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第12話 逃げたい人、逃がさない人

玲奈の席は、朝のホームルームが始まっても空いていた。


鞄もない。


机の横に、いつも下がっている小さな布製のお守りもない。


誠は時計を見る。


八時三十二分。


遅刻なら、担任に連絡が入っているはずだった。


真壁は出席簿を開き、玲奈の名前を見てから教室の扉へ目をやった。


「橘は家庭の事情で遅れる。以上」


家庭の事情。


父親が転校させたのかもしれない。


今日から学校へ来ないのかもしれない。


誠の胸に、安堵が広がった。


玲奈がいなければ殺せない。


自分が何もしなくても、期限は過ぎる。


動画は公開される。


次に浮かんだ事実が、安堵を押し潰した。


澪の顔。


ホテルへ入る十四秒。


公開予約画面。


誠は空席から目を逸らした。


八時四十七分。


教室の扉が開いた。


玲奈が入ってくる。


髪はいつもより乱れ、制服のリボンが少し曲がっていた。教師へ短く頭を下げ、自分の席へ向かう。


誠の前を通るときも、顔を上げなかった。


安堵したのか、失望したのか。


誠には分からなかった。


ただ、空席が埋まった瞬間から、時間がまた動き始めた。


*


一時間目と二時間目の間、玲奈は机へ伏せていた。


友人に話しかけられても、「寝不足」と笑うだけだった。


誠は声をかけなかった。


三時間目の前に、玲奈の方から振り返る。


「今日、放課後空いてる?」


「生徒会がある」


「何時に終わる?」


「五時くらい」


「じゃあ、待ってる」


いつもの軽さがなかった。


「何かあった?」


「放課後に話す」


玲奈は前を向いた。


恭介が教室の後ろから、こちらを見ていた。


誠と目が合う前に、教科書へ視線を落とす。


玲奈が誰と、どこで、何を話すのか。


恭介は知りたがるはずだった。


放課後もついてくるかもしれない。


誠はそう考えた。


玲奈の相談内容より先に、恭介の位置を気にしている。


そのことに気づいても、驚かなかった。


*


生徒会は予定より四十分長引いた。


文化祭実行委員会から、ステージ使用時間の変更申請が三件同時に出されたためだった。


「三団体とも、自分たちだけは変更できると思っています」


福原が申請書を並べる。


「全部通したら、閉会式が夜になるね」


誠は時間表を確認した。


普段なら、それぞれの希望と譲れる条件を聞き、別の案を作る。


今日は数字が頭へ入ってこない。


玲奈が待っている。


期限も待っている。


「会長」


東が呼ぶ。


「要点は?」


「ごめん。もう一度言って」


「これで三度目です」


「何が?」


「同じ説明をするのが」


福原と大鳥羽が手を止めていた。


紬まで、今日は何も探さずに誠を見ている。


「会長、体調悪いんですか」


福原が尋ねる。


「少し寝不足で」


「最近ずっとじゃない?」


大鳥羽が言う。


「睡眠時間は経費で買えないよ」


「だからこそ会長は一回休むべきです」


東は三枚の申請書をまとめた。


「残りはこちらで処理します。帰ってください」


「でも」


「現在の会長は、いる方が非効率です」


言葉は冷たいが、追い出すために言っているのではない。


東は誠の仕事まで引き受けようとしている。


「ありがとう、東」


また名前を呼んだ。


東は一瞬だけ視線を逸らした。


「その代わり、明日は通常どおり働いてくださいよ」


明日。


期限の日だった。


「分かった」


誠は答えた。


*


玲奈は視聴覚室の前で待っていた。


「遅い」


「ごめん」


「生徒会長だから許す」


「五十嵐という一高校生だったら?」


玲奈は少し考えた。


「ジュース一本かな」


いつもの調子に戻ったように見えた。


ただ、笑顔は続かなかった。


視聴覚室は施錠されていた。二人は廊下の突き当たりにあるベンチへ座った。


窓の外には、校庭と、その向こうの市街地が見える。


玲奈はしばらく何も言わなかった。


誠も待った。


「私、今日家を出ようと思う」


最初の言葉は、それだった。


「家出?」


「そんな子どもっぽい言い方しないで」


「家族に何も言わずに出るなら、家出だよ」


「お母さんには言う。たぶん」


「たぶん?」


「言ったら、お父さんに止められるから」


玲奈は膝の上で両手を組んだ。


爪の先が白くなるほど、強く握っている。


「昨日の夜、また転校の話をされた。もう候補の学校まで決めてた」


「どこ?」


「東京。お父さんの知り合いが理事をやってる私立」


遠い。


毎日通うことはできない。


「いつから」


「早ければ来週。向こうの親戚の家から通えって」


「急だね」


「急どころじゃないよ。私に相談する前に、学校へ話を通そうとしてた」


晴臣は玲奈を逃がそうとしている。


権藤会から。


玲奈は理由を知らない。


「行った方がいいと思う?」


昨日の電話と同じ質問だった。


誠は答えなかった。


玲奈は窓の外を見る。


「私、卒業したら映像の学校に行きたいんだ」


「映像?」


「映画とか、ドキュメンタリーとか。撮る方」


玲奈が鞄からスマートフォンを出した。


写真の一覧を開く。


夕方の線路。


雨に濡れた公園の滑り台。


商店街で眠る猫。


風に膨らむ学校の垂れ幕。


誰かの顔を正面から撮った写真は、ほとんどなかった。


「人じゃないんだね」


「人は撮られると、撮られる顔をするから」


玲奈は画面を送る。


古い映画館の入口を、小学生くらいの子どもが覗き込んでいる写真。


「こういうのが好き。本人が自分をどう見せるか考える前の瞬間」


誠は、恭介のスマートフォンを思い出した。


玲奈を隠れて撮る少年。


玲奈も、知らない人間の日常を撮っている。


似ているようで、違う。


玲奈は写真の中へ誰かを閉じ込めたいのではない。


通り過ぎるものを、忘れないために残している。


「お父さんは反対してるの?」


「地元の大学へ行けって。市議の娘が県外へ逃げたって言われるとか、選挙のときに家族が揃ってないと印象が悪いとか」


玲奈は自嘲するように笑った。


「お父さんの写真に、ずっと一緒に写ってろってこと」


誠は晴臣が娘のリボンを直す姿を思い出した。


娘を愛している。


同時に、自分の人生の一部として扱っている。


その二つは矛盾しないのかもしれない。


「東京の親戚じゃなくて、母方の叔母さんのところへ行こうと思ってる」


「どこに住んでるの」


「隣の県。前に、何かあったら来ていいって言ってくれた」


「今日行くの?」


「うん。最低限の荷物は駅のロッカーに入れた」


準備は終わっている。


このまま玲奈が駅へ行けば、朝城市を離れる。


権藤会が知らない場所かもしれない。


少なくとも、明日は学校へ来ない。


助かる可能性がある。


誠は胸の奥が軽くなるのを感じた。


玲奈が自分で逃げる。


自分は何もしていない。


殺さなくて済む。


机の引き出しにある澪の写真が浮かんだ。


制服姿の妹。


裏面の言葉。


――優先順位を間違えないように。


玲奈が逃げたと分かれば、権藤会はどうする。


動画を公開する。


澪を直接狙う。


晴臣への報復として、玲奈の代わりに別の人間を選ぶ。


誠には分からない。


分からないから、行かせることができなかった。


「今日は行かない方がいい」


言葉が出た。


玲奈が誠を見る。


「どうして?」


「急に決めない方がいい」


「急に決めたのはお父さんでしょ。私は、勝手に決められたくないから出るの」


「叔母さんには連絡した?」


「これからする」


「なら、先に話してからでも遅くない」


「連絡したら、お母さんに伝わるかもしれない」


「それでも、行き先も決めずに出るよりはいい」


玲奈の眉が寄る。


「会長まで、お父さんと同じこと言うんだ」


「心配してるだけだよ」


「誰を?」


答えが出なかった。


玲奈を心配している。


澪を心配している。


自分が殺人者になることを心配している。


全部だった。


「玲奈」


名前を呼んだ。


嘘をつく直前の癖だとは、まだ知らない。


「明日まで待って」


「明日?」


「明日の放課後、僕と話してから決めてほしい」


玲奈は誠を見た。


怒っていた目が、少しずつ別の色に変わる。


「何を話すの?」


「今は言えない」


「また秘密?」


「明日、全部話す」


全部話すつもりなどなかった。


明日何をするのかさえ、まだ決めていない。


玲奈は黙っている。


断ってくれればよかった。


誠の言葉を信用せず、そのまま駅へ行ってくれればよかった。


「分かった」


玲奈は言った。


「明日まで待つ」


「本当に?」


「五十嵐くんが、会長としてじゃなくて頼んだんでしょ」


玲奈は立ち上がった。


「でも、明日は逃げないでね」


鞄を肩へ掛け、廊下を歩いていく。


誠は追わなかった。


玲奈は今日、逃げるはずだった。


自分の足で、生き残る可能性のある場所へ向かうはずだった。


それを止めたのは権藤会ではない。


晴臣でもない。


紛れもなく、誠だった。


*


午後六時。


誠のスマートフォンに通知が届いた。


> 残り二十四時間です。


その下に、新しい一文があった。


> 橘玲奈さんは、明日も登校なさるようですね。


誠は画面を見たまま動けなかった。


権藤会は、玲奈が逃げようとしていたことを知っていた。


誠が引き止めたことも知っているのかもしれない。


初めてだった。


昭伸に命じられたからではない。


脅されたからでもない。


誠は自分の言葉で、玲奈を明日の学校へ連れ戻した。

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