第2話 お迎えに上がりました
指定された住所は、朝城駅から二駅離れた場所にあるコインパーキングだった。
時刻は午後十一時。
誠はスマートフォンの画面を閉じ、机の時計を見た。
十時十二分。
階下では、澪がまだ笑っている。
誠はもう一度、十四秒の動画を再生した。
少女の歩幅。鞄の飾り。横顔。男に腰を抱かれたときの反応。
何度見ても澪だった。
編集された形跡を見つけられればよかった。顔だけを合成した映像だとか、よく似た別人だとか、去年失くした鞄を誰かが使っているのだとか。
そういう、都合のいい間違いを探した。
でも、見つからなかった。
画面の中で、澪は男とホテルへ入っていく。
誠は動画を停止した。
保存するべきか迷った。
メッセージが送信者によって消される可能性はある。証拠として残すなら、端末へ保存した方がいい。しかし、自分のスマートフォンにこの動画が存在すること自体が耐えがたかった。
迷った末、保存した。
正しい判断だと思った。
そう思うことにした。
部屋を出ると、洗面所から澪が現れた。顔を洗ったばかりで、前髪の先から水滴が落ちている。
「どこ行くの」
「コンビニ」
誠は澪の名前を呼びかけ、やめた。
「なに」
「プリン、買ってくる」
「今度は名前しっかり書いときなよ」
「消した本人が言うなよ」
澪が笑う。
動画の中の少女と同じ目だった。
同じはずなのに、今は別人に見えた。
「遅いから気をつけなよ」
「澪に言われたくない」
「何それ」
誠は答えずに玄関へ向かった。
リビングでは猛がニュースを見ていた。ソファの背もたれ越しに、息子の姿を確認する。
「どこへ行く」
「コンビニ」
「この時間にか」
「明日のノートがないの、今気づいた」
「何分で戻る」
誠は壁の時計を見た。
本当の目的地まで、電車を乗り継いで三十分ほど。指定時刻に遅れないためには、もう出なければならない。
「少しかかるかも。駅前の店まで行くから」
「近所の店でいいだろ」
「いつも使ってるのがあるんだ」
猛は何か言いかけたが、テレビから自分の勤める署の名前が聞こえ、そちらへ顔を戻した。
「零時までには帰れ」
「分かった」
靴を履きながら、誠は自分の返事を頭の中で聞き直した。
声は震えていなかった。
*
午後十時五十五分。
コインパーキングには、白いワゴン車が一台停まっていた。
街灯が一本、明滅している。周囲には閉店したクリーニング店と、明かりの消えた学習塾。駅前の大通りから離れているため、人通りはほとんどなかった。
誠は入口の手前で立ち止まった。
警察へ連絡するなら、今しかない。
動画もメッセージも残っている。父へ電話すれば、少なくとも一人で行くよりは安全だ。脅迫されているのが澪だと知られたとしても、警察なら保護できるかもしれない。
スマートフォンを握る。
画面に、新しい写真が届いた。
自宅のリビングだった。
カーテン越しに撮られた写真の中央で、澪が冷蔵庫を開けている。時刻は、ほんの数分前。
続けて文章が届く。
> お父様へ電話なさいますか。
誠は周囲を見回した。
誰もいない。
見られているのは、ここにいる自分ではなかった。
家にいる澪だった。
ワゴン車の後部ドアが内側から開いた。
黒いスーツの男が降りてくる。
五十代くらい。白髪の混じった髪を後ろへ撫でつけ、夜の駐車場には不似合いなほど磨かれた靴を履いていた。
「五十嵐誠様ですね」
誠は答えなかった。
「お迎えに上がりました」
男はホテルの従業員のように一礼した。
「動画を送ったのは、あなたですか」
「車内でお待ちの方が、ご説明くださいます」
「妹に何をした」
「そのご質問にも、私からはお答えしかねます」
「名前は」
男はわずかに口元を緩めた。
「小宮山と申します。これで、一つはお答えできました」
車内は暗かった。
後部座席の窓には濃い色のフィルムが貼られ、運転席との間にも仕切りがある。座席には、黒い布とヘッドホンが置かれていた。
「目と耳を塞いでいただきます」
「断ったら?」
「ご自宅までお送りいたします」
丁寧な返事だった。
安全を意味していないことだけは分かった。
誠は車へ乗った。
小宮山が向かいに座り、布を差し出す。
「私がやりましょうか」
「自分でできます」
「左様でございますか」
目隠しを結ぶ。ヘッドホンを着ける前に、誠はドアが閉まる音を聞いた。
車が動き出す。
ヘッドホンからは、波の音が流れていた。
誠は頭の中で秒を数えた。
発進から十二秒で左折。およそ四十秒直進。減速し、右折。路面の細かな振動が消える。舗装の新しい道路へ入ったらしい。
三分ほどで、車体が大きく揺れた。線路を渡った可能性がある。
また右折。
信号で停止。
エンジンの振動とは別に、足元から規則的な低い音が伝わってくる。大型車が多い幹線道路かもしれない。
数える。
覚える。
帰りに逆算すれば、出発地点からのおおよその方向くらいは分かる。
五度目の左折を数えたところで、向かいから何かを差し出された。
手探りで触れる。
紙パックだった。
誠はヘッドホンを少しずらす。
「何ですか」
「お茶でございます」
「いりません」
「左様で」
小宮山の声には、落胆も苛立ちもなかった。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「私に答えられることであれば」
「この車、同じ場所を何度か回っていますか」
沈黙があった。
ほんの半拍。
「熱心でいらっしゃいますね」
「答えになっていません」
「答え合わせをする気はございませんが」
小宮山は誠のヘッドホンを元の位置へ戻した。
波の音が、笑い声の代わりに耳を満たした。
*
車を降りてから、誠は二度階段を上った。
最初は十六段。踊り場を挟み、次は十三段。
床が硬い。小宮山の革靴が鳴る。空調の音が近く、湿気は少ない。倉庫や廃ビルではなく、普段から使われている建物だろう。
背後で扉が閉まった。
「お外しいただいて結構です」
誠は目隠しを取った。
最初に目に入ったのは、長い木製のテーブルだった。
その奥に、二人の男が座っている。
右側の男は、三十代半ばほど。濃紺のスーツに灰色のネクタイ。髪は短く整えられ、細い銀縁眼鏡をかけていた。机の上には書類が揃えて置かれ、横には湯気の立つコーヒーがある。
左側の男は、同じくらいの年齢に見えた。黒いシャツの袖を肘までまくり、椅子へ浅く座っている。右手の拳に古い傷があり、その指でテーブルを一定の間隔で叩いていた。
スーツの男が立ち上がる。
「初めまして、五十嵐誠さん。権藤会へようこそ」
柔らかい声だった。
「権藤昭伸と申します。隣が弟の勝です」
勝は挨拶をせず、誠を上から下まで眺めた。
「座ってください」
昭伸が向かいの椅子を示す。
「動画を消してください」
誠は立ったまま言った。
昭伸は椅子へ戻り、コーヒーを一口飲んだ。
「本物かどうか、まず確認なさらないのですか」
「偽物なら、ここへ呼ぶ必要がない」
勝の指が止まった。
「だとよ、兄貴」
「話が早くて助かります」
昭伸はタブレット端末を操作し、テーブルの上を滑らせた。
画面には、送られてきたものより長い動画が表示されていた。
ホテルへ入る前。男と合流する澪。
建物の横に設置された時計。通り過ぎるタクシー。澪が自分のスマートフォンを確認する姿。
別の角度から撮影された映像もある。
その日の服装を加工で作ったとは考えにくい。背景の時刻も連続している。
誠は画面から目を上げた。
「妹に何をした」
「何も」
昭伸は答えた。
「我々は、撮影しただけです」
「相手の男は」
「それを知って、どうなさるおつもりで?」
「質問に答えてください」
「ここでは私が質問します」
声色は変わらなかった。
誠はタブレットをつかんだ。
次の瞬間、頭皮に痛みが走った。
昭伸がテーブル越しに誠の髪をつかんでいた。
椅子から立った気配すら分からなかった。
髪を引かれ、顔が上を向く。
眼鏡の奥にある昭伸の目は、声ほど柔らかくなかった。
「質問に答えられないことと、質問を許していないことは別です」
数本の髪が抜ける感触がした。
昭伸が手を離す。
誠は一歩下がった。勝が腹を抱えて笑っている。
「いい顔すんなあ、優等生」
「勝」
昭伸が名前を呼ぶと、弟は笑うのをやめた。
誠は乱れた髪を直さなかった。
「要求は何ですか」
昭伸は元の席へ戻った。
「今夜はございません」
「……何?」
「今日はご挨拶だけです」
「こんなことをして、何も要求しないはずがない」
「もちろん、いずれお願いはいたします」
「いつ」
「必要になりましたら」
昭伸はタブレットの画面を消した。
「私どもは、あなたがどのような方なのか知りたかった。そして今夜、少しだけ知ることができました」
「僕を試したんですか」
「まさか」
昭伸は微笑んだ。
「選択肢を差し上げる前に、お顔を拝見したかっただけです」
小宮山が誠の背後へ立つ。
手には、先ほどの目隠しがあった。
「本日のお話は以上でございます」
誠は動かなかった。
「動画を公開するつもりですか」
「それを決めるのは、五十嵐さんです」
「僕は何も決めていない」
「人は、何もしないことも選べます」
昭伸はコーヒーカップへ手を伸ばした。
「その結果まで選べるとは限りませんが」
*
帰りの車でも、誠は秒数と曲がった回数を数えた。
往路と一致しない。
線路らしき振動は二度あった。停止時間も長い。出発地点へ戻るだけなら、明らかに遠回りしている。
それでも数えた。
何もしないよりはましだった。
コインパーキングで降ろされたとき、時刻は午前零時四分だった。
約束を四分過ぎている。
小宮山が車内から紙袋を差し出した。
中には、大学ノートとプリンが二つ入っていた。
「ご家族への言い訳にお使いください」
誠は受け取らなかった。
「いりません」
「左様でございますか」
小宮山は紙袋を足元へ置いた。
後部ドアが閉まりかけたとき、勝が奥から身を乗り出した。
「おい、優等生」
誠は黙って見る。
「お前、怖がってるくせに、帰り道ずっと数えてただろ」
喉の奥が硬くなった。
勝は鼻で一度笑った。
「いいねえ。で、腹ん中は?」
ドアが閉まった。
白いワゴン車は駐車場を出て、夜の道路へ消えた。
足元に残された紙袋から、プリンの容器が透けている。
誠はしばらく動けなかった。
要求はなかった。
期限も、条件も、選択肢も示されなかった。
何をさせられるのか分からない。
だから、拒むこともできない。
誠はその夜初めて、問題には正解がないだけでなく、問題文すら与えられないことがあると知った。




