第10話 ジャガイモだけの買い物
毒なら、玲奈の顔を見なくて済む。
その考えが浮かんだとき、誠は安心した。
安心した自分に気づき、すぐに気分が悪くなった。
*
家族が寝静まったあと、誠は机の前に座っていた。
時計は午前一時を回っている。
鞄の上には、猫田から借りた猫のぬいぐるみが置かれていた。右耳の先が擦れ、腹には剥がせなかった付箋が残っている。
> 人間も落とさないでね。 玲奈
誠はぬいぐるみを裏返した。
付箋が見えなくなる。
スマートフォンではなく、古いノートパソコンを開いた。
検索履歴を家族と共有することはない。それでも自分の端末で調べる気になれなかった。
父が以前言っていた。
履歴を消す人間は、履歴を消したという履歴を残す。
何の事件についての話だったかは覚えていない。
その言葉だけが残っている。
誠は検索欄へ文字を入力した。
身近な毒物。
しばらく画面を見たあと、すべて消した。
別の言葉を入れる。
食中毒 植物。
こちらなら、家庭科の調べ物にも見える。
何に対して言い訳をしているのか分からなかった。
検索結果には、キノコ、山菜、観葉植物、種子、魚介類が並んだ。
知らない名前ばかりだった。
入手するには山へ行く必要があるもの。季節が違うもの。見分け方が難しいもの。販売記録が残るもの。
一つずつ、候補から消していく。
やがて、見慣れた野菜の名前に行き着いた。
ジャガイモ。
芽や緑色になった部分には、天然の毒性成分が含まれる。
小学校の家庭科でも、芽を取り除くよう教わった。
どこのスーパーでも買える。
家にあっても不自然ではない。
ニュース記事を開く。
学校菜園で育てたジャガイモを食べ、複数の児童が体調を崩した事例。農業団体の注意喚起。食品安全に関する公的な説明。
次に、個人ブログ。
次に、質問サイト。
書かれていることは一致しなかった。
危険だと強調する記事がある。
家庭で問題になる量ではないとする書き込みもある。
加熱すれば安全になるという人間と、加熱だけでは不十分だという人間がいる。
出典のない数字だけが、一人歩きしていた。
誠は公的機関のページへ戻った。
危険性はある。
それ以上のことは、分からない。
分からないことを、都合よく解釈しようとしている自分がいた。
玲奈が体調を崩すだけかもしれない。
味で気づかれるかもしれない。
そもそも口にさせる方法がない。
それでも、屋上から突き落とすよりは現実的に思えた。
手で押さなくていい。
落ちていく姿を見なくていい。
苦しむところさえ見ずに済むかもしれない。
それは殺す方法の優劣ではなかった。
自分が耐えられるかどうかしか考えていない。
誠は検索画面を閉じた。
閉じたあと、紙のノートへ一語だけ書いた。
ソラニン。
文字にすると、それは授業で覚える単語のように見えた。
*
翌日、玲奈は学校を休まなかった。
教室へ入ると、いつもの席に座っていた。
誠が「休めないか」と言ったことには触れない。
父親から転校を勧められていることにも触れなかった。
ただ、誠と目が合ったとき、いつものように手を上げなかった。
その程度の距離が、かえって苦しかった。
昼休み、玲奈は友人たちと弁当を食べている。
卵焼き。
ミニトマト。
鶏肉。
小さなコロッケ。
誠は自分の席から、それを見ていた。
コロッケの中身がジャガイモだと気づく。
視線を外す。
また見る。
玲奈は友人の弁当からブロッコリーを一つもらい、自分のミニトマトと交換した。
食べ物は簡単に人から人へ移る。
玲奈の弁当に何かを入れても、別の人間が食べる可能性がある。
その当たり前の事実を、昨夜は考えていなかった。
誠は箸を置いた。
「食べないの?」
隣の席の野々村が尋ねる。
「食欲なくて」
「もらっていい?」
返事をする前に、野々村が誠の弁当から唐揚げを取った。
「それ、最後に食べようと思ってたんだけど」
「食欲ない人間が順番を主張するなよ」
野々村は笑い、唐揚げを口へ入れる。
誠は、その動きを見ていた。
もし唐揚げに毒が入っていたら。
本来の標的ではなく、野々村が食べる。
殺したい相手の口へ確実に入れることさえ、簡単ではない。
毒なら玲奈の顔を見なくて済む。
その代わり、誰が死ぬのかも見えなくなる。
*
放課後、誠は自宅とは反対方向の電車へ乗った。
三駅先で降りる。
駅前の大型スーパーなら、家族や学校の知り合いに会う可能性は低い。
店へ入り、籠を取る。
野菜売り場は入口のすぐ近くにあった。
ジャガイモは何種類も並んでいる。
男爵。
メークイン。
小袋、大袋、ばら売り。
誠は商品表示を見比べた。
どれを選べばいいのか分からない。
昨夜読んだ情報を思い出す。
芽。
緑色。
未成熟。
店頭の商品は、どれも普通のジャガイモに見えた。
当たり前だった。
スーパーが、危険だと分かる商品を並べるはずがない。
誠は大袋を一つ、籠へ入れた。
持ち上げたとき、底にあった芋が転がる。
乾いた音が、籠の中で響いた。
それだけで周囲の客がこちらを見た気がした。
誰も見ていない。
誠は売り場を離れた。
籠にはジャガイモしか入っていない。
レジへ向かいかけ、立ち止まる。
ジャガイモだけを、遠くのスーパーで買う。
不自然だった。
何を作るのか聞かれたら、答えられない。
カレー。
肉じゃが。
ポテトサラダ。
料理名はいくらでも出てくる。
なら、その材料も買うべきか。
誠は玉ねぎ売り場へ向かった。
一つ籠へ入れる。
次にニンジン。
肉。
カレールウ。
商品を足すほど、言い訳を買っているように思えた。
「五十嵐?」
背後から名前を呼ばれた。
誠の手から、カレールウが落ちた。
床には落ちず、籠の縁に当たって中へ入る。
振り返る。
担任の真壁が立っていた。
片手に買い物籠。中には缶ビール、刺身、洗剤が入っている。
「やっぱり五十嵐だ。こんなところで何してる」
質問の意味は、ただの買い物ではなかった。
学校からも自宅からも離れたスーパーに、なぜいるのか。
誠にはそう聞こえた。
「買い物です」
「見れば分かる」
真壁は誠の籠を覗いた。
最初に視線が止まったのは、底にあるジャガイモだった。
「カレーか」
「はい」
「五十嵐が作るのか?」
「たまには」
「偉いな。先生の高校時代は、カップ麺に卵落としただけで料理した気になってたぞ」
いつもの昔話が始まった。
誠は笑おうとした。
口元がうまく動かなかった。
「先生は夕食ですか」
「見れば分かるだろ」
真壁が籠を持ち上げる。
刺身と缶ビール。
料理をするつもりはないらしい。
「それより、顔色悪いな。また寝てないのか」
「少し勉強していて」
「お前は勉強しすぎだ。たまには手を抜け」
「先生が言っていいんですか」
「担任だから言うんだよ」
真壁はジャガイモの袋へ手を伸ばした。
誠の身体が強張る。
真壁は袋の横に落ちかけていた玉ねぎを直しただけだった。
「最初、ジャガイモだけ籠に入れて歩いてたから、何するのかと思ったよ」
見られていた。
いつからかは分からない。
野菜売り場からかもしれない。
「あとから材料を思い出しました」
「カレー作るのに?」
「久しぶりなので」
真壁は笑った。
「ジャガイモだけ大量に買ってる生徒がいたら、そりゃ覚えるよな」
冗談だった。
教師が生徒へ向ける、何気ない冗談。
誠には、証言に聞こえた。
*
会計を終え、真壁とは店の出口で別れた。
レシートには、購入した商品がすべて印字されている。
ジャガイモ。
玉ねぎ。
ニンジン。
豚肉。
カレールウ。
時刻と店舗名。
誠はレシートを丸め、店先のごみ箱へ入れようとした。
捨てる直前に、手を止める。
レシートを捨てる行為そのものが、証拠を消しているように思えた。
持ち帰れば、家族に見られるかもしれない。
捨てれば、防犯カメラに映っているかもしれない。
どちらを選んでも、意味が生まれる。
誠は丸めたレシートをポケットへ戻した。
買い物袋が重い。
中身は、どこにでもある夕食の材料だった。
それを持つ手だけが、犯罪者のものになりかけていた。




