉々に粉砕。巻き起こった猛烈な突風は、並び立つ屋台を紙屑のように薙ぎ倒し、万博の象徴であった巨大な熱気球を空中で引き裂いた。
悲鳴を上げる余裕さえ与えない、圧倒的なまでの存在感と破壊の波動。
数分前まで「誰も不幸にならない場所」だった夢の万博会場は、一瞬にして、逃げ場のないパニック映画のセットのような、無慈悲な惨状と化した。
「嘘だろ……。なんてデカさだ……。なんで……なんで僕がこんなに頑張ってる時に、こんな……っ!」
テオは、顎が外れそうなほどの絶望を抱え、遥か高みにある龍の不吉な頭部を見上げた。
龍の巨大な瞳は、最高級の宝石のように美しく澄んでいたが、そこにはコミュニケーションの余地など一切ない、無機質な破壊衝動……。そして何より、永い眠りによって枯渇しきった、すべてを喰らい尽くさんとする猛烈な『飢餓感』だけが、凍てつく炎となって揺らめいていた。
万博という平和の極致のすぐ下で、最悪の「破滅」が産声を上げたのである。




