第11話 毒は死体に残る
「どうしたの、それ」
玄関へ出てきた久美子が、誠の買い物袋を見た。
「カレーを作ろうと思って」
「今日?」
「うん」
「今から?」
壁の時計は午後七時を過ぎている。
久美子は夕食の準備を始めていた。キッチンから、焼いた魚の匂いがする。
「急に食べたくなって」
久美子は袋から飛び出した長ねぎを押し戻す。
「カレーに長ねぎを入れるの?」
「間違えて買った」
「玉ねぎも入ってるけど」
「それは合ってる」
「不思議な買い物ね」
スーパーで、カレー以外の品も適当に籠へ足していた。長ねぎを入れた記憶すらなかった。
久美子は誠の顔を見たあと、身体を横へずらした。
「じゃあ、作ってもらおうかな」
「魚は?」
「明日に回す。久しぶりに息子の料理を食べられるなら、魚も我慢するでしょ」
誠は靴を脱いだ。
逃げ道が一つ消えた。
買っただけで、使うつもりはなかった。
そう言い訳することは、もうできない。
*
ジャガイモを水で洗う。
土が流れ、薄い皮が現れる。
どこにでもあるジャガイモだった。
誠は一つずつ確認した。
目立つ芽はない。表面が緑色になっているものも見当たらない。
スーパーで売られていたのだから当然だった。
昨夜読んだ文章が頭に浮かぶ。
芽や緑色の部分は、厚めに取り除く。
子どもには特に注意する。
苦味やえぐみを感じたら食べない。
それは人を殺すための知識ではない。
人が安全に食べるための知識だった。
誠は包丁を持った。
一つ目の皮をむく。
二つ目。
三つ目。
芽の跡を見つけるたび、包丁の角で深く取り除いた。
危険な部分を集めることはできなかった。
捨てる部分を、さらに小さく切ってごみ箱へ落とす。
「丁寧ねえ」
後ろで久美子が言った。
「家庭科で習ったから」
「お母さんよりちゃんとしてる」
褒められている。
誠は返事をしなかった。
玲奈を殺すために買ったジャガイモから、家族を守るように芽を取っている。
どちらが本当の自分なのか分からない。
どちらも自分だという答えだけは、認めたくなかった。
「手伝おうか?」
「大丈夫」
「そう」
久美子はすぐに引いた。
無理に理由を聞かない。
話したくなれば話すだろうと、待っている。
その信頼が、今は重かった。
*
完成したカレーは、普段より水分が少なかった。
「給食のカレーっぽい」
澪が一口食べて言った。
「褒めてる?」
「八割くらい」
「残り二割は?」
「福神漬けがない」
「買ってきて」
「お兄が作ったんだから、最後まで責任持ってよ」
澪はそう言いながら、二口目を食べた。
猛も黙って匙を進めている。
「どう?」
誠が尋ねる。
猛は飲み込んでから答えた。
「少し辛い」
「辛口だからね」
「そうか」
「他には?」
「ジャガイモが大きい」
「味の感想を聞いてるんだけど」
「うまい」
久美子が笑った。
「最初にそれを言えばいいのに」
「聞かれたことに答えただけだ」
「職業病」
澪が言う。
「お前はその言葉を使いたいだけだろう」
テレビでは、二時間の刑事ドラマが放送されていた。
資産家の老人が食事中に倒れ、病死として片づけられそうになる。若い刑事だけが不審に思い、遺体を詳しく調べるよう主張する場面だった。
画面の刑事が言う。
『毒を使えば、証拠は残らない』
猛が鼻で笑った。
「何がおかしいの」
久美子が尋ねる。
「毒だから証拠が残らない、というところだ」
誠の匙が止まった。
澪はテレビを見たまま言う。
「ドラマなんだからいいじゃん。現実だったら二時間で終わらないでしょ」
「現実は、解剖したから必ず全部分かるわけでもない」
猛はカレーを一口食べた。
「だが、何も分からないとも限らない。急に死んだ人間の身体には、その前に何を食べたか、どこで何が起きたかが残る」
誠は黙って聞いた。
「胃の中とか?」
澪が自分の腹を見る。
「それもある。血液や尿、臓器を調べることもある。症状や現場の状況から、何を検査するか絞っていく」
「お父さん、食事中」
「聞いたのはお前だ」
「そこまで聞いてない」
澪は嫌そうな顔をしながらも、カレーを食べ続けている。
久美子が尋ねた。
「じゃあ、毒殺ってすぐ分かるものなの?」
「すぐとは限らない。見つけにくいものもある。ただ、犯人が思っているほど死体は黙っていない」
猛はテレビへ顎を向けた。
「それに、毒だけ調べるわけじゃない」
「他に何を?」
「誰が買ったか。どこで手に入れたか。何を検索したか。誰が食事へ触れたか」
誠のポケットに、丸めたレシートが入っている。
遠くのスーパー。
防犯カメラ。
真壁の顔。
ノートパソコンの検索履歴。
紙のノートへ書いた、ソラニンの四文字。
「死体が黙っても、周りがしゃべる」
猛が言った。
「嘘は後払いだ。利息がつく」
いつもの口癖だった。
今日だけは、誠へ向けられた警告に聞こえた。
「お兄?」
澪に呼ばれる。
「何?」
「食べないなら、ジャガイモもらうよ」
澪の匙が、誠の皿へ伸びていた。
「駄目」
思ったより強い声が出た。
澪の手が止まる。
久美子と猛も、誠を見る。
「……行儀悪いから」
理由を足した。
「いつも私の皿から取るじゃん」
「それとこれは別」
「何それ」
澪は匙を引っ込めた。
誠の皿にあるジャガイモは、安全だった。
自分で皮をむき、芽を取り、同じ鍋で煮込んだ。
家族全員が同じものを食べている。
それでも、澪に触れられた瞬間、毒物に見えた。
自分がそういう目で見たからだった。
*
夕食後、誠は食器を洗った。
鍋の底には少量のカレーが残っている。
久美子が保存容器を持ってきた。
「明日の朝、食べる?」
「いらない」
「じゃあ、お父さんのお弁当に入れようかな」
「捨てて」
久美子が容器を持ったまま止まった。
「どうして?」
「一晩置くと、味が変わるから」
「カレーは一晩置いた方がおいしいって言わない?」
「衛生的によくないこともある」
「ちゃんと冷蔵庫に入れるわよ」
誠は鍋を見た。
残ったカレーに毒はない。
分かっている。
それなのに、残しておくことに耐えられなかった。
「初めて作ったから、失敗してるかもしれない」
「みんな食べたあとに言う?」
「ごめん」
久美子は誠の顔を見た。
問い詰めず、保存容器を棚へ戻す。
「話したくなったら、台所に来なさい」
水道の音だけが続いた。
「今、台所にいるけど」
誠が言うと、久美子は少し笑った。
「そういう意味じゃないことくらい、分かるでしょう」
誠も笑おうとした。
できなかった。
*
自室へ戻ると、澪がベッドに座っていた。
猫のぬいぐるみを抱えている。
「勝手に入らないで」
「ノックした。返事しなかったの、お兄」
「何か用?」
「最近、変」
誠は鞄を机の横へ置いた。
中には、澪を撮影した写真が入っている。
「寝不足なだけだよ」
「ずっと私のこと見てるし、どこで仕事か聞くし、さっきはカレー取ろうとしただけで怒るし」
「心配してるだけ」
言ってから、失敗したと思った。
澪の表情が変わる。
「何を?」
「仕事が忙しそうだから」
「今に始まったことじゃない」
「受験もあるし」
「それも前から」
誠は答えを探した。
澪が先に言う。
「守ってるつもりなら、先に言って」
「え?」
「勝手に見張られて、勝手に心配されて、何も教えてもらえないの、一番怖いから」
澪は猫のぬいぐるみをベッドへ置いた。
「私、お兄が思ってるより子どもじゃないよ」
部屋を出ていく。
扉が閉まった。
誠は鞄から、玲奈と撮った写真を表示したスマートフォンを取り出した。
澪を守るために、玲奈を見張った。
玲奈を殺さないために、恭介を見張った。
家族を守るために、家族へ何も話さなかった。
誰かを守るたび、その本人から選ぶ権利を奪っている。
誠は机の引き出しから、薄い黒色の手袋を出した。
冬に自転車へ乗るとき使っているものだった。
手にはめる。
そのまま、スマートフォンの画面に触れた。
玲奈の頬の上を、黒い指先が横切る。
毒殺の案は捨てる。
そう決めた。
でも、殺害そのものを捨てたのではなかった。




