第7話 漆黒の牙(ポチ襲来)
見えないイタズラ主との奇妙な共存生活が続いていたある日。
事態は急変した。
いつものように、ヒカリゴケの明かりの下でトマト畑の手入れをしていた時のことだ。
ズズズ……。
地面が低く、不気味に振動し始めた。
地震? いや、違う。この振動のリズムは、何かが歩いている時のものだ。それも、とてつもない質量を持った「何か」が近づいてくる足音だ。
遠くから漂ってくる空気の温度が、急激に下がる。肌を刺すような、ピリピリとした殺気。
「……何だ?」
僕が作業の手を止め、クワを構えて振り返ると同時だった。
数十メートル先の岩の壁が、爆音と共に内側から弾け飛び、砕け散った。
ドガアアアァンッ!!
舞い上がる土煙。飛び散る岩の破片。
そのもうもうたる煙の奥から、血のように赤い二つの巨大な瞳がギラリと光った。
「グルルルルッ……!」
腹の底に響くような、重低音の唸り声。
煙を切り裂いて現れたのは、見上げるような巨体を持つ漆黒の狼だった。
体長は優に5メートル以上あるだろうか。全身が鋼鉄よりも硬そうな剛毛で覆われ、その一つ一つから禍々しい黒いオーラが湯気のように立ち上っている。
太い四肢には、岩盤をも容易く引き裂く鋭利な爪。
口元からは、ダラダラと大量のよだれが滴り落ち、地面の石を溶かしている。
フェンリル。
伝説に語られる、神すら喰らうと言われる最強の魔獣だ。Sランクモンスターなんて生温い。災害そのものだ。
「で、でかい……!」
以前戦った大コウモリとは、生物としての格が違う。
その圧倒的なプレッシャーだけで、心臓が恐怖で鷲掴みにされ、呼吸が止まりそうになる。
フェンリルの背後には、微かな魔力の揺らぎが見えた。まるで誰かが糸を引いて、この猛獣を意図的にけしかけているような気配。
(もしかして、イタズラ主がしびれを切らして、最強の用心棒を呼んだのか?)
だとしたら、これは明確な排除勧告だ。
「かわいいイタズラでは効かないから、実力行使に出ることにした。出て行かないなら死ね」という意思表示だ。
逃げる? 無理だ。フェンリルの速度に、人間の足で勝てるはずがない。
戦う? このボロボロのクワ一本で?
普通なら、ここで諦めて腰を抜かし、喰われるのを震えて待つ場面だ。
だが。
僕の視界の端に、鮮やかな緑色が映った。
僕の背後には、ようやく双葉から本葉へと成長し始めたばかりの、愛しいトマトの苗たちがいる。
(これ以上……僕の居場所を奪われてたまるか!)
勇者パーティを追放され、全てを失った僕が、この数日、丹精込めて土を作り、水をやり、守ってきた唯一の希望だ。
それを、こんな化け物に踏みにじらせるわけにはいかない。
「ワンッ!(排除する!)」
フェンリルが吠えた。その音圧だけで体が吹き飛ばされそうになる。
次の瞬間、巨体が消えた。
神速の跳躍。
目で追うことすらできない速度で距離を詰められ、気づいた時には、目の前に死神の鎌のような鋭利な爪が迫っていた。
「くっ……【一点集中・鉄壁】ッ!!」
僕は反射的にクワを盾のように構え、体内の全魔力をクワの柄の「一点」に集中させた。
それは恐怖が生み出した火事場の馬鹿力ならぬ、火事場の魔力操作だった。
本来は土の硬度を調整するスキルを、防御に応用したのだ。
ガギィィィン!!
この世のものとは思えない、凄まじい金属音が鼓膜を叩く。
衝撃が両腕を駆け巡り、骨がきしむ音がした。僕はまるでボールのように数メートル後ろへ弾き飛ばされた。
地面を転がり、背後の大岩に背中を激しく打ち付けてようやく止まる。
「ぐっ……い、痛っ……」
腕が痺れて感覚がない。息が詰まる。
でも、恐る恐る目を開けると、僕の手の中にあるクワは折れていなかった。僕の体も、打撲こそしてるが五体満足だ。
フェンリルの斬撃を、正面から受け止めたのだ。
「グルルル?(なぜ生きてる?)」
フェンリルが驚いたように動きを止めている。
まさか人間ごときに、自慢の爪を防がれるとは思っていなかったのだろう。
その隙に、僕は痛む体を叱咤して立ち上がった。
不思議と、今の僕の中に恐怖はなかった。
代わりに湧き上がってきたのは、燃えるような農家としての怒りだ。
こっちは必死で畑を耕し、静かに暮らしたいだけなのに。土足で人の畑を踏み荒らそうとしやがって!
「痛いなぁ……いきなり噛み付くなんて、しつけがなってないぞ!」
僕は痺れる手でクワを構え直した。切っ先を、巨大な狼の鼻先に突きつける。
相手が伝説の魔獣だろうが、神獣だろうが関係ない。
僕の畑を荒らす害獣には、相応の教育的指導が必要だ。
僕は腹の底から、ありったけの気合を込めて声を絞り出した。
「お座りッ!!」
クワを振り下ろすと同時に、スキル【害獣駆除・威圧】を全開にする。
本来は畑を荒らすイノシシやカラスを怯ませて追い払うための威嚇スキル。
だが、僕の怒りと膨大な魔力が乗ったそれは、物理的な質量を持った衝撃波となってフェンリルを襲った。
空気が歪むほどのプレッシャーが、上空から巨体を押し潰すように降り注ぐ。
ドンッ!
見えない巨大なハンマーで叩かれたかのように、フェンリルの巨体が地面にめり込んだ。
「キャインッ!?」
フェンリルが情けない悲鳴を上げ、その場にコロンと転がった。
もがくように手足をバタつかせたが、重圧に抗えず、最後は恐怖に震えながら、お腹を見せる完全服従のポーズをとって固まった。
伝説の魔獣が、ただの「お座り」で降参した瞬間だった。




