第76話 国際問題への発展
魔王アスタロトが正式に「友好関係」と「不可侵」を宣言し、地上では聖女エリナを通じた最高級ブランド『アンダーワールド・プレミアム』の流通が本格化。さらには、世界初の深層温泉旅館『深淵楼』がプレオープンしたことによって――、テオのダンジョン農場は、もはや一介の「農家の趣味」という枠組みを、音を立てて踏み越えていた。
今やそこは、世界地図に新たに書き加えられるべき、一つの独立国家レベルの軍事・経済的重要拠点、あるいは「世界の特異点」として認識されるようになってしまっていたのだ。
「テオさん、現実を見てください! あくびをしている暇なんてありませんよ。本日は隣国ロムルス帝国から、特命全権大使閣下が直々に、護衛の精鋭騎士団百人を引き連れて中層の受け渡し所までいらしていますわ」
「ええっ、帝国の大使!? 僕、そんな偉い人に会う用の服なんて、この泥だらけの作業着しか持ってないよ……」
「お色直しならロボに任せればいいです。それよりも午後! エルフの里の長老会から、ティア様の生存(というか堕落ぶり)の確認を兼ねて、最高級のリキュールを持参した視察団が到着予定です」
「ドワーフ王国からも、ガントン様の生存確認……および、彼が打ったという噂の『最強のクワ』についての技術供与を求める嘆願書を携えた、親善大使が向かっています」
「さらに、商売の神様を祀る中央教団の司祭までもが、『この奇跡の土地を公式に聖地として認定し、教団の保護下に置きたい』と……まあ、要するに利権を寄越せと詰めかけていますわ」
エリナが、ドワーフの革で装丁された分厚すぎるスケジュール帳をめくりながら、息をつく暇もなく読み上げる。
元々はアットホームな団らんの場だったログハウスのリビングは、今や無理やり増築された豪華な応接用ソファが並ぶ「秘密会談室」へと改装され、朝から晩まで各国の重要人物や使者たちの訪問によって、ひっきりなしに扉が開閉されるカオスな状態に陥っていた。
テオは、畑で一番良い出来のジャガイモを収穫した直後の泥だらけの姿で、玄関先で頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「なんで……。僕はただ、美味しいお米を作って、みんなと笑って、たまに温泉に入りたいだけの、どこにでもいるただの農家なのに。なんで外交なんて、国をしょって立つような大層なことをしなきゃいけないんだ!」
彼の悲鳴は、あまりにも切実で正当なものだった。
しかし、非情にも状況がそれを許さない。
ここには、不治の病を一晩で癒やす「宝石のような野菜」、失われた魔力を一房で回復させる「禁断の果実」、そして神話の時代に失われたはずの技術で武具を打つ「伝説の鍛冶師」、さらには世界を滅ぼしうる「魔王の愛娘」までが、一つの食卓を囲んで和気あいあいと暮らしているのだ。
地上の支配者たちが、自国の権益と安全保障のために、この場所を放っておくはずがなかった。
応接室では、各国の使者たちが火花を散らし、我先にとテオ(の代理人であるエリナ)との交渉を進めていた。
「テオ殿! 我が国の最北端の涼しい領地を自由に使ってくれぬか! 支店を出してくれれば、税金は永久に免除、テオ殿を伯爵に叙勲しよう!」
「寝言は寝て言わんか! うちは精霊様の加護が切実に欲しいのだ! エルフに伝わる不老不死の秘薬との交換条件を飲んでいただきたい!」
「独占契約を! 我がシルバー・ムーン商会が、いや、シルバー・ムーンを辞めて僕個人が全権を握るから、全商品を卸してくれ!」
静かだった深層に、人間の欲望が渦巻く怒号と、価値の暴落した札束の束が飛び交う、異様な光景。
テオは遠い目をして、ティアが魔法で窓の外に投影している、偽物の、けれどどこまでも高く澄み渡った青空を見上げた。
「……有名になりすぎるのも、考えものだね。……ねえ、ポチ。僕たち、いっそ更なる深層……地下百階層くらいまで引っ越そうか?」
「ワフゥ……(僕はテオが作ったお肉さえ食べられれば、地下千階層でもついていくよ)」
スローライフという言葉の定義が、テオの現実から音を立てて崩れ去っていく。
「何もしない贅沢」を求めていたはずの農夫の周りは、今や世界の中心地としての狂騒に飲み込まれようとしていた。
テオは重い腰を上げ、泥を払うと、大使という名の「面倒な相談相手」が待つ応接室の扉へと、一歩を踏み出すのだった。




