第3話 命の水
翌朝。
と言っても、ダンジョンの深層に太陽は昇らない。
肌感覚として「朝が来た」と感じて目を覚ました僕を襲ったのは、強烈な喉の渇きだった。
「水……喉が渇いた……」
口の中がカピカピに乾いて張り付いている。
昨夜は興奮状態で気づかなかったが、僕は丸一日何も飲んでいない。
勇者パーティから追放された際、食料だけでなく水筒も全て没収されてしまったからだ。
トマトの種はあるが、育てるにはまず水が必要だ。自分自身が生きていくためにも、最優先事項は水の確保だった。
「探しに行こう」
僕は愛用のクワを杖代わりにして、土の寝床から這い出した。
周囲はまだ薄暗いが、目が慣れてきたのか、ぼんやりと岩の輪郭が見える。
耳を澄ませる。
魔物の足音や唸り声に混じって、水の流れる音がしないか探る。
……聞こえない。
湿気はある。じめじめとした空気の流れを感じる。水はあるはずだ。
30分ほど歩き回っただろうか。
岩壁の一部から、じわりと水が染み出している場所を見つけた。
近づいてみると、岩の窪みに水溜まりができている。
「あった! 水だ!」
僕は喜び勇んで駆け寄った。
しかし、その足は数歩手前で止まった。
「うわぁ……これは……」
そこにあったのは、お世辞にも飲み水とは呼べない代物だった。
茶色く濁り、得体のしれない藻のようなものが浮いている泥水。
鼻を近づけると、ツンとした腐敗臭と、鉄錆のような臭いが混ざった悪臭が漂ってきた。
これをそのまま飲めば、確実にお腹を壊す。最悪の場合、未知の病原菌で命を落とすだろう。
でも、他にあてはない。この広大な迷宮で、清流を探し当てる体力が残っている保証はない。
「どうする……?」
僕は水溜まりを見つめ、そして自分のスキルを思い出した。
【至高の農具】には、いくつかの派生スキルがある。
その一つに、【濾過】があったはずだ。
本来は、農業用水として不適切な水から、農薬や有害な不純物を取り除き、作物に適した純水を作るためのスキルだ。
「やってみる価値はある。いや、やるしかない」
僕は手近な岩をクワで削り取り、即席の器を作った。
そこに慎重に泥水を汲む。
器の中の水は、コーヒー牛乳のように濁っている。
「……スキル発動、【濾過】!」
クワの柄の先を、水面にそっと浸して魔力を流し込む。
イメージするのは、幾重にも重なった大地のフィルター。
砂利、砂、炭。自然の浄化作用を魔法で加速させる。
シュワワワ……。
微かな音と共に、器の中の水が発光した。
茶色い泥成分や藻が、まるで磁石に吸い寄せられるように底へと沈殿していく。
同時に、悪臭が消え、代わりに雨上がりの森のような、清涼な空気が漂い始めた。
「よし……!」
光が収まると、そこには信じられない光景があった。
さっきまで泥水だった液体が、クリスタルのように透き通った真水に変わっていたのだ。
底に溜まった不純物との境界線がくっきりと見える。
僕は震える手で器を持ち上げ、上澄みの部分だけをゆっくりと口に含んだ。
「んぐッ……んぐッ……」
冷たい。
そして、驚くほど甘い。
ただの泥水をろ過しただけのはずなのに、まるで雪解け水のように雑味がなく、まろやかだ。
喉を通る液体が、乾ききった細胞の一つ一つに染み渡り、体に活力が戻ってくるのがわかる。
魔力が込められているせいだろうか、ただの水以上のエネルギーを感じる。
「ふはぁ……生き返った……」
僕はその場にへたり込んだ。
たかが水一杯。でも、それは僕が自分の知恵と力だけで勝ち取った「命の水」だった。
勇者パーティにいた頃、水は魔導師ミランダが魔法で出すのが当たり前だった。
彼女はいつも「感謝して飲みなさいよ」と恩着せがましく言っていた。
でも、あの魔法の水よりも、この泥水から作った一杯の方が、何百倍も美味しく感じるのはなぜだろう。
「水があれば、トマトも育てられる。ここを畑にできる。……いや、この広大なダンジョンすべてを、僕の農場にしてやるんだ」
希望の光が、地下五十階層の暗闇を照らすように、より強く輝き始めた。
僕はろ過して透明になった水を最後の一口まで飲み干し、まだ見ぬ未来の収穫を夢見て、湿った岩肌を背に力強く立ち上がった。
目の前に広がるのは、どこまでも続く漆黒の迷宮。けれど、今の僕にはそこが、豊穣を約束された無限のフロンティアに見えていた。




