第17話 殺人犯はhung
重さが消えた。
一瞬遅れて、玲奈の悲鳴が落ちていく。
誠は柵から手を離した。
下を見なかった。
見なくても分かった。
風に切られた悲鳴。
何かが植え込みへ触れる音。
そのあとに響いた、硬くて重い音。
人間一人が地面へ落ちた音だった。
階段から、足音が近づいてくる。
さっきまで慎重だった音が、今は走っていた。
誠は動けなかった。
玲奈の指が、まだ肩に残っている。
最後に呼ばれた声も残っている。
会長。
扉の向こうで、靴底が踊り場を蹴った。
誠は走った。
屋上の扉とは反対側へ向かう。
朝から置いてあった黒い鞄をつかみ、ファスナーを開けた。
中に入っているのは、古い垂れ幕だった。
前日まで生徒会室に保管されていたもの。
朝、誰も来ないうちに運び出した。
屋外用の厚い布は、畳んでも教科書十冊分ほどの大きさがある。
その両端には、取り外された支持索を結んであった。
布の途中にも、いくつか大きな結び目を作っている。
昨日、誠が状態を確認していたのは、布が破れないかを見るためだった。
今朝、屋上へ来たのは、写真を撮るためだけではなかった。
垂れ幕の片端を、既存の固定部へつないだ。
下から短い索を引けば、最後に外せるようにもした。
理屈では、できる。
自分の体重を預けたことは、一度もない。
誠は黒い鞄を捨て、垂れ幕の束を屋上の外へ押し出した。
布が広がりながら落ちる。
色褪せた文字が、校舎の壁を滑った。
県高校生政策提言大会最優秀賞。
去年の誠たちが手に入れた表彰だった。
今年の誠が、殺人現場から逃げるために使う。
屋上の扉が軋んだ。
誠は柵をまたいだ。
足の下には何もない。
両手で垂れ幕の端をつかみ、身体を外へ出す。
布が体重を受けた。
固定部から短い音がした。
外れない。
破れない。
少なくとも、今は。
誠は手を下へ移した。
一つ目の結び目。
足をかける。
身体が屋上の縁より下へ沈む。
直後、扉が開いた。
「玲奈!」
恭介の声だった。
誠は息を止めた。
屋上からは、垂れ幕をつかむ両手の先だけが出ている。
それも、縁の陰に隠れているはずだった。
確認はできない。
顔を上げれば見つかる。
誠は次の結び目へ手を伸ばした。
黒い手袋が、古い布の上を滑る。
足場がない。
壁を蹴ると、身体が外側へ振られた。
布が軋む。
喉から声が出そうになる。
噛み殺す。
恭介が屋上を走っている。
給水設備の方へ向かい、また戻ってくる。
足音が、頭のすぐ上を通った。
誠は壁へ靴底を押しつける。
生徒会室の窓は、あと二メートル下にあった。
朝、鍵を外してある。
閉じて見えるよう、窓枠へ戻しただけだった。
風が吹いた。
誠の身体が横へ揺れる。
教室の窓が遠ざかる。
指に力を入れる。
黒い手袋が布へ食い込む。
ぶら下がる。
掛川アンナが黒板へ書いた単語が浮かんだ。
> Tarzan hung from a vine.
ターザンは蔓にぶら下がった。
誠は垂れ幕にぶら下がっている。
腰布ではなく制服で。
ジャングルではなく校舎で。
人を一人殺した直後に。
`hanged`ではない。
処刑されているのではないから、`hung`だ。
> The murderer hung from a banner.
殺人犯は垂れ幕にぶら下がった。
喉が一度だけ鳴った。
笑いだった。
面白いはずがない。
それでも、誠は笑った。
玲奈と一緒に、会社員のターザンを想像したときのように。
その玲奈は、今、下にいる。
笑いはすぐに吐き気へ変わった。
誠は口を閉じ、身体を振る。
一度。
窓へ近づく。
二度。
靴の先が窓枠へ触れる。
三度目で片足をかけた。
片手で布をつかんだまま、もう片方の手で窓を押す。
開いた。
誠は身体を窓へ投げ込んだ。
机の角へ肩を打つ。
床に倒れた。
痛みはあった。
声は出さなかった。
頭上から、恭介の声が聞こえる。
「玲奈」
弱い声だった。
続いて、何かを叫んだ。
誠には聞き取れなかった。
聞き取ろうともしなかった。
*
生徒会室には、誰もいない。
昨日、誠がそうなるようにした。
保管資料の確認。
真壁先生の立ち会い。
進路関係の書類。
存在しない仕事を三つ並べ、東に使用禁止を伝えた。
一つの嘘では不自然でも、三つ重ねれば事情があるように聞こえる。
東は納得していなかった。
それでも、ほかの役員へ連絡してくれた。
誠は床から起き上がった。
窓の外に垂れ幕が揺れている。
このまま残せば、屋上から誰かが逃げたことが分かる。
誠は窓際に仕込んでいた短い索を引いた。
一度では外れない。
二度目で、上から手応えが返る。
固定を解かれた垂れ幕が落ちた。
誠は窓から腕を伸ばし、布の端をつかむ。
引く。
県高校生政策提言大会最優秀賞の文字が、窓の中へ吸い込まれていく。
全部を室内へ入れるまで、長く感じた。
実際には、二十秒もかかっていない。
古い垂れ幕を床へ広げる。
縁が黒く汚れている。
誠の靴跡もついていた。
畳む時間はない。
棚と壁の隙間へ押し込み、前に段ボール箱を置く。
透明な保管袋は、そのまま棚の横に残した。
中身がないことまで確かめる者はいない。
そう思うしかなかった。
廊下から複数の足音が聞こえる。
屋上へ向かっている。
誠は自分の手を見る。
黒い手袋。
玲奈の腰を抱えた手。
玲奈の身体を押した手。
垂れ幕をつかんだ手。
同じ手だった。
右の手袋を外す。
指が震えている。
左も外す。
手のひらは赤くなり、布の跡が残っていた。
手袋を重ね、小さく折る。
鞄の底へ入れた。
鏡はない。
スマートフォンの画面を暗くし、自分の顔を映す。
髪が乱れている。
頬に埃がついている。
制服の肩には、窓枠の白い塗料が薄く付着していた。
誠はハンカチで頬と肩を拭いた。
髪を整える。
一度、息を吸う。
吐く。
もう一度。
人を殺す前の顔は、思い出せなかった。
だから、生徒会長の顔を作った。
*
廊下へ出ると、上の階から怒鳴り声が聞こえた。
「俺じゃない!」
恭介の声だった。
誠は扉を閉めた。
鍵をかける。
廊下の左右を確認する。
誰もいない。
そう見えた。
階段の方へ歩く。
途中から走った。
屋上へ続く階段の前には、生徒が集まり始めていた。
教師三人が、恭介の両腕をつかんでいる。
「下に玲奈がいる! 早く行けよ!」
その言葉で、生徒たちが窓へ向かった。
誠は声を出した。
「全員離れて!」
全員がこちらを見る。
生徒会長の声だった。
「先生の邪魔になる。教室へ戻って」
「五十嵐、橘が落ちたらしい」
誰かが言った。
誠は、初めて聞いた顔をした。
「橘さんが?」
自分でも驚くほど、自然な声が出た。
猫田が階段を駆け下りていく。
学年主任は恭介を押さえたまま、若い教師へ指示を出した。
救急車。
警察。
校門の封鎖。
言葉が飛び交う。
恭介は何度も同じことを叫んでいた。
「俺じゃない」
誠はその横を通った。
目を合わせなかった。
恭介は誠を見ていない。
誰も、誠を見ていない。
全員が、屋上から下りてきた少年を見ていた。
誠はそこで理解した。
恭介が玲奈を追うことは知っていた。
屋上へ来る可能性も考えた。
だが、罪を着せるつもりまではなかった。
ただ見られる前に逃げたかった。
結果として、恭介だけが屋上に残った。
教師に見つかった。
恭介のスマートフォンには、玲奈の写真がある。
偶然だった。
昼休みに恭介の席が空いたことと同じ。
誠が作った機会ではない。
だからこそ、逃せなかった。
「五十嵐」
学年主任に呼ばれる。
「ここを頼めるか。生徒を教室へ戻せ」
「分かりました」
頼まれた。
玲奈を殺した人間が、事件現場の秩序を任された。
誠は生徒たちへ向き直る。
「今は先生たちの指示に従って」
誰かが泣いている。
誰かが玲奈の名前を呼ぶ。
誰かが恭介を睨んでいる。
誠は一人ずつ、教室へ戻した。
いつものように。
問題が起きたときの、生徒会長のように。
*
救急車は、到着して十五分後にサイレンを鳴らさず走り去った。
代わりに、赤色灯を回した車が増えた。
校門が閉じられる。
生徒は教室ごとに待機させられた。
誠は自分の席へ戻った。
玲奈の机が斜め前にある。
鞄は屋上に残されている。
机の横には、体育で使った袋だけが掛かっていた。
朝まで、玲奈はここにいた。
英語のノートを開き、掛川の授業に笑い、友人と進路を話していた。
今は、いない。
誠がいなくした。
教室の前で、教師が説明している。
詳しいことは話せない。
橘玲奈が病院へ搬送された。
警察が確認している。
憶測を広めないこと。
途中で、誰かのスマートフォンが鳴った。
すぐに別の端末も鳴る。
ニュース速報だった。
> 青藍学園高等部で女子生徒が転落。同学年の男子生徒を確保。
教室がざわつく。
男子生徒。
名前は出ていない。
それでも、この教室の全員が恭介だと知っている。
誠のスマートフォンも震えた。
澪からだった。
> お兄の学校、ニュース出てる
続けて届く。
> 大丈夫?
朝、早く帰ってきてと言われた。
絶対と念を押された。
守れない約束をした。
誠は返信した。
> 大丈夫。僕は何もされてない。
送信する。
嘘ではなかった。
何かをされたのは、玲奈だった。
スマートフォンを伏せる。
その画面が、もう一度だけ震えた。
送信元の表示はない。
> 確認しました。
短い一文だった。
動画を消したとも、約束を守るとも書かれていない。
誠は返信しなかった。
机の下で、両手を握る。
手のひらの赤い跡が痛んだ。
*
東早紀は、悲鳴を聞いていない。
そのとき、一階の印刷室にいた。
聞いたのは、校舎の外から響いた大きな音と、その直後に廊下を走り始めた足音だけだった。
印刷を止め、廊下へ出る。
窓の外を見ようとする生徒がいた。
教師が上の階へ走っていった。
誰も、何が起きたのか分かっていなかった。
東は生徒会室へ向かった。
会長がいるはずだった。
保管資料の確認に立ち会うと、本人が言っていた。
階段を上がり、最上階の廊下へ出る。
その先で、生徒会室の扉が細く開いていた。
東は声をかけようとした。
やめた。
隙間から、誠が見えた。
窓際に立っている。
両手には、黒い手袋をしていた。
誠は右の手袋を外した。
次に、左を外す。
手袋を重ね、小さく折り、鞄へ入れた。
頬を拭く。
肩を拭く。
髪を直す。
それから、暗いスマートフォンの画面へ向かって表情を作った。
東は、廊下の角へ身を引いた。
理由は分からなかった。
見つかってはいけないと思った。
誠が生徒会室から出てくる。
扉へ鍵をかけ、左右を確認した。
東のいる角までは見なかった。
階段へ向かう。
途中から走り出す。
姿が消えてから、東は廊下へ戻った。
生徒会室の扉は施錠されている。
中には、誠しかいなかった。
真壁の姿はない。
資料を確認した形跡も、廊下から見える範囲にはなかった。
窓だけが、わずかに開いていた。
やがて、上の階から恭介の叫び声が聞こえた。
俺じゃない。
東は銀色の腕時計を見た。
時刻を覚えた。
そのあと警察が来た。
玲奈が死亡したと知らされた。
恭介が連れていかれた。
誠は生徒会長として生徒を誘導していた。
誰も、その姿を疑っていなかった。
東も、まだ疑うとは決めていない。
結論には情報が足りない。
だから、順番に並べる。
使用禁止にされた生徒会室。
来なかった真壁。
開いていた窓。
季節外れの黒い手袋。
その手袋を外してから、部屋を出た会長。
東は一つも忘れないよう、頭の中で書類の角を揃えた。
要点は、まだ本人に聞いていない。
第一章を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
物語は終わりません。第18話より第二章へ続きます。
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