第6話 ターザンはhung
翌朝、玲奈からメッセージが届いた。
> 昨日の写真、消さないでね。
登校中の電車だった。
誠は返信欄を開いた。
写真はすでに権藤会へ送っている。自分の端末にも残っていた。玲奈が笑い、誠の肩へわずかに頭を寄せている。
消すつもりだった。
見られたくないものを消したところで、起きたことはなくならない。澪の動画で分かったはずなのに、また同じことを考えている。
誠は短く返信した。
> 分かった。
すぐに既読がついた。
続けて、笑顔の絵文字が一つ届く。
権藤会からの連絡はなかった。
残り五日と九時間。
数えないようにしても、時刻を見るだけで計算できてしまった。
*
四時間目は英語だった。
掛川アンナは教室へ入るなり、黒板の中央に大きく一語を書いた。
HANG
「今日は、この動詞に人間を一人殺してもらいます」
ざわついていた教室が静かになった。
掛川は父親がイギリス人、母親が日本人の英語教師だった。日本語に不自由はない。それでも、単語を日本語一語へ置き換える教え方を嫌っていた。
「先生、朝から物騒です」
後ろの席の野々村が言った。
「朝ではありません。四時間目です」
「訂正するとこ、そこ?」
掛川は黒板の左側へ、活用を書き足した。
> hang ― hung ― hung
「物を吊るす。何かがぶら下がる。その場合、過去形と過去分詞は'hung'です」
右側には、別の活用を書く。
> hang ― hanged ― hanged
「人を首で吊って殺す、特に絞首刑にする。この意味では、原則として'hanged'を使います」
「同じ単語なのに、殺したときだけ規則変化になるんですか」
玲奈が手を挙げずに尋ねた。
「そうです。英語は、ときどき死者にだけ特別扱いをします」
掛川は二つの例文を書いた。
> Tarzan hung from a vine.
> The criminal was hanged.
「ターザンは蔓にぶら下がった。犯罪者は絞首刑にされた」
野々村がまた手を挙げる。
「ターザンが蔓にぶら下がったまま死んだら、どっちですか」
「首を吊られて処刑されたのでなければ、普通は'hung'です」
「じゃあターザンが犯罪者だったら?」
「罪状ではなく、吊られ方の問題です」
教室に笑いが起きた。
誠は黒板を見た。
ターザンが蔓にぶら下がっている。
子どもの頃に見た絵本では、腰布を巻いた男だった。
なぜか今、頭に浮かんだのはスーツ姿の会社員だった。
朝の駅で見た人々が、鞄を肩に掛けたまま蔓へ飛び移っている。改札の代わりに森を抜け、遅延のアナウンスが木々の間に響く。
先頭の男が社員証を首から下げ、真顔で空中を移動していた。
誠は吹き出した。
自分でも驚くほど、普通に笑い声が出た。
前の席から玲奈が振り返る。
「何?」
「いや」
「絶対何か考えたでしょ」
「現代人がターザンみたいに通勤してるところ」
玲奈は一度黒板を見てから、両手で蔓につかまる仕草をした。
「おはようございまーす、って?」
その動きが妙に真剣で、誠はまた笑った。
掛川の声が飛ぶ。
「五十嵐くん、橘さん。授業中にジャングルへ行かないでください」
「すみません」
二人の声が重なった。
玲奈は前を向きながら、小さく言った。
「今日、初めて普通に笑ったね」
「いつも笑ってるよ」
「会長としてはね」
黒板では、掛川が'hung'へ赤い下線を引いていた。
誠は笑うのをやめた。
玲奈を殺すよう命じられてから、初めて笑った。
その事実に気づくと、さっきまでの想像がひどく不謹慎なものに思えた。
けれど、何に対して不謹慎なのかは分からなかった。
玲奈は、まだ生きている。
*
放課後、生徒会室の机に三枚の写真が並べられていた。
水泳部、放送部、生徒会。
いずれも、校舎の外壁に吊られている表彰垂れ幕を撮影したものだった。
水泳部の垂れ幕は赤い文字が薄れ、放送部のものは下端が風でめくれている。
生徒会の垂れ幕には、県高校生政策提言大会最優秀賞と書かれていた。前年、誠たちが地域交通について提出した企画が受賞したものだ。
「生徒会のだけ、妙に綺麗じゃないですか」
福原が三枚を見比べる。
「取り替えた時期が違うからね」
大鳥羽が見積書を持ち上げた。
「二枚交換でこの値段? 布だよね?」
「屋外用です」
東が答える。
「印刷費より設置費の方が高いですね」
「屋上から下ろすだけじゃないの?」
「その『だけ』を、廉がやりますか」
「命綱代が別に出るなら」
「出ません」
「じゃあ業者に頼もう」
判断が早かった。
週末に中学生向けの学校案内日がある。色褪せた垂れ幕をそのままにしておくのは、外聞が悪いと校長が言い出したらしい。
誠は窓の外を見る。
生徒会室は校舎の最上階にある。
窓から身を乗り出さなくても、風で揺れる垂れ幕の端がときおり視界を横切った。
「去年も固定具が緩んでました」
福原がノートパソコンを確認する。
「六月の議事録にあります。『強風により垂れ幕の右下が外れ、窓を叩いた』」
「あったね」
誠は思い出した。
授業中、校舎中に布の打ちつける音が響いた。教師たちは何の音か分からず、最初は工事だと思っていた。
「取り付け前に、屋上側も点検してもらいます」
東が見積書へ一行書き加える。
「学校案内日の朝、私たちも立ち会いですか」
福原が尋ねた。
「業者が来るのは明日の放課後です。会長と私で十分でしょう」
「私も行きます」
部屋の隅で書類を仕分けていた紬が振り返った。
「高いところ、平気なの?」
「屋上へ行くだけですよね」
「紬の場合、屋上へ着けるかが問題かな」
大鳥羽が言う。
紬は不満そうに、棚から鍵束を取った。
「屋上はこっちです」
「それ、資料倉庫の鍵だけど」
紬が鍵の札を見る。
『第二資料室』と書かれていた。
福原の指が、記録用のキーボードへ伸びる。
「議事録に残します?」
「残さなくていい」
誠と東の声が重なった。
生徒会室に笑いが起きる。
誠も笑おうとした。
英語の授業のときのようには、笑えなかった。
東が見積書を誠の前へ置く。
「明日の立ち会い、問題ありませんか」
「うん」
「屋上の鍵は、職員室から会長が借りてください。業者の到着は十六時です」
「分かった」
誠は書類へ承認印を押した。
垂れ幕の交換。
屋上の鍵。
明日の放課後。
ただの生徒会業務だった。
それ以上の意味はなかった。
少なくとも、そのときは。
*
会議が終わり、福原たちが帰ったあとも、誠は生徒会室に残った。
東は職員室へ書類を届けに行っている。
机の上には、玲奈と撮った写真が表示されたスマートフォンがあった。
三枚目。
玲奈が顔を寄せ、誠もかろうじて笑っている。
彼女の言葉を思い出す。
――今は、五十嵐くんでいいんじゃない?
誠は写真を閉じ、検索画面を開いた。
橘玲奈。
名前を入力する。
市議会議員の娘として、父親と一緒に写った写真が数枚出てきた。中学校の作文コンクール。地域の清掃活動。晴臣の選挙事務所。
どれも、今より少し幼い。
殺す方法を探したわけではない。
玲奈について、自分がどれだけ知っているのか確認したかった。
好きな食べ物。
苦手な教科。
家族構成。
帰宅時間。
よく立ち寄る場所。
知っていることは、ほとんどなかった。
知らない相手を殺せるとは思わなかった。
知れば殺せるのかと考え、すぐに打ち消した。
窓の外で、風が強く吹いた。
色褪せた垂れ幕が持ち上がり、生徒会室の窓を覆った。
一瞬だけ、室内が暗くなる。
布が離れ、夕方の光が戻った。
誠は白紙のノートを開いた。
最初の行に、日付を書く。
その下へ、玲奈の名前を書いた。
さらに一行空けて、明日の予定を書く。
> 橘玲奈の帰宅経路を確認する。
それは殺害計画ではない。
誠はそう定義した。
定義した瞬間、実行できることになった。




