第7話 彼女を見ている男
尾行には、近づきすぎてはいけない。
離れすぎてもいけない。
相手が角を曲がるまでは待ち、姿が消えたら歩調を速める。信号を渡るときは同じ集団へ入らず、一つ後ろの集団につく。
文章にすれば簡単だった。
実際にやると、自分の足音ばかりが耳についた。
*
その日の放課後、誠は屋上にいた。
垂れ幕の交換業者が、古い固定具を点検している。作業員は二人。腰に安全帯を巻き、一人が屋上の縁にしゃがみ、もう一人が新しい垂れ幕を広げていた。
白い布に、濃い青色の文字が印刷されている。
祝 県大会出場。
文字は寝かせた状態では読みにくかった。
「右下の金具、やっぱり緩んでますね」
作業員の一人が言った。
東は手にした点検表へ書き込む。
「交換が必要ですか」
「金具はそのままで大丈夫です。支持索の結びをやり直します。布の方は、予定どおり二枚とも交換で」
「お願いします」
誠は屋上の時計を見た。
十六時十二分。
玲奈はまだ校内にいる。
昼休みに、友人と図書室へ行く話をしていた。貸出期限が今日までの本があるらしい。
本人から聞いたのではない。
教室で、前の席から聞こえてきた。
誠はそう区別した。
「会長」
東に呼ばれる。
「聞いていますか」
「ごめん。何?」
「古い垂れ幕は生徒会室へ一時保管します。処分の承認が下りるまで、棚の横へ置いてください」
「分かった」
「急いでいます?」
「別に」
東は誠の腕時計を見た。
「三分で二回、時間を確認しました」
「よく見てるね」
「会長がこれ見よがしに見せているんです」
作業員が新しい布を屋上の縁から下ろした。
風を受けた垂れ幕が大きく膨らみ、やがて校舎の外壁へ沿って落ち着く。
誠は無意識に、布が消えた屋上の縁から一歩離れた。
東は何も言わなかった。
十六時二十八分、作業は終わった。
誠は屋上の鍵を職員室へ返し、鞄を持って昇降口へ向かった。
靴を履き替えていると、玲奈が校舎から出てきた。
友人が二人一緒にいる。
誠は下駄箱の陰で、靴紐を結び直すふりをした。
一度目は、結び目をほどいただけだった。
二度目で結ぶ。
その間に玲奈たちは正門を出た。
誠は二十秒待ってから立ち上がった。
*
玲奈は、友人といるときによく笑った。
笑い声は離れていても分かる。
何を話しているかまでは聞こえない。三人のうち一人が身振りを交えて話し、玲奈が肩を揺らす。もう一人はスマートフォンを見せている。
ただ帰っているだけだった。
誠は道路の反対側を歩いた。
制服姿では目立つ。同じ学校の鞄を持ち、同じ方向へ進んでいる。玲奈が一度振り返れば、見つかるかもしれない。
見つかったら、生徒会の用事だと言えばいい。
近くの商店街について、学校案内用の調査をしている。
嘘はすでに考えてあった。
正門から駅までは、徒歩十二分。
人通りの少ない区間はない。通学路にはコンビニが二軒、学習塾が一軒、交番が一つある。防犯カメラは確認できただけで五台。
誠はそれらを数えた。
玲奈の帰宅経路を確認する。
ノートにはそう書いた。
人通りや防犯カメラを確認するとは書いていない。
それでも目が勝手に拾ってしまう。
駅前で、玲奈は友人二人と別れた。
一人は改札へ入り、もう一人はバス停へ向かう。
玲奈だけが商店街の奥へ進んだ。
誠は距離を広げた。
一人になった分、振り返られる可能性が上がる。
玲奈は書店へ入った。
誠は道路向かいのドラッグストアに入り、窓際の商品棚から様子を見る。
三分。
五分。
店員がこちらを気にし始めたため、歯ブラシを一本手に取った。
必要のない歯ブラシだった。
玲奈が書店から出てくる。
紙袋は持っていない。本を買った様子もない。
店頭に置かれた映画雑誌を読んでいただけらしい。
誠は歯ブラシを棚へ戻しかけ、やめた。
何も買わずに出れば、店員に覚えられる気がした。
会計を済ませる。
外へ出ると、玲奈の姿は角を曲がるところだった。
早足で追う。
角へ着く。
すぐには曲がらず、店のショーウインドーに映る道路の先を確認した。
玲奈は二十メートルほど先を歩いている。
その後ろに、男子生徒がいた。
誠は足を止めた。
同じ学校の制服。
黒いリュック。
少し猫背の歩き方。
三浦恭介だった。
偶然、帰宅方向が同じなのかもしれない。
誠は恭介からさらに距離を取り、二人の後ろについた。
玲奈がコンビニへ入る。
恭介は通り過ぎた。
店から三軒先にある自動販売機の前で立ち止まり、小銭を探すふりをする。
玲奈が店内にいる間、飲み物は買わなかった。
店の自動ドアが開く。
恭介は自動販売機から離れた。
玲奈が歩き出す。
恭介も歩く。
偶然ではなかった。
玲奈はコンビニで買った小さなチョコレートの袋を開け、一つ口へ入れた。
恭介がスマートフォンを取り出す。
画面を見るためではない。
端末を胸の高さに持ち、玲奈へ向けた。
一度。
二度。
指先が画面に触れる。
誠の位置まで、シャッター音は届かなかった。
マナーモードなら音は鳴らない。撮影していると断定はできない。
だが、玲奈が横断歩道で止まるたび、恭介も止まった。
玲奈が歩けば、恭介も歩く。
スマートフォンの角度だけは変わらない。
昇降口で聞いた、乾いた音を思い出した。
あの場にいたのも、恭介だったのかもしれない。
玲奈が誠と撮った写真。
恭介は、自分の端末でも撮っていた。
誠はスマートフォンを出した。
カメラを開き、恭介の後ろ姿を撮る。
画面の中央に、玲奈を撮る恭介がいる。
そのさらに後ろで、誠が恭介を撮っている。
自分のしていることが、恭介と何が違うのか分からなくなった。
誠はスマートフォンを下ろした。
*
住宅街へ入ると、人通りが減った。
玲奈は迷う様子もなく歩いている。
恭介は電柱や駐車中の車を使い、距離を保っていた。
誠より、ずっと慣れている。
今日が初めてではない。
その確信があった。
前方から、作業着姿の男が歩いてきた。
足元がおぼつかない。片手に缶を持っている。
男は玲奈とすれ違う直前に立ち止まった。
「ねえ、ちょっと」
玲奈も止まる。
誠の足が前へ出た。
恭介の身体も動いた。
二人とも、ほとんど同時だった。
しかし玲奈は男を見上げ、道路の向こうを指さした。
「駅なら、そこの角を右です」
「ああ、駅。そう、駅」
男は礼を言い、ふらつきながら歩いていった。
ただ道を聞いただけだった。
玲奈は何事もなかったように歩き出す。
恭介は電柱の陰へ戻った。
玲奈からは見えない。
助けようとしたことも、玲奈は知らない。
誠も歩調を戻した。
自分も同じだった。
ただし、誠が玲奈へ近づこうとした理由は、彼女を守るためだったのか分からない。
ここで見知らぬ男が玲奈を傷つければ、自分が殺さなくて済む。
その考えが一瞬でも浮かばなかったとは言えなかった。
玲奈が一軒の住宅へ入った。
白い外壁。二階建て。表札には橘とある。
門扉が閉まる。
玲奈の姿が見えなくなっても、恭介は帰らなかった。
道路を挟んだ空き地の前で、家を見上げている。
二階の一室に明かりがつく。
カーテンが閉まる前に、玲奈の影が横切った。
恭介のスマートフォンが持ち上がる。
誠は離れた路地から、その姿を見ていた。
五分。
十分。
恭介は動かなかった。
玲奈の帰宅経路を利用するなら、恭介がいる。
人通りの少ない道を選んでも、玲奈は一人にならない。
警察官でも、家族でも、友人でもない。
本人が存在すら知らないストーカーが、毎日後ろを歩いている。
恭介は玲奈を守っているのではない。
見失いたくないだけだ。
それでも結果として、玲奈の護衛になっていた。
誠はノートの内容を思い出した。
> 橘玲奈の帰宅経路を確認する。
確認は終わった。
帰宅途中では殺せない。
そう結論を出した自分に気づき、誠は息を止めた。
殺さないための調査だったはずだ。
いつから、殺せない方法を捨てるための調査に変わったのか。
答えを出せないまま、誠はその場を離れた。
恭介は一度も振り返らなかった。
最後まで、誠の存在には気づかなかった。




