第61話 魔王軍、動く
深い深い魔界の奥底、禍々しくも豪奢な装飾が施された魔王城アビス・キャッスルの朝は、一発の咆哮によって始まった。
魔王アスタロトが、最愛の娘リルの失踪に気づいたのは、毎朝欠かさず行っている「お目覚めパパの愛のキッス」の時間だった。
「リルたん、朝だよ~! パパだよ~! ほーら、今日はリルたんの大好きな虹色トカゲのコンフィを用意したんだよ~……む? おらぬ?」
天蓋付きのベッドは、綺麗に整えられたままで、主の体温はすでに消えていた。
呆然とする魔王の視界に、枕元に置かれた一枚の便箋が飛び込んできた。
そこには、リルの拙いが力強い筆致でこう記されていた。
『パパ、もう探さないでください。私は自由になります。自分の足で、美味しいものを探す旅に出ます』
「リ、リルゥゥゥゥ――ッ!! 家出じゃぁぁぁぁぁッ!!」
魔王の絶叫が、かつてない衝撃波となって魔王城全域を駆け抜けた。
あまりの魔力の奔流に、数百年耐えてきた最高級のステンドグラスが一斉に粉砕され、中庭を散歩していたガーゴイルたちは驚きのあまり石化が解けて転落した。城中に配備された使い魔たちは、その圧力だけで泡を吹いて気絶。魔王の怒りは、物理的な天変地異となって魔界の空を真っ赤に染め上げた。
アスタロトは膝をつき、娘の書き置きを抱きしめて号泣したが、次の瞬間にその目は冷酷な光を宿した。
「リルが自分から出ていくはずがない……。これは誘拐か!? いや、迷宮の悪魔に唆されたか!? 反抗期などという生易しいものではない! 我が最愛の天使(悪魔だけど)を誑かし、家出という過ちを犯させた不届き者がどこかにいるはずだ! そうだ、人間に違いない! あの狡猾で下卑た人間どもが、純真無垢なリルの心に泥を塗ったのじゃぁぁぁぁッ!」
魔王の病的なまでの親バカ思考は、音速を超えて暴走した。
彼は即座に、魔界最強の武力を誇る「四天王」を緊急召喚した。
「火のイフリート! 氷のコキュートス! 風のテンペスト! 地のガイア! 一秒以内にここへ来い! 来なければ貴様らの故郷ごと消し飛ばす!」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、玉座の間には四人の魔将が揃っていた。彼らは突然の招集に戸惑いながらも、魔王の異様な雰囲気に死の気配を感じて跪いた。
「ハッ! 魔王陛下、いかなるご用向きでしょうか!」
「目標は……リルの魔力反応が微かに感じられる場所。地上の王国にある、『深淵のダンジョン』地下50階層じゃ! 貴様ら、全軍を率いて直ちに出撃せよ! 目的はリルの奪還! そして犯人の殲滅! リルの爪の先にでも傷をつけた者がいれば、その血筋ごと無限地獄の刑に処してやるわ!」
四天王たちは顔を見合わせた。たかが一人娘の家出のために、魔界の全戦力を動かすというのか。
「陛下、それは……他国との開戦準備が整っておりませぬ」
「うるせいッ! 我が娘の笑顔に勝る国防など存在せん! 行け! 行かぬなら私が今ここで世界を滅ぼすぞ!」
魔王の眼差しは完全に本気だった。
これ以上逆らえば、主君自身の手で世界が終焉を迎える。
四天王たちは沈痛な面持ちで承諾した。
「御意……。全軍、進軍を開始せよ!」
こうして、漆黒の重鎧に身を包んだ「魔王軍・娘奪還部隊(自称:愛の親衛隊)」が出撃した。
空を真っ黒に埋め尽くすワイバーンの編隊。地響きを立てて大地を割るオーガの大軍。
地上の国々は、突如として魔界の門が開かれ、伝説の四天王が率いる軍勢が姿を現したことに大混乱に陥った。「世界の終わりだ!」「聖騎士団を呼べ!」と叫び声が上がるが、魔王軍は一切の脇目も振らず、ただ一点を目指した。
目指すは、テオの営む平和な農場。
一人の父親の暴走が、何も知らない農夫に最大級の災厄を運ぼうとしていた。




