第16話 見ていただけ
三浦恭介は、写真を消さない。
失敗した写真も、指が写り込んだ写真も、暗くて何も見えない写真も消さない。
失敗した瞬間だけが、なかったことになるのが嫌だった。
玲奈を初めて撮った一枚も、手ぶれしている。
一年生の五月。
教室の窓際で、玲奈が髪を結び直していた。
恭介は風景を撮るふりをして、シャッターを押した。
あとで見返すと、玲奈の顔は半分しか写っていなかった。
それでも消さなかった。
あの日から、写真は増え続けた。
笑っている玲奈。
眠そうな玲奈。
怒っている玲奈。
コンビニでチョコレートを買う玲奈。
交差点で信号を待つ玲奈。
自宅の門を閉める玲奈。
本人に見せるつもりはなかった。
許可がないことも知っていた。
だから誰にも見せない。
恭介の中では、それが配慮になっていた。
*
玲奈が恭介の名前を初めて呼んだのは、一年生の六月だった。
「三浦くん、これ落としたよ」
拾った消しゴムを渡されただけだった。
恭介は礼もまともに言えなかった。
玲奈はすぐに友人のところへ戻った。
それでも、名前を覚えられていた。
クラスの端にいる自分を、玲奈だけは見つけた。
そう思った。
本当は、消しゴムの側面に名前を書いていた。
そのことに気づいたのは、ずっとあとだった。
気づいてからも、最初の解釈を捨てられなかった。
玲奈は誰にでも話しかける。
誰にでも笑う。
五十嵐誠には、少しだけ長く笑う。
それも、見ていれば分かった。
見ていれば、何でも分かる。
恭介はそう信じていた。
話しかければ、言葉を間違える。
近づけば、嫌われる。
告白すれば、今の距離さえ失う。
見ているだけなら、失敗しない。
玲奈から何も奪わない。
だから恭介は、見ていた。
教室でも。
帰り道でも。
家の前でも。
玲奈が知らない場所から、玲奈を守っていた。
*
その日の朝、玲奈はいつもと違った。
何度も五十嵐誠を見ていた。
朝礼の最中も、壇上へ目を向けていた。
生徒会長が話しているのだから、当然かもしれない。
だが、恭介には違いが分かった。
玲奈は誠を見るとき、少しだけ唇を結ぶ。
笑わないように我慢している顔だった。
誠は玲奈を見なかった。
少なくとも、恭介が見ている間は。
それが少しだけ嬉しかった。
昼休み、恭介は自分の席で弁当を開いた。
玲奈が友人と購買へ向かう。
ついていきたい気持ちはあった。
だが毎回動けば、不自然に思われる。
見ていることを気づかれてはいけない。
気づかれなければ、嫌われることもない。
恭介が箸を持ったところで、野々村に呼ばれた。
「三浦、廊下。先生が探してた」
廊下へ出たが、教師はいなかった。
職員室まで行くと、誰も恭介を呼んでいないと言われた。
教室へ戻り、野々村を見る。
「悪い。隣のクラスの三浦だったかも」
「隣に三浦はいない」
「じゃ、誰だっけ」
野々村は笑った。
恭介は笑わなかった。
自分の席へ戻る。
弁当箱は開いたままだった。
箸の位置も、出る前と変わっていない。
誰も触っていない。
そう思った。
玲奈が戻ってくる前に食べ終えた。
味は覚えていない。
*
五時間目、腹は痛くならなかった。
六時間目、教師に当てられた。
黒板の英文を訳す。
正解だった。
席に座り、水を飲む。
玲奈が斜め前でノートを取っている。
誠は窓の外を見ていた。
恭介は二人を同時に視界へ入れた。
五十嵐誠が嫌いだった。
嫌う理由がないから、余計に嫌いだった。
成績がいい。
教師に信頼されている。
生徒会長で、誰にでも感じがいい。
恭介のような相手にも、必要があれば同じ声で話す。
玲奈が好きになるなら、ああいう人間なのだろう。
分かっていた。
だから、誠が玲奈を好きでないことだけを願っていた。
片方だけなら、まだ何も始まらない。
何も始まらなければ、終わりもしない。
六時間目の終了を告げる鐘が鳴った。
担任が教室を出る。
玲奈の友人たちが席の周りへ集まった。
恭介は帰り支度をしながら、会話を聞く。
進路希望調査。
予備校。
週末に公開される映画。
いつもの話だった。
玲奈が一度、廊下へ出た。
恭介は教科書を鞄へ入れていた。
追わなかった。
すぐに戻ってくると思った。
実際、玲奈は一分もしないうちに戻ってきた。
その頬が少し赤いことには気づいた。
理由までは分からなかった。
*
玲奈は、いつもより遅く教室を出た。
恭介も少し間を置いて立つ。
玲奈は昇降口へ向かわなかった。
階段を上った。
三階。
四階。
校舎の最上階へ向かっている。
恭介は距離を空けた。
玲奈が振り返るたび、踊り場の陰へ隠れる。
誰かを警戒している。
そう見えた。
あとから考えれば、誰にも見られないようにしていたのだろう。
だがそのときの恭介には、自分以外の誰かを警戒しているように思えた。
だから、追った。
守らなければならないと思った。
玲奈は屋上へ続く階段を上がった。
普段は施錠されている扉が開く。
金属の扉が閉まる音。
恭介は下の踊り場で止まった。
屋上には、誰かがいる。
そう考えるのが普通だった。
それでも、玲奈が一人になりたいだけかもしれない。
すぐ追えば、見つかる。
見つかれば、なぜここにいるのかを説明しなければならない。
たまたま。
通りかかった。
その言い訳は、屋上の手前では通用しない。
恭介は待った。
一分。
二分。
もっと長かったかもしれない。
校舎の時計は見えなかった。
上から声は聞こえない。
風が扉を押す音だけがした。
恭介は一段上がった。
足音が階段に響く。
一段。
また一段。
できるだけ音を立てないように歩いた。
それでも、古い階段は靴底の音を大きく返した。
扉まで、あと数段。
短い声が聞こえた。
玲奈の声だった。
何を言ったのかは分からない。
続けて、悲鳴。
風に切られ、すぐに消えた。
恭介は走った。
残りの階段を駆け上がる。
扉を押し開けた。
「玲奈!」
屋上には、誰もいなかった。
風だけが吹いている。
恭介は扉の裏を見る。
給水設備の陰を見る。
山側の柵へ向かう。
足元に、玲奈の鞄が落ちていた。
教科書が一冊、半分だけ飛び出している。
「玲奈」
返事はない。
恭介は柵へ近づいた。
下を見る。
最初に見えたのは、片方だけ脱げた靴だった。
その少し先に、玲奈が倒れている。
腕が、人間の曲がり方ではない方向を向いていた。
頭の周りに、赤いものが広がっている。
恭介は息を吸った。
声が出なかった。
柵をつかんだ指から力が抜ける。
玲奈。
呼ばなければならない。
助けなければならない。
下へ行かなければならない。
頭の中に言葉だけが並び、身体は動かなかった。
誰かがいた。
恭介が階段を上がっている間に、玲奈を落とした誰かがいた。
だが屋上にはいない。
扉は一つしかない。
自分は階段にいた。
誰ともすれ違っていない。
では、誰が。
考えようとした瞬間、別の答えが浮かんだ。
この場を誰かに見られたら、自分が落としたと思われる。
玲奈を毎日見ていた。
帰り道を追っていた。
写真を撮っていた。
スマートフォンには、説明できない写真が何百枚もある。
恭介は柵から離れた。
違う。
自分ではない。
そう言えば分かってもらえる。
分かってもらえるはずだった。
それなのに、足は扉へ向かっていた。
逃げたのではない。
下へ行こうとしただけだ。
警察を呼ぶために。
玲奈のところへ行くために。
恭介は何度も、自分へそう言った。
*
階段を下りたところで、教師三人と鉢合わせた。
物理教師の猫田。
学年主任。
知らない若い教師。
「三浦?」
猫田が名前を呼んだ。
恭介は答えられなかった。
「今の音、何だ」
学年主任が階段の上を見る。
「お前、屋上にいたのか」
「違う」
最初に出た言葉が、それだった。
三人の顔が変わった。
何も尋ねられていないのに、否定した。
「何が違う」
「俺じゃない」
「三浦、落ち着け」
「俺じゃない!」
猫田が肩をつかむ。
恭介は振り払った。
若い教師が反対側の腕をつかむ。
「離せ!」
「誰か、警察を呼べ!」
「下に玲奈がいる! 早く行けよ!」
教師たちの動きが止まった。
猫田が、ゆっくりと尋ねる。
「橘が、どうした」
恭介は自分が何を言ったのか、そこで気づいた。
屋上から下を見なければ、分からないことだった。
「落ちた」
「見たのか」
「違う。俺が行ったときには」
「何をした」
「何もしてない!」
廊下に生徒が集まり始める。
スマートフォンを向ける者もいた。
恭介は教師に両腕をつかまれたまま、その一つ一つを見た。
ずっと自分は撮る側だと思い込んでいた。
三浦恭介はその瞬間、初めて撮られる側になった。
*
警察官は、恭介の話を最後まで聞かなかった。
聞いてはいたのかもしれない。
信じなかっただけで。
屋上へ上がった理由を尋ねられた。
玲奈を見かけたから。
なぜ追ったのか。
心配だったから。
普段から追っていたのか。
守るために。
写真はなぜ撮った。
好きだったから。
答えるたび、自分の首へ縄をかけているようだった。
「ストーカー行為をしていたことは認めます」
恭介は言った。
その言葉を口にしたのは初めてだった。
見守っていた。
守っていた。
ただ好きだった。
いくら別の言葉を重ねても、他人から見れば同じだった。
「でも、殺してない」
誰も答えなかった。
手首に金属が触れた。
冷たかった。
手錠が閉じる音は、カメラのシャッターに似ていた。
一度鳴れば、その瞬間だけを切り取る。
前後に何があっても、写らない。
教師に囲まれた恭介。
屋上から下りてきた恭介。
玲奈を追い続けていた恭介。
その写真の中に、玲奈を殺した誰かはいない。
「俺じゃない」
恭介はもう一度言った。
今度は、誰もこちらを見なかった。




