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第70話 パパ、降臨

 特大ナマズの衝撃的な美味しさに酔いしれ、旅館『深淵楼』のプレオープンが大成功のうちに終わろうとしていた、その時だった。

 穏やかな地底の夕暮れ(ヒカリゴケの調光システムによる疑似夕焼け)が、一瞬にして消し飛んだ。

 ダンジョンの天井、本来なら決して壊れるはずのない、世界を支える岩盤の空間が、バリバリという不吉な音と共に「割れた」のだ。


 漆黒の亀裂が、まるで巨大な怪物の口のように虚空を切り裂き、そこから放出されたのは、禍々しい赤黒い輝きを放つ「絶望」の稲妻だった。

 世界が理不尽なまでのプレッシャーに喘ぐ。

 大気中に充満するマナが、あまりの高重力のような圧力によって凍りつき、周囲のヒカリゴケは瞬時に枯死し、飛んでいた羽虫たちは羽ばたくことさえ許されず地面に叩きつけられた。


 ドクン……、ドクン……。

 不気味な心音が、空間そのものを震わせている。

 神獣フェンリルであるはずのポチが、本能的な恐怖に屈し、「キャン!」と短い悲鳴を上げてテオの後ろで震え、伝説の鍛冶師ガントンは、血管が浮き出るほど強くハンマーを握りしめながら、足の震えを必死に抑えていた。


「……来た。とうとう来たんじゃ。私の、パパが」


 リルの声は掠れていた。彼女の瞳には、かつてない絶望の色が宿っている。

 やがて、その虚空の亀裂から、一人の存在がゆっくりと、重力を無視して降臨してきた。


 身長は優に3メートルを超える巨躯。漆黒の夜の闇をそのまま布にしたようなマントを翻し、全身には伝説の魔金属で作られた、幾千もの怨念を封じ込めたような重厚な鎧を纏っている。

 額からは天を突くほど鋭くねじれた二本の角。背中には、開けばこの階層を覆い尽くさんばかりの、漆黒の皮膜を持つ巨大な翼。

 そして、燃えるルビーのように真紅に輝く瞳は、見る者すべての魂を凍結させるほどの絶対的な覇気を放っていた。

 魔王アスタロト。

 この世界の魔族を統べ、かつて人類が総力をもってしても傷一つつけられなかった、生ける終焉の象徴である。


「リルゥゥゥゥ――ッ!! パパが! パパが今助けに来たぞぉぉぉッ! さあ、こんな不潔な穴蔵から離れて、パパと一緒に帰ろう! 一分一秒でも離れていた時間は、パパにとって永遠の地獄だったぞぉぉぉッ!!」


 第一声は、周囲の岩壁を粉砕し、地底湖に津波を引き起こすほどの凄まじい重低音だった……が、発せられた言葉の内容は、あまりにも残念で救いようのない「極度の親バカ」であった。

 しかし、そのギャップが逆に恐ろしい。

 魔王の右手に握られた、かつて神を屠ったと言われる伝説の魔剣『ラグナロク』からは、剣先から放たれる微かな残光だけで、王国の一つや二つ、塵に帰すことができるほど高密度に圧縮された魔力が溢れ出している。

 この男は、本気だ。

 自分の妄想に基づき、娘を「救う」という大義名分を掲げて、この農場を、そしてテオという存在を、根こそぎ消滅させるつもりなのだ。


「テオ殿! 下がるんじゃ! あやつは……アスタロトは規格外じゃ! 今の我ですら、勝算は一分いちぶもない……。このままでは皆、塵にされるぞ!」

 ティアが額に大粒の汗を流し、自身を奮い立たせるように杖を構えた。背後の翼が微かに、防御本能によって開きかけている。

 エリナも蒼白な顔で唇を噛み切りながら、聖典を握りしめ、最大出力の多重浄化結界をテオの前に展開する。


 農場が始まって以来。いや、テオがこの世界に来て以来、最大にして最悪の危機が訪れようとしていた。

 魔王の怒りの波動が、美味しい幸せに満ちていた『深淵楼』の空気を、冷たく乾いた絶望の色に染め替えていく。テオは、クワを強く握り直した。彼の前に、世界の終わりが立ちはだかっていた。


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