第3話 動画の中の妹
帰宅すると、玄関の明かりがついていた。
午前零時二十一分。
誠は音を立てないように鍵を回した。
「四分」
廊下の奥から、猛の声がした。
リビングへ顔を向けると、父がソファに座っていた。テレビは消えている。ローテーブルには、飲みかけの麦茶と読みかけの新聞が置かれていた。
「四分?」
「零時までに帰ると言った」
誠は靴を脱いだ。
「ごめん。店で探すのに時間かかった」
「ノートは」
用意していたはずの答えが、喉に引っかかった。
誠の手には何もない。
駐車場に残してきた紙袋には、大学ノートが入っていた。
あれを持ち帰れば、話は簡単だった。
持ち帰れなかった。
「売り切れてた」
猛は息子の空の手を見た。
「駅前まで行ってか」
「うん」
「どこの店だ」
「駅の南口の」
店名が出てこなかった。
猛はしばらく何も言わなかった。
尋問では、沈黙も質問になる。
父が以前、食卓でそう話していたことを思い出す。
誠は視線を逸らさなかった。
「まあいい」
先に目を外したのは猛だった。
「明日、昼間に買え。夜に出歩くな」
「分かった」
「風呂はもう冷めてるぞ」
猛は新聞を畳み、立ち上がった。
すれ違うとき、誠の頭へ手を伸ばす。
反射的に肩が跳ねた。
猛の手が止まる。
「どうした」
「静電気かと思った」
「まだ触ってないぞ」
「そうだね」
猛は誠の髪から小さな糸くずを取った。
昭伸につかまれた場所が、遅れて痛み始めた。
*
自室のドアを閉める。
鍵はかけなかった。
普段かけない鍵を今夜だけかければ、それ自体が家族への合図になる気がした。
机に座り、スマートフォンを開く。
権藤昭伸。
権藤勝。
小宮山。
覚えている名前を、順番に検索した。
同姓同名の会社役員、格闘家、大学教授。昭伸と勝については、それらしい情報が出てこない。小宮山は名字だけで、下の名前すら分からなかった。
次に、指定されたコインパーキングを地図で開いた。
周辺の道路を確認する。
車内で数えた右左折を再現してみたが、三つ目から先がつながらない。踏切だと思った振動も、実際には道路の継ぎ目だったのかもしれない。
昭伸たちのいた部屋について、覚えているものを書き出す。
木製のテーブル。
壁は淡い灰色。
窓はなかった。
空調の音。
コーヒー。
床は濃い色の絨毯。
階段は最初が十六段、次が十三段。
手掛かりと呼べるものはなかった。
誠は新しいページを開き、動画を再生した。
十四秒。
今度は澪を見ないようにした。
背景だけを見る。
ホテルの看板。
通り過ぎる車。
歩道脇の植え込み。
建物の壁に取り付けられた青い案内板。
動画を一時停止する。
案内板には白い文字が書かれているが、手ぶれで潰れて読めない。
誠は画面を拡大した。
二文字目が「城」に見えた。
朝城。
市内の住所表示かもしれない。
ホテル検索サイトを開き、看板の色と入口の形が似た建物を探す。
十一軒目で、同じものを見つけた。
朝城駅から北へ三駅。繁華街の外れにあるホテルだった。
外観写真を比較する。
入口脇の照明。壁の模様。看板の文字。
一致している。
誠は息を吐いた。
一つ、分かった。
しかし場所が分かっただけだった。
撮影された日時が分からない。隣の男が誰なのかも、二人が中で何をしたのかも分からない。
それでも、何もないよりはよかった。
誠は時刻表を調べた。
明日の放課後に向かえば、午後六時前には着く。
そこまで考えたところで、指が止まった。
なぜ行くのか。
ホテルの従業員に動画を見せて、未成年の妹がこの男と来なかったかと聞くのか。防犯カメラを見せてほしいと頼むのか。撮影日すら分からないのに。
自分が調べていることを、昭伸たちに知られる可能性もある。
誠は検索画面を閉じた。
三秒後、もう一度開いた。
ホテルの住所だけをノートへ書き写した。
*
翌朝、澪は食卓でトーストの耳を残していた。
「食べなさい」
久美子が言う。
「耳だけ焦げてる」
「焦げてないわよ」
「耳を食べると歌が下手になるって、業界では常識だから」
「初めて聞いたわそんなこと」
誠が向かいから言うと、澪はトーストの耳を兄の皿へ置いた。
「芸能人じゃない人には関係ないから」
「都合のいい業界だな」
「お兄、寝不足?」
澪が誠の顔を覗き込む。
「少し」
「夜中まで勉強?」
「まあね」
「優等生は大変ですなあ」
澪は牛乳を飲んだ。
誠は、その手首を見た。
痣はない。指に傷もない。首元にも、服の隙間にも、目につく異変はなかった。
「なに見てるの」
「何も」
「気持ち悪」
「澪」
名前を呼んだ。
澪が顔を上げる。
何と聞けばいいのか、誠には分からなかった。
恋人はいるのか。
男とホテルへ行ったことがあるのか。
誰かに脅されていないか。
どれを選んでも、質問した理由を説明しなければならない。
説明すれば、動画の存在を澪に知らせることになる。
「今日、仕事?」
口から出たのは、別の質問だった。
「放課後から。ラジオの収録」
「どこで」
「お父さんみたいなこと聞くじゃん」
「少し気になっただけ」
澪は目を細めた。
「お兄、もしかして私のファン?」
「違う」
「即答しないでよ」
久美子が笑い、猛は新聞をめくった。
誰も、昨夜の動画を知らない。
澪だけが知っているのかもしれない。
誠はトーストの耳を口へ入れた。
焦げてはいなかった。
*
学校で、誠は何度もスマートフォンを確認した。
新しい連絡はなかった。
一時間目が終わってもない。
昼休みになってもない。
放課後、生徒会室へ向かう途中にも確認した。
何も届いていない。
要求を待っている自分に気づき、嫌になった。
何も起きなければ、それが一番いいはずだった。
昭伸たちが自分の反応を見て満足し、もう連絡してこない可能性だって、ゼロではない。
そう考えるたび、昨夜の言葉が蘇った。
――いずれお願いはいたします。
生徒会室では、福原がパソコンの画面を睨んでいた。
「会長、写真部と新聞部から統合申請が来ました」
「早いね」
「部の正式名称で揉めています」
「候補は?」
「報道写真部と写真報道部」
「同じに見えるけどなぁ」
「当人たちには違うそうです」
「へぇ」
「議事録に残します?」
「それは残して」
いつもの仕事だった。
大鳥羽が予算表へ金額を入力し、紬は今日は何も探していない。東は文化祭実行委員会から届いた書類を確認している。
誠は机に座った。
東が書類から目を上げる。
「会長」
「なに」
「昨日より、瞬きが多いですよ」
誠は自分の目に触れた。
「寝不足かな」
「そういうことにしておきます」
東はそれ以上聞かなかった。
誠は少しだけ安心した。
同時に、聞いてほしかったような気もした。
*
放課後、誠は昨夜特定したホテルへ向かった。
行く理由を決められないまま、電車へ乗った。
何もしないで待つことに耐えられなかった。
駅を出て、地図に従って繁華街を歩く。画面の中にあった植え込みと青い案内板を見つけた。
その先に、ホテルがあった。
動画と同じ入口。
同じ看板。
夕方の明るさの中で見ると、思っていたより古い建物だった。
誠は道路の反対側に立った。
中へ入る人間はいない。
出てくる人間もいない。
自分はここで、何を待っているのか。
澪がもう一度現れることか。
動画の男が現れることか。
どちらも、見たい光景ではなかった。
入口へ向かいかけたとき、スマートフォンが震えた。
写真が一枚届いていた。
ホテルの前に立つ、誠自身の後ろ姿だった。
撮影位置は分からない。
振り向いても、通行人が二人いるだけだった。向かいのビル。停車中の車。カフェの窓際。どこからでも撮れる。
文章が続く。
> 妹さんをお探しですか。
もう一枚、写真が届いた。
ラジオ局の裏口から出てくる澪だった。
隣には女性マネージャーがいる。写真の端に、撮影時刻が表示されていた。
十七時四十二分。
三分前だった。
誠は息を止めた。
自分がホテルを調べている間も、澪は見張られている。
新しいメッセージが表示された。
> お一人で調べるのは自由です。
> ただし、調べている間も妹さんの時間は進みます。
最後に、翌日の時刻と場所が送られてきた。
> 明日、もう一度お迎えに上がります。
誠はホテルの入口を見た。
数歩先にある。
それでも、もう入ることはできなかった。




