第4話 橘玲奈を殺してください
翌日、学校へ向かう電車の中で、誠は澪の動画を消した。
削除の確認画面で、一度指が止まった。
証拠は残すべきだった。
脅迫を警察へ届けるなら、送られてきた動画もメッセージも必要になる。消すことに合理的な理由はない。
それでも、消した。
最近削除した項目からも消去する。
画面から動画がなくなったところで、起きたことまでなくなるわけではない。
分かっていた。
分かっていても、保存したまま持ち歩くことはできなかった。
メッセージの記録だけは残した。
削除したのは、澪の姿だけだった。
電車が朝城駅へ着く。
改札へ向かう人の流れに乗りながら、誠は何度も周囲を見た。
スーツ姿の会社員。イヤホンをつけた大学生。小学生の手を引く母親。ホームの柱にもたれてスマートフォンを見る男。
誰がこちらを見ているのか分からない。
誰も見ていないのかもしれない。
その区別がつかないこと自体が、見張られているということだった。
*
一時間目の前、玲奈が誠の机へやってきた。
「会長。昨日、駅にいた?」
誠は顔を上げた。
「どうして」
「似てる人を見た気がしたから。北線のホーム」
昨日、ホテルへ向かうときに使った路線だった。
「何時ごろ?」
「六時くらい。私、反対側の電車に乗ってたんだけど」
「人違いじゃないかな」
玲奈は誠の顔をじっと見た。
嘘を見抜かれた気がした。
数秒後、玲奈は笑う。
「だよね。会長があっち方面に行く用事、なさそうだし」
「橘さんは?」
「映画。友達と」
玲奈は鞄から半券を出した。誰に求められたわけでもないのに、アリバイを示すような動作だった。
「面白かった?」
「途中まで。隣の人が泣きすぎて、そっちが気になっちゃった」
「友達?」
「知らないおじさん」
玲奈は声を潜めた。
「クライマックスで、主人公が恋人のために全部捨てるの。仕事も家族も、自分の将来も」
「極端だね」
「私は好きだったけどな」
「全部捨てるところが?」
「そこまで大事な人がいるところが」
予鈴が鳴った。
玲奈は自分の席へ戻りかけ、途中で振り返った。
「会長なら、どうする?」
「何を?」
「一人を守るために、他の全部を捨てられる?」
答える前に、担任の真壁が教室へ入ってきた。
玲奈は質問を残したまま離れていく。
誠には、答えが分からなかった。
今夜呼び出されることと、玲奈の質問は何の関係もない。
それなのに、胸の奥へ小さな異物を入れられたような感覚が残った。
*
午後七時。
指定された場所は、前夜とは別のコインパーキングだった。
白いワゴン車が、同じように一台だけ停まっている。
後部ドアの前に小宮山が立っていた。
「こんばんは、五十嵐様」
「妹は無事ですか」
「本日もお仕事を終え、ご帰宅なさいました」
「見張っているんですね」
「安全を確認しております」
「頼んでいないのですが」
「頼まれていないことと、必要がないことは別でございます」
小宮山は車のドアを開けた。
前回と同じ位置に、目隠しとヘッドホンが置かれている。
「本日はお茶もご用意しております」
「いりません」
「まだ何も差し出しておりませんが」
誠は黙って車へ乗った。
車が動き出してからも、曲がった回数は数えなかった。
数えていることを知られている。
道順を変えられる。
同じ場所を回っている可能性もある。
もう意味はない。
そう考えて目を閉じたが、最初の右折までの秒数だけは、勝手に頭へ残った。
十八秒。
次の左折までは五十一秒。
数えないと決めても、数えてしまう。
自分の中にあるその部分を、勝には見抜かれていた。
*
目隠しを外すと、前回と同じ部屋だった。
同じ長いテーブル。
同じ位置に座る権藤兄弟。
昭伸の前にはコーヒー。勝の前には、飲み口の開いた缶の炭酸飲料。
違うのは、誠のための椅子が最初から引かれていることだった。
「お掛けください」
昭伸が言う。
誠は座らなかった。
「要求を聞いたら帰ります」
「立ったままでは疲れますよ」
「長居するつもりはありません」
勝が缶を傾ける。
「昨日より威勢いいな、優等生」
「勝」
「分かってるよ。お上品に、だろ」
勝は両手を上げ、椅子の背にもたれた。
昭伸が一冊の薄いファイルをテーブルへ置く。
紺色の表紙だった。
「では、話を始めましょう」
ファイルが誠の方へ滑ってくる。
開くように言われなくても、中身を見るしかなかった。
一枚目は、学校の生徒名簿を印刷したものだった。
顔写真。
氏名。
生年月日。
住所。
保護者名。
写真の少女を、誠は知っていた。
毎朝、教室で会う。
昨日はカフェオレをもらった。
今朝は映画の話をした。
橘玲奈。
誠は次の紙をめくった。
自宅を出る玲奈。
学校へ入る玲奈。
友人と駅を歩く玲奈。
コンビニの前で飲み物を選ぶ玲奈。
日付と時刻が添えられている。
最後の写真は、今日撮影されたものだった。
朝城駅のホーム。
反対側に停車した電車の窓から、玲奈が誰かを見ている。
おそらく、誠を見つけたときの写真だった。
「この人を知っていますね」
昭伸が尋ねた。
「同じクラスです」
「仲はよろしいですか」
「普通です」
「彼女はそう思っていないかもしれません」
誠はファイルを閉じた。
「橘さんが、何をしたんですか」
「何も」
昭伸は即答した。
「では、彼女のお父様が何をしたんですか」
一瞬だけ、昭伸の目が細くなった。
それが答えだった。
「橘晴臣。朝城市議会議員」
誠は名簿に書かれた保護者名を思い出しながら言った。
「あなたたちと、何かあったんですね」
「想像力が豊かでいらっしゃる」
「娘を使って脅すつもりですか」
「いいえ」
昭伸は指を組んだ。
「脅しは、相手に選び直す機会を与える行為です」
「何を言っているんですか」
「橘先生には、すでに選んでいただきました」
部屋の空調が、低い音を立てていた。
昭伸の声は、その音にすら負けそうなほど穏やかだった。
「一週間以内に、橘玲奈さんを殺してください」
言葉の意味は分かった。
一つずつなら、すべて知っている単語だった。
一週間。
橘玲奈。
殺す。
それらが一つの文として、頭に入ってこなかった。
「……何を」
聞き返した声は、自分のものではないように聞こえた。
「聞こえませんでしたか」
「そういう意味で言ったんじゃない」
「では、どのような意味でしょう」
誠はテーブルへ両手をついた。
「できるわけがない」
勝の口元が動く。
笑ったのかと思ったが、違った。
こちらの匂いでも嗅ぐように、鼻から短く息を吸っただけだった。
昭伸は表情を変えない。
「できるかどうかは、お願いの内容と関係ありません」
「断ります」
「承知しました」
あまりに早い返事だった。
誠の方が言葉を失った。
昭伸はタブレットを操作した。
画面に、動画投稿サイトの管理画面が表示される。
非公開設定の動画。
サムネイルには、ホテルへ入る澪と男が映っていた。
タイトル欄には、澪の本名と所属グループ名。
公開予約時刻は、七日後の午後六時。
「あなたが何もなさらなければ、この動画が公開されます」
「予約を解除すればいいだけだ」
「もちろん、こちらで解除できます」
「警察があなたたちを捕まえても解除できる」
「警察が、七日以内に我々全員と、保存されたすべての複製を発見できれば」
「父に話します」
「お父様が警察官であることは存じております」
画面が切り替わる。
猛の顔写真。
勤務先。
階級。
通勤経路。
久美子の買い物先。
澪の学校と仕事場。
自宅の間取りまであった。
誠はタブレットから目を離した。
「僕が橘さんを殺したら、動画を消すんですか」
口にしてから、自分が何を尋ねたのか理解した。
断ったはずだった。
それなのに、条件を確認している。
昭伸も、それに気づいていた。
「約束いたします」
「犯罪者の約束を信じろと?」
「信じていただく必要はございません」
「なら、なぜ従うと思う」
「従わない選択肢も、平等に差し上げています」
「平等?」
誠は声を荒らげた。
「僕に人を殺させるか、妹の人生を壊すか選ばせて、それが平等だと言うんですか」
「選択肢が二つある、という意味です」
昭伸は少しもひるまない。
「公平だとは申し上げておりません」
誠はファイルを押し返した。
「自分たちでやればいい」
「それも可能です」
「だったら、なぜ僕なんだ」
初めて、昭伸が答えるまでに間を置いた。
テーブルの上で、コーヒーの湯気が揺れる。
「あなたなら、できない理由から考えるでしょう?」
誠は昭伸を見た。
「意味が分からない」
「今に分かります」
昭伸はファイルを閉じ、手元へ戻した。
「方法は問いません。事故でも、自殺でも、行方不明でも結構です。ただし、結果はこちらで確認します」
「断ると言った」
「ええ、伺いました」
「絶対にやらない」
「その言葉も伺いました」
「なら――」
「七日後の午後六時までです」
昭伸は会話を終えるように、コーヒーカップを持ち上げた。
「それまで、何度でもお断りください」
*
目隠しをつけられ、部屋から出る。
廊下を歩き、階段を下りる。
最初は十三段。
次が十六段。
誠は数えた。
数えるつもりなどなかったのに。
車へ乗せられる直前、背後から勝の声がした。
「兄貴」
小宮山が誠を止めた。
勝の足音が近づいてくる。
目隠しをされているため、どこに立っているのか分からない。
「こいつ、本当にやんのか?」
「本人は、やらないと仰っています」
「そうじゃなくてよ」
勝の声が、すぐ横から聞こえた。
「別にできねえ顔じゃないんだよな」
誠は拳を握った。
勝は続ける。
「やり方を探してる顔だ」
*
翌朝、教室へ入ると、玲奈は生きていた。
窓際の席で、友人と話している。
笑っている。
机の横には昨日と同じ鞄が下がり、髪はいつものように耳の下で揺れていた。
誠を見つけると、玲奈は手を上げた。
「おはよう、会長」
「……おはよう」
玲奈が首を傾げる。
「顔色悪くない?」
「寝不足なだけ」
「また? 優等生も大変だね」
昨日の朝、澪が言ったのと、ほとんど同じ言葉だった。
玲奈は何も知らない。
あと六日と十時間。
誠は、断ったはずの期限を正確に数えていた。




