第9話 猫は空中で向きを変える
猫田準は、猫が嫌いだった。
理由を尋ねた生徒には、「名前だけで親近感を要求してくるから」と答える。
猫の方は、猫田に親近感など求めていない。
それでも物理教師の猫田は、年に一度、猫について授業をする。
「猫はなぜ、背中から落としても足から着地できるのか」
教卓の上に、猫のぬいぐるみが置かれていた。
茶色い縞模様で、尻尾だけが不自然に長い。長年使われているらしく、右耳の先が擦れて白くなっている。
猫田はぬいぐるみを逆さまに持った。
「答えられる人」
野々村が手を挙げる。
「猫だから」
「零点」
「じゃあ、根性で着地してるんじゃない?」
「物理に根性論を持ち込むな」
教室に笑いが起きた。
猫田はぬいぐるみを手から離す。
教卓へ頭から落ちた。
「これは猫ではない。綿だ」
「知ってます」
「猫は落下中、前半身と後半身を逆方向へひねる。外から回転を与えられなくても、身体の形を変えて向きを直せる」
猫田は黒板に猫らしき図を描いた。
胴体の中央で二つに分かれ、前足と後ろ足が別々の方向を向いている。
猫というより、折れた毛虫に見えた。
「先生、それ猫ですか」
玲奈が尋ねる。
「物理学上の猫だ」
「生物学上は?」
「たぶん別の何かだ」
また笑いが起きる。
誠は笑えなかった。
黒板の図ではなく、窓の外を見ていた。
教室は四階にある。
校庭では陸上部が準備運動をしている。人の身体が小さく見えた。
その上には屋上がある。
昨日、垂れ幕の交換に立ち会った場所。
「昔、大学の研究室で実験映像を撮ることになってな」
猫田が話を続ける。
「屋上から猫を落としたことがある」
教室の空気が変わった。
「え、最低」
誰かが言った。
「最後まで聞け。屋上といっても、一階の実験棟だ。下には巨大な安全網を張った。猫は指導教員の飼い猫で、網まで二メートルもない」
「それでも嫌です」
玲奈が言う。
「私も二度とやりたくない。猫は無事だったが、そのあと私の手を噛んだ」
「当然じゃないですか」
「その点には同意する」
猫田は右手の甲を見せた。
傷跡は見えない。
本当にあった話なのか、授業用の作り話なのか分からなかった。
「重要なのは、落下する物体が何もできないという思い込みだ。猫は空中でも姿勢を変える。人間の直感は、見たことのない現象に対して驚くほど役に立たない」
猫田は黒板の端へ、いつもの文句を書いた。
> 直感はだいたい落第点だ。
玲奈を屋上へ連れていく。
柵の近くに立たせる。
背中を押す。
映像が、突然浮かんだ。
玲奈の身体が前へ傾く。
両手が空をつかむ。
驚いた顔で振り返る。
重力に引かれ、視界から消える。
猫のように空中で向きを変えることはできない。
できたとしても、助からない。
落下する玲奈のスカートが風で広がった。
髪が上へ流れた。
地面が近づく。
そこで、誠は椅子を引いた。
脚が床を擦り、大きな音を立てる。
全員がこちらを見た。
「五十嵐?」
猫田がチョークを止める。
「すみません」
喉が狭くなっていた。
息を吸っても、胸の奥まで入ってこない。
「気分が悪いので、少し外へ出てもいいですか」
猫田は誠の顔を見て、すぐに頷いた。
「保健室へ行け。一人で大丈夫か」
「はい」
教室を出る。
扉を閉めたところで、背後から声がした。
「先生、私がついていきます」
返事を待たず、玲奈が廊下へ出てきた。
*
「顔、真っ白だよ」
玲奈は誠の腕をつかんだ。
「一人で行ける」
「そう言って階段から落ちたら、猫田先生の授業が伏線みたいになるでしょ」
冗談だった。
誠は笑えなかった。
玲奈を屋上から落とす光景が、まだ頭に残っている。
その玲奈が、誠の腕を支えている。
「本当に大丈夫?」
「少し、息が苦しくなっただけ」
「それは大丈夫じゃないって言うんだけど」
階段の踊り場で、誠は足を止めた。
玲奈が背中をさする。
一定の速さで、ゆっくりと。
「深呼吸できる?」
「うん」
「無理に話さなくていいから」
誠は壁へ手をついた。
冷たい感触が掌に伝わる。
目を閉じる。
息を吸う。
吐く。
背中に、玲奈の手がある。
殺せるはずがない。
はっきりと、そう思った。
どんな理由があっても、この手の持ち主を殺せるはずがない。
「玲奈」
名前が口から出た。
玲奈の手が止まる。
普段は橘さんと呼んでいる。
自分でも気づいたが、訂正できなかった。
「なに?」
玲奈の返事は、少しだけ柔らかくなった。
「明日、学校を休めない?」
玲奈は瞬きをした。
「どうして?」
「理由は言えない」
「またそれ?」
「明日だけでいい」
「明日、何かあるの?」
期限までは、まだ二日以上ある。
明日を休ませても意味はない。
一日休んだところで、翌日には登校する。
自分は何を言っているのか。
「ごめん。今のは忘れて」
玲奈の表情が曇った。
「忘れられる言い方じゃないでしょ」
「体調が悪くて、変なことを言った」
「私に休んでほしいくらい、会長の体調が悪いの?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
答えられない。
玲奈が背中から手を離した。
「話を整理させて」
「それ、言えば待ってもらえる魔法の言葉じゃないよ」
声は怒っていなかった。
怒っていないからこそ、誠は何も返せなかった。
玲奈はしばらく待ち、やがて小さく息を吐いた。
「保健室まで送る」
「もう平気だよ」
「私が平気じゃない」
玲奈は先に階段を下り始めた。
誠は一段遅れてついていく。
玲奈の背中が、目の前にある。
押そうと思えば、手が届く距離だった。
誠は手すりを強く握った。
*
保健室で三十分休み、誠は教室へ戻った。
授業はすでに終わっていた。
机の上に、猫のぬいぐるみが置かれている。
右耳の擦れた、茶色い猫。
腹の上には、付箋が貼られていた。
> 猫は貸す。落とすな。 猫田
その下へ、別の筆跡が書き足されている。
> 人間も落とさないでね。 玲奈
ただの冗談だった。
誠は付箋を剥がせなかった。
ぬいぐるみを鞄へ入れる。
教室の後ろでは、恭介が帰り支度をしていた。
一瞬だけ目が合う。
恭介は何も言わず、鞄を背負って教室を出た。
昨日の尾行に気づいた様子はない。
誠は安堵した。
なぜ安堵したのかは、考えなかった。
*
家へ帰ると、郵便受けから白い封筒が半分はみ出していた。
切手も宛名もない。
誠は周囲を見た。
住宅街の夕方。
犬を散歩させる老人。自転車で走る小学生。向かいの家の庭で洗濯物を取り込む女性。
怪しい人間はいない。
封筒を抜き取る。
中には写真が一枚入っていた。
澪だった。
制服姿で、仕事へ向かう車に乗り込もうとしている。
今日撮影された写真だった。
鞄も、髪形も、今朝見たものと同じだ。
写真の裏に、黒いペンで一行だけ書かれていた。
> 優先順位を間違えないように。
玄関の向こうから、澪の声がした。
「お母さん、今日のご飯なに?」
家にいる。
今は無事だ。
誠は写真を折ろうとした。
指に力を入れたところで、止めた。
証拠は残すべきだった。
二つ折りにした写真を、鞄の一番奥へしまう。
玄関を開ける。
「おかえり、お兄」
澪が廊下の奥から顔を出した。
「ただいま」
「その猫なに?」
鞄から尻尾が出ていた。
「借りた」
「誰に」
誠は答えかけ、やめた。
猫田に、と言えばそれで済む。
それでも、付箋にある玲奈の名前を知られるような気がした。
「学校で」
澪は猫の尻尾をつまんだ。
「お兄がぬいぐるみ持って帰ってくるの、面白」
「返して」
「はいはい」
澪は笑い、リビングへ戻っていく。
写真の中の澪も、数時間前まではこうして笑っていたはずだった。
玲奈を殺せないと思った。
その直後、澪を守れと念を押された。
権藤会は誠の思考を見ているわけではない。
それなのに、迷うたび、迷った方角から先回りされていた。




