第8話 市議会議員の父親
橘玲奈の父親は、写真より若く見えた。
背が高く、濃紺のスーツがよく似合っている。正門で校長と握手を交わす横顔には、選挙ポスターと同じ笑みが浮かんでいた。
朝城市議会議員、橘晴臣。
学校案内日の来賓として、保護者や入学希望者の前で挨拶をすることになっている。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
晴臣はそう言って、校長だけでなく案内役の生徒一人ひとりにも頭を下げた。
誠の番になる。
「生徒会長の五十嵐です。本日はよろしくお願いいたします」
「君が五十嵐くんか」
晴臣が差し出した手を握る。
力は強すぎず、弱すぎない。
「娘から聞いているよ。ずいぶん頼りになる会長だそうだね」
「橘さんには、こちらが助けてもらっています」
「そうか。玲奈は昔から、人の世話ばかり焼きたがる」
晴臣は笑った。
誠も笑みを返した。
この男が権藤会と何をしたのか。
玲奈を殺さなければならないほどの何を、守ろうとしているのか。
握手した手から答えが伝わるはずもなかった。
「会長」
横にいた東が低い声で呼ぶ。
誠は、晴臣の手を握ったままだった。
「失礼しました」
手を離す。
晴臣は気にした様子もなく、次の生徒へ挨拶した。
東が誠の隣へ寄る。
「知り合いですか」
「初対面だよ」
「そうは見えませんでした」
「どう見えた?」
「どちらが先に手を離すか、試しているように」
東はそれだけ言うと、受付の配置確認へ戻った。
誠は自分の右手を見た。
晴臣の掌は、わずかに汗ばんでいた。
*
学校案内日は、午前十時に始まった。
体育館での説明会。校内見学。部活動の紹介。個別相談。
生徒会は案内と誘導を担当する。
福原は受付名簿を管理し、大鳥羽は配布資料の残部を数え、紬は最初の十五分で案内係なのに自分が迷った。
「地図では合ってます」
紬が校内図を広げる。
「地図が上下逆だよ」
誠が直す。
「でも、目的地には着きました」
「ここ、理科準備室だけど」
「目的地を変更します」
付き添っていた中学生が吹き出した。
緊張が解けたらしく、紬はそのまま理科棟から案内を始めた。
いつもの学校行事だった。
違うのは、どこへ行っても晴臣の姿が目に入ることだけだった。
保護者と話す晴臣。
校長と並んで歩く晴臣。
教師に呼び止められ、笑顔で名刺を渡す晴臣。
玲奈と話すときだけ、その笑顔が少し崩れた。
「なんで来るって言わなかったの」
廊下の向こうで、玲奈が父親へ詰め寄っていた。
「学校から正式に頼まれたんだ。断る理由がないだろう」
「私には言えるじゃん」
「驚かせようと思った」
「そういうの、いらない」
玲奈は周囲を気にして、声を抑えている。
晴臣も来賓の顔を崩さなかった。
「帰りは一緒に帰ろう」
「友達と帰るから」
「今日くらい、いいだろう」
「今日だから嫌なの。みんな見てるし」
玲奈が去る。
晴臣は追わなかった。
離れていく娘の背中を見たあと、自分の胸元に触れた。ネクタイの結び目を直したのだと気づくまで、少し時間がかかった。
誠は視線を外した。
*
昼過ぎ、誠は来賓控室へ資料を届けに行った。
部屋の前に着くと、中から晴臣の声が聞こえた。
扉は少し開いている。
「話が違う」
午前中に聞いた、よく通る声ではなかった。
低く、押し殺されている。
誠は扉をノックしかけた手を止めた。
「期日なら守る。そう言ったはずだ」
電話の相手の声は聞こえない。
晴臣は続ける。
「娘は関係ないと言ったはずだ」
誠の指先が冷たくなった。
控室の中で椅子が鳴る。
「待て。切るな。金なら――」
通話が切れたらしい。
晴臣が短く息を吐く。
誠は廊下から離れようとした。
遅かった。
扉が開く。
晴臣と目が合った。
一瞬だけ、知らない男の顔になった。
選挙ポスターにも、玲奈の父親にも見えない顔だった。
すぐに来賓の笑みが戻る。
「五十嵐くん。どうしたのかな」
誠は持っていた封筒を示した。
「午後の進行表です」
「わざわざありがとう」
晴臣が受け取ろうとする。
誠は封筒を離さなかった。
二人の手で、一つの封筒を持つ形になる。
「玲奈さんに、何かあったんですか」
晴臣の笑みが止まった。
「なぜ、そんなことを聞く」
「今の電話が聞こえました」
晴臣は廊下の左右を確認した。
人はいない。
誠の腕をつかみ、控室へ引き入れる。扉が閉まった。
「どこから聞いていた」
握る力が強い。
「最後の方だけです」
「誰かに話したか」
「話していません」
「なら、忘れなさい」
「玲奈さんは危険なんですか」
「君には関係ない」
「同じクラスです」
「だから何だ」
晴臣の声が大きくなった。
直後、自分でそれに気づいたらしい。誠の腕を離し、ネクタイへ手をやる。
「すまない」
声が元へ戻る。
「少し、仕事で揉めているだけだ。娘には関係がない」
「電話では、関係ないと言ったはずだと」
「言葉の綾だよ」
「権藤という人を知っていますか」
晴臣の指が止まった。
ネクタイに触れたまま、誠を見る。
ほんの一秒。
けれど、それで十分だった。
「誰から、その名前を聞いた」
「知っているんですね」
「質問に答えなさい」
「玲奈さんが狙われています」
口にした。
初めて、誰かに話した。
すべてではない。誠が殺せと命じられていることも、澪の動画も伏せている。
それでも秘密の一部を、外へ出した。
晴臣の顔から血の気が引いた。
「何をされた」
「僕は――」
スマートフォンが震えた。
誠は反射的にポケットを押さえた。
晴臣の目が、その動きを追う。
「見せなさい」
「学校からの連絡です」
「今のが?」
誠は答えなかった。
画面を確認する勇気もなかった。
晴臣は一歩近づき、声を落とす。
「五十嵐くん。娘には近づかないでくれ」
「なぜですか」
「君がどこまで知っているか分からない。誰に何を言われたのかも分からない。だからだ」
「玲奈さんを守りたいなら、警察に――」
「警察へは行かない」
拒絶は早かった。
「なぜ」
「君には関係のない話だ」
また同じ言葉だった。
晴臣は扉を開けた。
「聞いたことは忘れなさい。娘にも何も言うな」
誠は廊下へ出された。
扉が閉まる。
ポケットの中で、スマートフォンはもう震えていなかった。
画面を見る。
生徒会のグループ連絡だった。
福原から、配布資料が足りないという報告。
権藤会ではない。
安堵した自分が、ひどく滑稽に思えた。
*
午後の行事が終わると、玲奈は正門脇で父親を待っていた。
一緒に帰ることにしたらしい。
誠は片づけの段ボールを運びながら、二人の前を通った。
「会長」
玲奈に呼び止められる。
晴臣の視線が誠へ向いた。
近づくなと言われたばかりだった。
「今日、どこかでお父さんと話した?」
「進行表を渡したよ」
「それだけ?」
「どうして」
「急に機嫌悪くなったから」
「仕事の電話があったみたいだよ」
誠は晴臣を見なかった。
玲奈が小さく息を吐く。
「また仕事か」
「玲奈」
晴臣がたしなめる。
「だってそうじゃん。学校でも市議会議員。家でも市議会議員」
「ここで話すことじゃない」
「じゃあ、車で話す」
玲奈は不満そうに顔を背けた。
制服の胸元で、細いリボンが少し曲がっている。
晴臣は周囲を一度確認してから、娘へ手を伸ばした。
「動くな」
「何」
「曲がってる」
リボンの結び目を直す。
玲奈は嫌がるかと思ったが、動かなかった。
「子どもじゃないんだけど」
「曲がってるものは、子どもでも大人でも曲がってる」
「そういう話じゃないし」
口では文句を言いながら、玲奈は少し笑っていた。
晴臣も笑った。
娘を道具としか考えていない父親なら、楽だった。
悪人のせいで玲奈が狙われているのなら、その悪人を憎めばいい。
目の前にいるのは、娘のリボンを直す父親だった。
*
帰宅後、玲奈から電話がかかってきた。
通話を選んでくるのは珍しい。
「もしもし」
『会長、今いい?』
「うん」
『お父さんに何言われた?』
「特に何も」
『嘘でしょ。私は帰りの車で、五十嵐くんとは距離を置けって言われた』
誠は黙った。
『あと、学校を変えるかもしれないって』
「転校?」
『急すぎるでしょ。理由を聞いても、将来のためとか、もっと環境のいい学校があるとか。今まで一度も言わなかったのに』
晴臣は、玲奈を逃がそうとしている。
誠はそう理解した。
この学校から玲奈がいなくなれば、殺さずに済む。
明日にでも転校させればいい。
遠くへ行けばいい。
けれど、権藤会がそれを許すだろうか。
玲奈が消えれば、昭伸は澪の動画を公開するかもしれない。
それだけで済む保証もない。
『ねえ、会長』
「何?」
『私がいなくなった方がいいと思う?』
今朝、玲奈が話していた映画を思い出した。
一人を守るために、他の全部を捨てられるか。
今なら答えられる気がした。
一人を選ぶのではない。
誰を捨てるか選ばされるのだ。
「それは――」
声が出なかった。
『会長?』
玲奈は返事を待っている。
誠は、転校した方がいいと言えなかった。
残ってほしいとも言えなかった。
「自分で決めた方がいい」
ようやく出たのは、そんな言葉だった。
電話の向こうで、玲奈が息を吐く。
『それ、会長としての答え?』
「……うん」
『そっか』
通話が終わった。
誠は暗くなった画面を見つめた。
晴臣は玲奈が狙われていると知っている。
警察へは行かない。
娘を逃がそうとしている。
そして権藤会は、晴臣がそう動くことまで予想しているはずだった。
玲奈の父親でさえ、彼女を守る方法を持っていない。
誠が頼ろうとしていた大人は、すでに脅される側にいた。




