第5話 一緒に写ってください
玲奈を殺さない。
澪の動画も公開させない。
その二つを同時に満たす方法が、どこかにあるはずだった。
一時間目の数学が始まってからも、誠はノートの隅へ小さな文字を書き続けた。
警察へ相談する。
玲奈にすべて話す。
橘晴臣へ接触する。
権藤会の居場所を突き止める。
澪の動画を先に公開し、脅迫材料としての価値をなくす。
家族全員で逃げる。
どの案にも、実行する前に越えなければならない穴があった。
警察に相談すれば、権藤会へ伝わる可能性がある。玲奈へ話せば、彼女が父親か警察へ相談する。晴臣がどんな人間なのか分からない。権藤会の居場所は、二度連れていかれてもつかめなかった。
動画を先に公開する案は、考えた瞬間に線を引いた。
妹の人生を守るために、妹の人生を自分で壊す。
それは解決ではない。
逃げるにしても、どこへ。
澪には仕事があり、猛には警察官としての立場がある。理由も告げず、家族全員を七日間どこかへ隠すことなどできない。
黒板に、教師が二次関数のグラフを描いた。
条件を満たす範囲が、斜線で塗られていく。
誠のノートには、消された選択肢だけが残った。
「五十嵐」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
数学教師がチョークを持ったまま、こちらを見ていた。
「問三。最大値は」
誠は黒板を見る。
式を追う。答えを出すまでに、いつもより二秒余計にかかった。
「十二です」
「正解」
教師が黒板へ向き直る。
前の席に座る玲奈が、肩越しに振り返った。
口だけを動かす。
――危なかったね。
誠は曖昧に笑った。
最大値には正解がある。
玲奈を殺さず、澪も守る方法には、まだ正解がない。
見つかっていないだけだと思いたかった。
*
昼休み、誠は屋上へ続く階段の踊り場にいた。
屋上の扉には鍵がかかっている。窓から入る光だけが、灰色の床を四角く照らしていた。
ここを選んだのは、人が来ないからだった。
勿論、玲奈を落とす場所としてではない。
その考えが浮かんだこと自体に腹が立ち、誠は扉から目を逸らした。
父へ電話するため、連絡先を開く。
『父』の一文字が画面に表示された。
押せばいい。
脅迫されている。妹の動画を握られている。同級生を殺せと言われた。
それだけ伝えれば、猛は動く。
警察官として。父親として。
誠一人では思いつかない方法を、警察なら持っているかもしれない。
発信ボタンへ親指を近づける。
昨夜見せられた資料が脳裏に浮かんだ。
猛の勤務先。
階級。
通勤経路。
権藤会は、父が警察官だと知ったうえで誠を選んでいる。
警察への相談を想定していないはずがなかった。
発信ボタンを押せなかった。
代わりに、猛とのメッセージ画面を開く。
最後のやり取りは三日前だった。
> 帰りに牛乳。
> 了解。
それだけだった。
誠は新しい文章を入力する。
> 相談したいことがある。
送信はしなかった。
文字を一つずつ消す。
階段の下から足音が聞こえた。
反射的にスマートフォンを伏せる。
「やっぱり会長だ」
玲奈が踊り場へ顔を出した。
片手に二本の紙パックを持っている。
「どうしてここに」
「それ、こっちの台詞。珍しいところでさぼってるね」
「少し考え事」
「また正解のない質問?」
玲奈は誠の隣へ座った。
許可を求めない距離だった。
「カフェオレでいい?」
「また賄賂?」
「前のは掃除を代わってくれなかったから、今回は先払い」
紙パックを一本差し出される。
断る理由を探したが、見つからなかった。
受け取る。
「何を通してほしいの」
「教えてほしい」
「何を?」
「最近、何があったのか」
ストローの袋を開ける指が止まった。
玲奈は正面を向いたまま、自分のジュースを振っている。
「何もないよ」
「嘘」
「どうして」
「会長、考え事してるとき、右の親指で左の爪を触るから」
誠は両手を離した。
確かに、右の親指が左手の爪に触れていた。
自分でも知らない癖だった。
「いつから知ってたの」
「一年のときから」
「よく見てるね」
「まあね」
玲奈は笑った。
誠は彼女の横顔を見る。
今ここで話せばいい。
玲奈自身が標的だと知れば、逃げることを選ぶかもしれない。父親と一緒に警察へ行くかもしれない。権藤会の手が届かない場所へ、保護される可能性もある。
ただし、玲奈が動いた瞬間、昭伸たちにも伝わる。
そのとき、澪がどうなるか分からない。
「橘さん」
「うん」
「もし、自分が知らないところで問題に巻き込まれていたら、どうする?」
玲奈が眉を上げた。
「何それ。占い?」
「仮の話」
「問題によるかな」
「逃げた」
「答えるために必要な確認です」
数日前に誠が返した言葉を、そのまま使った。
玲奈は得意そうに笑う。
「困ってるの、会長じゃないの?」
「僕は」
言葉が続かなかった。
玲奈は急かさずに待った。
スマートフォンが震えた。
誠は画面を見た。
送信元は、登録されていない番号だった。
> 本日中に、対象と一緒に写った写真を送ってください。
その下に、残り時間が表示されている。
> 期限まで 六日五時間四十七分
誠は画面を伏せた。
「誰から?」
「生徒会」
東や福原なら、名前が表示される。
玲奈もそれくらい分かるはずだった。
それでも追及しなかった。
「戻ろうか」
誠は立ち上がった。
結局、何も話せなかった。
*
放課後、生徒会室には誠と東だけが残っていた。
福原たちは文化祭実行委員との打ち合わせへ行き、窓の外では運動部の掛け声が響いている。
東は書類へ判を押しながら尋ねた。
「先ほどから、何度スマートフォンを確認しましたか」
「そんなに見てた?」
「十二回までは数えました」
「十三回目は?」
「今です」
誠はスマートフォンを机へ置いた。
「連絡を待ってるんだ」
「誰からですか」
「まだ分からない」
東の手が止まった。
言い方を間違えた。
「生徒会への相談が来るかもしれなくて」
「相談者が分からないのに、連絡が来ることは分かっているんですね」
誠は東の顔を見た。
東は責めているわけではない。ただ、説明の合わない部分を確認しているだけだった。
「話を整理させて」
口癖が出た。
東は数秒待ち、書類へ視線を戻した。
「結構です。要点が決まってから聞きます」
助かったはずなのに、胸が重くなった。
東になら話せるだろうか。
そう考えた直後、机のスマートフォンが震えた。
> 残り二時間です。
誠は立ち上がった。
「今日は先に帰る」
「仕事は終わっていません」
「東に任せてもいい?」
「よくありません」
「ごめん、東。お願いする」
東の名前を呼んだ。
なぜか、そうしなければ嘘を押し通せない気がした。
誠は鞄を持ち、生徒会室を出た。
扉が閉まる直前、東の声が聞こえた。
「そういうことにしておきます」
*
玲奈は、昇降口で友人と話していた。
誠は少し離れた場所で待った。
友人が手を振って去り、玲奈が一人になる。
「橘さん」
呼び止めると、玲奈は驚いて振り返った。
すぐに笑顔になる。
「どうしたの、会長」
「少し頼みがあるんだけど」
「生徒会の?」
「違う」
玲奈の表情がわずかに変わった。
「僕と一緒に、写真を撮ってほしい」
玲奈は何も答えなかった。
聞こえなかったのかと思い、誠は繰り返す。
「二人で写った写真が必要なんだ」
「何に?」
「それは言えない」
「怪しい」
「そうだね」
「かなり怪しい」
「断ってもいい」
断られたらどうするのか、考えていなかった。
無理に頼むのか。理由を作るのか。他の誰かに撮ってもらうのか。
玲奈は誠を見つめたまま、鞄からスマートフォンを取り出した。
「一枚だけ?」
「うん」
「撮り直しは?」
「必要なら」
「じゃあ三枚」
「どうして増えたの」
「一枚目でうまく写れる人なんて、信用できないから」
玲奈は誠の隣へ立った。
肩が触れそうな距離だった。
自分のスマートフォンを前へ伸ばし、画面を確認する。
「会長、もっと寄って」
「これ以上?」
「二人で撮るって言ったの、そっちでしょ」
誠が半歩近づく。
玲奈の髪から、甘い匂いがした。
一枚目。
玲奈だけが笑い、誠は画面を見ている。
二枚目。
誠も笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「固いよ」
玲奈が言う。
「写真、苦手なんだ」
「生徒会の集合写真、いつも普通じゃん」
「あれは生徒会長だから」
「今は?」
誠は答えられなかった。
玲奈が少しだけ顔を寄せる。
「今は、五十嵐くんでいいんじゃない?」
三枚目のシャッター音が鳴った。
ほとんど同時に、別の小さな音が聞こえた。
乾いた、短い音。
誠が振り向く。
昇降口には部活動へ向かう生徒が何人かいる。下駄箱の陰を、一人の男子生徒が通り過ぎた。
顔までは見えなかった。
「どうしたの?」
「今、何か聞こえなかった?」
「靴箱の音じゃない?」
玲奈は撮った写真を確認している。
三枚目を見た瞬間、口元を隠した。
「変だった?」
「違う。会長がちゃんと人間みたいに写ってる」
「普段は何だと思ってるの」
「生徒会長」
玲奈は三枚目だけを誠へ送った。
「これでいい?」
「ありがとう」
「結局、何に使うかは秘密?」
「ごめん」
「じゃあ、一つだけ教えて」
玲奈はスマートフォンを胸元で持った。
「これ、生徒会長として必要な写真?」
誠は、権藤会へ送るためだとは言えなかった。
学校の仕事ではない。
嘘をつくなら、ここだった。
「違う」
玲奈の目が少しだけ大きくなる。
すぐに視線を逸らした。
「そっか」
声が明るくなった。
誠は訂正できなかった。
玲奈と別れ、駅へ向かう途中で写真を送信した。
既読はすぐについた。
昭伸からの返事は、一行だけだった。
> 距離が近いですね。
誠は足を止めた。
写真を見られたことではなく、あの場面そのものを見られていたような気がした。
背後を振り返る。
夕方の歩道を、生徒たちが駅へ向かって歩いている。
その中に、見覚えのある男子生徒の後ろ姿があった。
三浦恭介だった。
恭介は振り返らない。
人混みの中で、スマートフォンを両手で持っていた。
画面に何が映っているのかは、誠の位置からは見えなかった。
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