第63話 リルの決断
圧倒的な力で四天王を撃退し、今は静けさを取り戻した農場。しかし、その空気はどこか重苦しかった。
四天王があっさりと敗れたという事実は、魔王アスタロトをさらなる暴走へと駆り立てるに違いない。次にやってくるのは、間違いなく魔王本人だ。世界最強の魔力を持つ男が本気で攻めてくれば、この平和な農場もただでは済まないだろう。
リルは、リビングの片隅に置かれた木製の椅子に深く腰掛け、膝を抱えてうつむいていた。
「……やはり、私は帰ったほうがいいのかもしれん。テオ、エリナ。お主らの優しさには本当に感謝しておる。でも、パパが本気になれば、この美しいトマト畑も、あの癒やしの温泉も、すべて灰になってしまう……。私がここにいることは、お主らにとって死を招く災厄でしかないんじゃ」
リルの肩は微かに震えていた。彼女は強がってはいるが、まだ一人の少女なのだ。自分の存在が、大好きな場所に破滅をもたらすかもしれないという恐怖に押しつぶされそうになっていた。
「迷惑だなんて、一度も思ったことないよ」
テオはそっとリルの隣に座り、その頭に優しく、大きな手を置いた。農作業でできた、温かくてごつごつとした手だ。
「リルはさ、本当のところ、どうしたいの? パパのことが、心の底から嫌いになっちゃった?」
テオの問いかけに、リルはしばらくの間沈黙し、やがてぽつりぽつりと話し始めた。
「……嫌いじゃない。パパは、誰よりも私のことを想ってくれている。それは痛いほどわかるんじゃ。でも……その愛が重すぎて、息が詰まりそうなんじゃ。お城にいる私は、ただの『魔王のコレクション』のようで……私が何を考え、何をしたいのか、パパは一度も聞いてくれなかった。ただ、安全な場所に閉じ込めて、至れり尽くせりの世話をすることが、私の幸せだと決めつけて……」
リルは顔を上げ、少し湿った瞳でテオを見つめた。
「私は、ここへ来て初めて『自分の足で歩いている』と感じられた。テオに教わってクワを持ち、大根を自分の手で収穫したとき、体の中から力が湧いてくるのがわかったんじゃ。お風呂上がりのコーヒー牛乳を、自分の稼いだ『労働の対価』として飲むのが、あんなに美味しいなんて知らなかった……。私は、魔王の娘としてではなく、一人の『リル』として、物語を作っていきたいんじゃ」
自立したいという切実な願い。それは人間も魔族も変わらない、尊い魂の成長の証だった。
「わかった。その気持ち、しっかりパパに伝えよう。逃げるんじゃなくて、正面からぶつかって、わからせるんだ」
「聞いてくれるかのう……パパは、私が何か言おうとするとすぐに『よしよし、可愛いね、パパが全部やってあげるからね』って、言葉を遮ってしまうんじゃ」
「大丈夫だよ。口で言ってダメなら、胃袋に訴えかけよう。僕も付き添うからさ」
テオはニカっと、太陽のように明るい笑顔を見せた。
「どんなに頑固な人でも、美味しいご飯を食べれば心が緩む。お腹がいっぱいになれば、少しは人の話を聞く余裕ができるものさ。それがこの農場の、そして僕の信じる唯一のルールなんだ。美味しい料理には、魔法よりも強力な『対話の力』があるんだよ」
最強の魔王を説得する作戦。それは武力闘争ではなく、究極の「おもてなしとお話し合い」だった。テオの揺るぎない自信に、リルの心に宿っていた暗雲が少しずつ晴れていく。
「それに、リルにはここでやりたいことが、まだまだたくさんあるんだろ?」
「うん……! もっと温泉に入って、お肌をピカピカにしたい! テオが言ってた『ラーメン』というやつも食べてみたい! それに、ポチと一緒に広い草原を走り回りたい……!」
「なら、それを堂々と伝えればいい。君の幸せは、誰かに決められるものじゃなくて、君自身が今日ここで感じている『楽しい』の積み重ねなんだって。パパも、君を愛しているなら、最後には笑って許してくれるはずだよ」
テオの言葉に背中を押され、リルは力強く立ち上がった。
「そうじゃな……! 私、戦う。パパの重すぎる親バカと、私の自由のために! しっかりとお説教してやるわい!」
その瞳には、魔王の娘らしい気高さと、一人の少女としての強い熱意、そして次の食事への隠しきれない期待が宿っていた。




