第18話 聖女の決意
エリナが、冒険者の間では「死地」と恐れられ、人類未踏の領域とも噂されるダンジョン「深層」へ一人で向かうという、客観的に見れば正気の沙汰とは思えない決意をしたのには、彼女なりの確信と、胸が張り裂けそうなほど切実な理由があった。
事の始まりは数日前に遡る。
ボロボロになったパーティの装備を新調し、ポーションや魔石といった最低限の物資を補給するために一時帰還した冒険者ギルド。その喧騒の中、一人カウンターで落ち込んでいた彼女は、酒場の方から漂ってくる奇妙な噂を耳にしていた。
『おい、聞いたか? 最近、地下40階層より下、あの真っ暗な深淵の方から、信じられないほど濃密で、純粋な魔力の波動が漂ってきているらしいぜ』
『ああ、俺も聞いた。なんというか、魔物の血なまぐさい腐臭じゃなくて、こう……刈り取ったばかりの新鮮な草の匂いや、甘く熟した果実のような、圧倒的な生命力に満ちた匂いだって話だ』
『馬鹿なこと言うな。あんな岩と闇しかないような暗黒の深淵に、そんな瑞々しい生命があるはずないだろう。幻覚キノコの胞子でも吸ったんじゃないか?』
『いや、本当なんだって! 風に乗って、トマトの匂いみたいなのがしたんだ!』
冒険者たちがゲラゲラと笑い飛ばすその噂に、エリナだけは雷に打たれたように硬直し、心臓を射抜かれたような衝撃を受けていた。
トマトの匂い。生命の波動。
さらに、時を同じくして。彼女が生まれながらに持つ、神の意志を受け取るとされる特殊スキル【聖女の啓示】も、数日前から彼女の意識の中に、一つの力強いフレーズを繰り返し刻み続けていたのだ。
『深き淵の底……。絶望の支配する場所に、今まさに、世界を癒やす新たな豊穣の光が満ち溢れようとしている』
並の冒険者や教会の高官なら、「伝説の聖遺物が発掘される前兆か?」「あるいは古の邪神が復活し、その膨大な魔力が漏れ出ているのか?」と、欲得や恐怖を交えて解釈するだろう。実際、ギルド本部や王宮もこの異常事態を重く見て、ランクSの精鋭調査隊の派遣を秘密裏に検討し始めていた。
だが、エリナには直感でわかっていた。その「豊穣の光」の正体が何であるかを。
間違いない。テオさんだ。
誰よりも土を愛し、道端の名もなき野の花に優しく微笑みかけ、どんな過酷な岩場でも必ず緑の新芽を育ててみせた彼。パーティを追放されたあの日、絶望の深淵へと消えていったはずの彼の魔力が、今、深層という極限の環境下で、爆発的に進化し、活性化しているのを、彼女の魂が捉えていたのだ。
「テオさんは生きている。……絶対に、どこかで笑っているわ」
エリナは今、中層の迷い込みやすい複雑な分かれ道に、独り孤高に立っていた。
右の道を選べば、多くの冒険者が行き交う、安全で確実な地上への帰還ルートだ。アレクたちの身勝手なわがままを見捨て、聖女としての地位と名声だけを守って逃げ帰ることもできる。教会に逃げ込めば、これからの安安穏とした生活は保証されるだろう。
対して、左の道は。
地図にも掲載されていない、凶暴な上級魔物が跋扈する深層への未踏の断崖ルート。そこはまさに地獄の入り口であり、単身での生還率は限りなくゼロ、いや、マイナスに近いと言っていいだろう。常識ある者なら一瞥もせずに通り過ぎる道だ。
しかし、彼女は一瞬の躊躇もなく、漆黒の闇に包まれた左の道へと、震える一歩を踏み出した。
(私を本当の意味で守って、心の支えになってくれたのは、いつもアレク様ではなく、テオさんでした……)
激しい乱戦の中、回復魔法の詠唱に集中して無防備になった自分を狙う敵の刃から、ボロボロになりながらも盾となって守ってくれた広い背中。
連日の探索で心身ともに限界を迎え、アレクからの心ない罵倒に隠れて泣きそうになっていた時。どこからか、テオが手品のようにそっと差し出してくれた、甘くて酸っぱい、瑞々しい野生のベリーの味。
彼の深い優しさに、私はずっと甘え続けていた。
それなのに、彼が不当に追放されるその瞬間、私はアレクに抗いきれず、ただ震えて見送ることしかできなかった。
自分の愚かさと弱さが、今の彼女にはどうしても許せなかった。
だから今度は。命を賭けて、私が彼を迎えに行く番なのだ。
「待っていてください、テオさん。……あなたの好きな料理を、今度は私が絶対に作ってあげますから」
エリナは冷たくなった自分の頬を、両手で気合を入れるようにパチンと叩いた。乾いた音が通路に響く。
装備は旅の途中で傷み、残された回復ポーションもわずか数本。聖女の加護があるとはいえ、戦闘職ではない彼女がソロで深層突入をするなど、自殺行為に等しい無謀な暴挙だ。
それでも、彼女の足取りは驚くほど軽く、その瞳には暗闇を貫くほどの強い希望の光が宿っていた。
恋に狂った……いや、恋する乙女の執念は、どんな魔王の呪いよりも強い。彼女の歩みは止まらない。
たとえその執念が、他人から見ればストーカー一歩手前の危うい情熱であったとしても、今の彼女にとっては、それこそが唯一無二の純潔な「愛」だったのである。




