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第73話 腹を割って話そう(温泉で)

「まあまあ、そう殺気立たずに。まずは熱くなっている頭を冷やしましょう。……いえ、お風呂ですから温めましょうか。さあさあ、こちらへ」


 テオは、戦意を失いつつある魔王アスタロトを、完成したばかりの自慢の露天風呂『深淵の湯』へと誘った。

 最初は「敵地で、しかも人間と同じ湯船で裸になどなれるか!! 暗殺の罠に決まっておる!」と烈火のごとく警戒していた魔王だったが、「リルちゃんが一番のお気に入りだと言っている、この農場で最も平和な場所ですよ。パパなら、娘が愛したお湯を理解すべきでは?」というテオの絶妙な挑発(?)を受け、渋々ながら漆黒のマントを脱ぎ捨てた。


 現れたのは、幾多の戦場を潜り抜けてきたことを物語る、古傷の刻まれた筋骨隆々の肉体。その圧倒的な質量感は、脱いでもなお魔王としての威厳を放っている。しかし、お湯の縁に腰掛け、恐る恐る黄金色の源泉に肩まで浸かったその瞬間、彼の険しい鬼の形相は、驚きと共にふにゃりと劇的に緩んだ。


「……む。……むむむ」

「どうですか? いいお湯でしょう」

「……悪くない。いや、良い。……非常に良いぞ、これは。含魔力硫黄泉か。適度な温度と、絹のように肌に吸い付く湯質……。魔界の煮えたぎるマグマ風呂とは次元が違う。身体の芯から、蓄積していた毒素や澱みが溶け出していくようだ……」


 魔王アスタロトは、大きなため息と共に湯船の縁に頭を預けた。鼻の先にタオルを引っ掛け、目を閉じる。

 テオもその隣で、適度な距離を保ちつつタオルを頭に乗せ、ぷかぷかと湯船に浮かぶ木桶を眺める。世界を震撼させる最強の魔王と、魔王の奥義をクワで叩き斬った最強の農夫(?)による、前代未聞の「裸の付き合い」が始まった。


「……なあ、青二才」

「テオです」

「そうだったな、テオよ。……忌憚なき意見を聞きたい。あやつ――リルは、ここで本当に、幸せそうにしておるか?」


 魔王の声から、先ほどまでの覇気が完全に消え失せていた。そこにあるのは、魔族を統べる王の威厳ではなく、思春期の娘との距離感に悩み、孤独に打ち震える、一人の不器用な父親の切実な響きだった。


「はい。毎日、本当に楽しそうですよ。農作業で泥だらけになって、みんなで大笑いしながらご飯を食べて。特にお風呂上がりに、腰に手を当ててコーヒー牛乳を飲み干すときは、世界で一番幸せそうな顔をします。あ、仕事(牛乳配達)も今のところ無遅刻無欠勤で、一生懸命やってくれて助かってます」

「そうか……。魔王の娘が、牛乳運び、か……。そんな些細なことで、あの子は笑うのか……」


 アスタロトは遠い目をして、天井の岩肌と、そこに張り付くヒカリゴケの瞬きを見つめた。

「城では……いつの間にか、ちっとも笑わなくなってしまったのじゃ。わしが構えば構うほど、良かれと思って最高のものを与えれば与えるほど、あの子は心を閉ざし、部屋から出なくなった。わしはただ、あの子に不自由のない、世界で最も安全で豪華な生活をさせてやりたかっただけなのに……、結果としてあの子の翼をもぎ取り、檻に閉じ込めていたのは、このわしだったということか……」


「わかりますよ、魔王様。大切だからこそ、守りたい。傷ついてほしくない。それは親としての正解だと思います。でも、リルちゃんはもう、自分一人の力で、外の世界に咲く花を愛でたり、冷たい風を感じたりしたい年頃なんです。今は少しだけ距離を置いて、彼女が自分で選んだ道を遠くから見守ってあげる。……それもまた、立派な『愛』の形なんじゃないでしょうか」


「見守る……か。破壊と略奪は得意だが、そんな高度な魔導(心の機微)は身につけてこなんだ。……難しいのう、子育てというのは。魔界の安定を保つより、よほど骨が折れるわい」


 立ち上る湯気の中で、3メートルの巨体を持つ魔王の背中が、どこか切なく、小さく見えた。

 テオはそっと、隣に浮かんでいた酒入りの木桶(ガントン特製の「魔界殺し」という強い地酒が入っている)を魔王の方へ押し流した。

「まあ、今日はゆっくり浸かって、日頃のストレスを流していってください。パパのお代はサービスしておきますから」

「……恩に切るぞ、農夫」


 二人はしばらく無言でお湯に浸かり、男同士の奇妙な連帯感と、温泉がもたらす極上の安らぎを分かち合った。地上の惨状などどこ吹く風。ここにあるのは、ただ静かに更けていく地底の夜と、温かな絆の芽生えであった。


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