第75話 魔界との国交樹立
翌朝。魔界を統べる王アスタロトは、昨夜の酔い潰れての号泣騒ぎが嘘のような、どこか吹っ切れた清々しい表情を浮かべていた。
彼の背中には、テオが徹夜で用意した大量の『深淵ドライ・ビール』の樽や、一晩寝かせて旨みを凝縮させた『極生枝豆』の袋、さらにはリルの元気な姿を魔導カメラで収めた数枚のブロマイド(リル本人が「パパ、二度と勝手に部屋に入るなよ」と釘を差しつつ、特別にくれたものだ)が大切そうに抱えられていた。お土産を持った親戚のおじさんのような風貌だが、その魔力は世界を揺るがすほどだ。
城門(代わりの転移ゲート)の前には、温泉とテオのポーションで傷がようやく癒えた四天王たちも整列していた。彼らはテオの作った「まかない野菜炒め」の味に完全に胃袋を掴まれており、主君である魔王と同じように、どこか未練がましい顔でトマト畑を見つめている。オークの将軍なんて、帰りたくなくて柱にしがみついていたほどだ。
アスタロトは一歩前へ出ると、地上の太陽の如く輝くテオの目を正面から見据え、魔王としての威厳に満ちた声を響かせた。
「我が魔王アスタロトの名において、ここに厳かに宣言する! 我が国――魔界全土は、この『ダンジョン農場』および旅館『深淵楼』との間に、恒久的な友好関係を樹立する! 今後、この聖域への不可侵を約束し、同時に、魔界の特産品とこの地の農作物の自由な貿易を許可しようではないか!」
それは、歴史上初めて、魔王自らが人間を対等の『国』として認めた、事実上の国交樹立宣言であった。
魔王公認のリゾート地。その看板がもたらす影響力は絶大だ。これによって、この農場は地上と魔界の架け橋となり、これからは人間だけでなく、魔族のセレブたちもこぞって観光に訪れることになるだろう。魔界からの直行便ゲートが開通するのも時間の問題だ。
「やったな、テオ! これで我の領地は、世界一平和で、世界一繁栄するダンジョンになるぞ!」
ティアが尻尾を振る勢いでテオの周りを小躍りしながら、その背中をバンバン叩く。
「……ふふ、これは忙しくなりますね。女将としての手腕が試されます。すぐに魔界向けの言語翻訳付きメニューを作成し、魔物にも対応した宿泊プラン(例:溶岩風呂付きスイート)を練らなければ。従業員も、今のメンバーだけでは到底足りません。オークの力持ちや、器用なゴブリンを雇用することも考えましょう!」
エリナは既に女将としての経営脳をフル回転させ、手帳にびっしりと計画を書き込んでいる。彼女の瞳には、商売繁盛(とテオとの共同生活の充実)への尽きることのない野心が輝いていた。
「うん。でも、これからどんなに賑やかになっても、僕たちの基本は変わらないよ」
テオは空を見上げた。ダンジョンの天井には、いつものように魔法で作られた清々しい青空が広がり、トマトの葉が朝日を受けてキラキラと輝いている。
「まずは、しっかり朝ごはんを食べて。今日も一日、楽しく、美味しいものを作ろう!」
「異議なしじゃ! パパも帰ったし、私は牛乳配ってくるからなーっ!」
リルが特製の着物姿から、動きやすい農作業着に着替え、牛乳瓶をカタカタと鳴らしながら、元気いっぱいに廊下を走り抜けていった。
世界を滅ぼすはずだった魔王という爆弾も、極上の温泉と一本の枝豆、そして不格好なオムライスによって、平和的な「超大型顧客」へと見事に転換(あるいは利用)された。
テオのスローライフは、もはや一人の農夫の趣味を超え、種族を超えた文明の交差路としての、さらなる高み、次のステージへと進んでいく。
深淵の底の農場に、今日も幸せな労働の音が響き渡る。




