第1話 正解のある一日
「廃部にするしかないと思います」
一年生の男子がそう言うと、生徒会室の空気が固まった。
窓の外では、県大会出場を祝う垂れ幕が風に揺れている。窓枠に隠れて文字の半分しか見えないが、たしか陸上部のものだ。去年から吊られているせいで、白地が少しくすんでいた。
向かいに座る三年生が机を叩いた。
「こっちは三十年続いてる部なんだぞ。人数が足りないだけで潰すのかよ」
「部員が二人では、部活動として認められません」
「だからって、入ったばかりの一年が――」
「一度、順番に考えましょう」
五十嵐誠が口を挟むと、二人は同時に黙った。
声を張ったわけではない。
誠は大声を出すのが好きではなかった。議論は音量で決まらないし、大声でしか止まらない喧嘩は、止めたあとも大抵しこりが残る。
「写真部に必要なのは、部の名前ですか。それとも、写真を撮れる場所ですか」
三年生が眉を寄せた。
「両方だよ」
「では、名前を残して、場所も残しましょう」
誠は机に置かれた二枚の書類を入れ替えた。
片方は写真部の廃部申請。もう片方は、新聞部が提出した予算増額申請だった。
「新聞部には取材写真を担当する部員がいません。写真部には記事を書く部員がいない。二つを統合して、報道写真部として再申請してください。現在の部室はそのまま使えます。部費も、別々に申請するより通しやすい」
三年生が書類と誠を見比べる。
「でも、それじゃ写真部じゃなくなる」
「校内での正式名称は報道写真部です。ただし、写真部という通称まで禁止する校則はありません」
一年生が小さく「あ」と言った。
三年生はまだ不満そうだったが、やがて椅子へ座り直した。
「……最初から、それでよかったんじゃないか」
「最初に提案していたら、先輩は写真部を奪われると思ったはずです」
「思わねえよ」
「そうですか。すみません」
誠が頭を下げると、三年生は反論する言葉を失った。
二人が生徒会室を出たところで、隣から紙をめくる音がした。
「最初から統合させるつもりだったんですね」
副会長の東早紀は、机に視線を落としたまま言った。
肩に触れない長さで切り揃えた黒髪。銀色の細い腕時計。制服には皺ひとつない。愛想がないと言う生徒もいるが、誠はそう思わなかった。
東は、必要のない愛想を使わないだけだ。
「写真部の相談を聞いたあと、新聞部の申請書を上に置いたでしょう」
「気づいてた?」
「やはりそうでしたか」
「両方とも通った。めでたしめでたし」
「なら、結構です」
東は二枚の書類を揃え、角を机に当てた。
彼女なりの了承だった。
書記の福原奏が、ノートパソコン越しに手を挙げた。
「今のやり取り、議事録に残します?」
「統合案だけでいいよ」
「『三年生、机を強打』は?」
「いらない」
「机は備品ですが」
会計の大鳥羽廉が机の表面を覗き込む。
「傷ついてたら弁償? それ、経費で落ちる?」
「落ちません」
東の返事は早かった。
部屋の隅では、小鳥遊紬が棚を開けたり閉めたりしていた。
「紬、何を探してるの」
「職員室に持っていくファイルです」
「それ、後ろに持ってるけど」
紬が振り返り、自分の左手を見た。
「あ」
福原が無言でキーボードを打つ。
「それも議事録に残さなくていいからね」
誠が言うと、福原は不服そうに一行を消した。
生徒会長の仕事は、正解を出すことではない。
全員が、自分で納得できる答えを選んだと思えるようにすることだ。
少なくとも誠は、そう考えていた。
*
昼休み、教室へ戻ると、誠の机に紙パックのカフェオレが置かれていた。
「お疲れ、会長」
前の席へ腰掛けていた橘玲奈が、ストローの袋を指先で弄んでいる。
「これ、橘さんの?」
「会長への賄賂」
「何を通してほしいの」
「今日の掃除、代わって」
「返すよ」
「冗談だって」
玲奈が笑った。
耳の下で揺れる髪は、毛先だけが少し明るい。校則違反だと注意するほどではないし、本人は地毛だと言い張っている。
玲奈はクラスの中心にいる。
ただし、中心に立ちたがるタイプではない。話の輪から外れている人間を見つけて、いつの間にか中へ引っ張り込んでいる。気がつけば周囲に人がいる。それだけだった。
「ねえ、会長」
「なに」
「会長って、正解がない質問にも答えられる?」
唐突な問いだった。
誠はストローを紙パックへ刺しながら、玲奈の顔を見る。
「質問によるかな」
「もう、そうやって逃げる」
「答えるために必要な確認だよ」
「そういうところ、本当に会長だよね」
玲奈は呆れたように笑ったが、少しだけ残念そうにも見えた。
「質問は?」
「もういい。今ので答え分かったから」
「何が分かったの」
「秘密」
玲奈が自分の席へ戻っていく。
その先で、三浦恭介がスマートフォンを伏せた。
目が合うと、恭介はすぐ窓の外を向いた。
誠は気に留めなかった。
恭介とは一年の頃から同じクラスだが、まともに話した回数は片手で足りる。無口というより、人に話しかける必要を感じていないような少年だった。
玲奈が近くを通るときだけ、顔を上げる。
好意があるのだろうと誠は思っていた。
分かりやすいのに、玲奈本人は気づいていないらしい。
「五十嵐」
担任の真壁が教室の後ろから呼んだ。
「午後の進路講演、講師が一本早い電車で着くらしい。出迎えを頼めるか」
「分かりました。場所は正面玄関でいいですか」
「助かる。先生の高校時代は、講演なんか全部寝てたけどな」
「その話、講師の先生にはしないでくださいね」
「するわけないだろ」
真壁は笑いながら教室を出ていった。
玲奈が離れた席から口だけを動かす。
――会長、大人気。
誠はもらったカフェオレを持ち上げて返事の代わりにした。
その日の問題も、すべて片づいた。
進路講演は予定どおりに始まり、写真部と新聞部は統合案を持ち帰り、生徒会の未処理書類は残り三枚まで減った。
正解のある一日だった。
*
「お兄、そこどいて」
帰宅した誠がリビングの扉を開けるなり、妹の澪が言った。
「おかえりより先に?」
「おかえり。どいて」
「何で」
「テレビ見えない」
ソファに寝転がった澪は、学校指定のジャージ姿でポテトチップスを食べていた。
テーブルの上には、澪が笑顔で映る菓子のパッケージが置かれている。テレビでも同じ顔の澪が、新曲の宣伝をしていた。
画面の中では、日本中が知るトップアイドル。
画面の前では、兄の腹を足で押して退かそうとする中学三年生。
「その姿、ファンに見せたいな」
「見せたら事務所がお兄を消すよ」
「怖い会社だね」
「業界最大手なめんな」
澪は袋の底に残った欠片を口へ流し込んだ。
「それ、僕が買っておいたやつだけど」
「名前書いてなかったし」
「冷蔵庫のプリンには書いたよね」
「油性ペンって除光液で消えるんだよ。いい勉強になったね」
キッチンから、久美子が顔を出す。
「喧嘩するなら、ご飯が冷める前にして」
「普通、やめなさいじゃない?」
「お母さんは勝てる方につくから」
「じゃあ僕だ」
「澪ね」
即答だった。
洗面所から猛が戻ってくる。制服から部屋着へ着替えても、警察官らしい角張った立ち姿は変わらない。
「誠。土曜は学校か」
「午前だけ。生徒会」
「何時から、誰と、何時までだ」
澪が箸を並べながら笑う。
「まーた取り調べ始まった」
「予定を聞いただけだ」
「お父さん、それを職業病って言うんだよ?」
「お前には聞いてない。どうせマネージャーと一緒だろ」
「ちょっと関心に差がありすぎない?」
くだらない会話が続いた。
食卓では、猛が地域の不審電話について話し、久美子が近所のスーパーの特売について話し、澪が収録で共演した芸人の悪口を話した。
誠は必要なところで笑い、質問されれば答えた。
いつもの夕食だった。
食後、自室へ戻った誠は、生徒会の連絡を確認してから机に向かった。
英単語帳を開く。
二ページ進んだところで、スマートフォンが震えた。
登録されていない番号から、動画が届いていた。
再生時間は十四秒。
迷惑メッセージだと思い、削除しかける。
表示されたサムネイルに見覚えのある鞄が映っていた。
澪が仕事で使っている、黒い小さなショルダーバッグだった。
誠は動画を再生した。
夜の繁華街。
手ぶれした画面の奥を、帽子とマスクで顔を隠した少女が歩いている。隣には背の高い男がいた。
少女が一瞬だけ横を向く。
マスクから出ている目。
耳にかかった髪。
鞄につけられた、誠が去年の誕生日に贈った銀色の飾り。
映像の中の少女は、五十嵐澪だった。
男が澪の腰へ手を回す。
澪は振り払わない。
二人の前に、派手な照明で縁取られた入口が現れる。澪は周囲を一度だけ確認し、男と一緒に中へ入っていった。
看板に書かれた文字が、画面を横切る。
HOTEL。
そこで動画は終わった。
階下から、澪の笑い声が聞こえた。
お気に入りのバラエティ番組を見ているようだった。いつもどおりの、遠慮のない笑い方だった。
新しいメッセージが表示された。
> 生徒会長にも、解けない問題はありますか。
続けて、住所と時刻が送られてくる。
最後の一文を読んだ瞬間、誠の指から温度が消えた。
> 続きが見たければ、一人で来い。




