第69話 幻の魚
温泉旅館『深淵楼』が形を成した今、次に求められるのは、訪れた者が一生忘れられなくなるような「究極の名物料理」だ。
ありふれた食材ではつまらない。この地、深淵のダンジョン地下55階層でしか味わえない、伝説級の食材が必要だった。テオは眼下に広がる、神秘的な青い光を放つ巨大な地底湖をじっと見つめた。
「タコちゃん、この湖で一番美味いのは誰だい?」
水路管理の最高責任者であるタコちゃんに尋ねると、彼は八本の触手を器用に動かして、湖の最深部を指し示した。タコちゃんの(念話に近い)情報によると、そこにはかつて巨大クラーケンと死闘を演じ、縄張り争いに勝利したという伝説の主が潜んでいるらしい。
その名は『震源ナマズ(アースクエイク・キャットフィッシュ)』。
彼が寝返りを打つだけでこの階層全体が微震に見舞われ、その巨体は数千年の年月を経て魔力を蓄え、身は最上級のトロを凌駕する脂が乗っているという。まさに「幻の魚」だ。
「よし、釣るぞ。今夜の『深淵楼』プレオープン。メインディッシュはこれだ!」
「本気か? 相手は神話級の怪物だぞ。食べようとして逆にパックリいかれるのがオチじゃ」
ティアが呆れたように言うが、テオの瞳には「食材」を求める飽くなき情熱だけが宿っていた。
テオはガントンに依頼し、最高強度の「鉄樹」を芯材に、ミスリルワイヤーを編み込んだ特注の超巨魚用釣り竿を作成させた。餌には、畑で捕れたまるまると太った『ダンジョン・ジャイアント・ワーム(全長1メートル)』を丸ごと使用。
タコちゃんの頭を臨時ボートとして拝借し、テオは湖の深淵へと漕ぎ出した。
一時間の静寂の後。
突然、タコちゃんの巨体がガクンと沈み、湖面が激しい渦を巻き始めた。
「……来たッ! かかったぞぉぉぉッ!!」
凄まじい衝撃。テオの腕が、肩が、ミシミシと悲鳴を上げる。鉄樹の竿が「つ」の字を通り越して「し」の字にしなり、ミスリルワイヤーから火花が散る。湖の底から、山が動くような強大な力が伝わってくる。
「うおおおおッ! 負けるかぁぁッ! これは今晩のお客……じゃなくて、僕たちの! おかずだぁぁぁ!」
テオの【農夫の筋力(毎朝の全力種まきで鍛えた広背筋)】と、【命の綱引き(土壌に深く根を張った巨大魔導人参を一気に引きっこ抜く作業で培った)】スキルが極限状態で発動した。
湖面を叩く巨大な尾びれ。降り注ぐ水飛沫。
死闘は一時間を超えた。タコちゃんも八本の足を必死に岩場に絡ませてテオを支える。
そしてついに、水面に「島」のような巨大な影が浮上した。全長10メートル。宝石のように光る髭と、分厚い銀色の鱗を持つ『震源ナマズ』が、ついにその姿を現したのだ。
「で、でかい……。クジラか、あるいは潜水艦のなり損ないか?」
岸辺で待っていたエリナたちが腰を抜かす中、テオは満足げにナマズを陸揚げした。
さっそく解体ショーの始まりだ。
テオはクワ……ではなく、ガントン特製の巨大包丁を振るい、手際よく身を下ろしていく。
泥臭さは驚くほど皆無。それどころか、淡白な白身には繊細な霜降りが入り、口に含むと体温でとろけるような濃厚な、それでいてキレのある脂の甘みが広がる。
「よし、今夜のメニューは三本立てだ! 『震源ナマズの黄金蒲焼き』、『肉厚天ぷら・深淵塩添え』、そして『トロ刺し・聖水山葵を添えて』だ!」
炭火で焼かれる蒲焼きの香ばしい、醤油と砂糖が焦げる匂いが、旅館『深淵楼』の廊下を通り抜け、農場中に漂う。その匂いだけでポチはよだれを滝のように流していた。
「な、なんじゃこの美味さは……! 身がフワッフワで、タレが染み込んだご飯が無限に進むわい!」
ガントンが茶碗を三回おかわりし、ティアも無言で(しかし高速で)天ぷらを口に運び続けている。
『深淵楼』のメインディッシュが確定した瞬間だった。
なお、協力してくれたタコちゃんは、ライバル(ナマズ)がいなくなって湖が平和になったことに満足したのか、テオからもらった「特大ナマズの兜煮」を嬉しそうに触手で弄びながら、じっくりと味わっていた。
農場の食卓に、また新たな伝説が加わったのであった。




